(ロカマドゥールの断崖の上の城館)
10月9日(土)。曇りのち晴れ。
東はイタリアとの国境近くから、西はスペインとの国境近くまで、3日間かけてフランスの地中海側をバスで移動し、南仏の世界遺産を見て回った。
今日は一気にフランスの中北部へ移動。大長距離バス旅行だ。
途中、見学するのは、フランス中央山塊の西端にある世界遺産のロカマドゥールだけ。
あとは、ひたすらバスに乗って、お城めぐりで有名なロワール地方の町トゥールへ。そこが今夜の宿だ。
ロカマドゥールまで265キロで約4時間。ロカマドゥールからトゥールまでが370キロで約5時間30分。ツアーの日程表に、そう書いてある。
このブログで、バスの車窓から異国の風景を眺めるのが好きだと書いたが、今日は関空からパリまでの飛行時間よりもさらに長時間、バスの座席に座り続けなければならない。腰痛が悪化しそうだ。
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<ロカマドゥールって??>
フランスの人気の観光地のベスト5は、①モン・サン・ミシェル ②カルカソンヌのシテ ③エッフェル塔 ④ヴェルサイユ宮殿。その次がロカマドゥールだそうだ。年間150万人もの見学者があるとか。
ちなみに、この5か所は全て当ツアーのコースに入っているが、私はこのツアーに参加するまで、恥ずかしながらロカマドゥールという名を聞いたこともなかった。
ヨーロッパの12~13世紀は巡礼の時代。ロカマドゥールはそういう時代の巡礼地の一つとして、かつて栄えた聖地らしい。
下の写真のような奇岩絶景。
アルズー川の谷を見下ろす150mの断崖絶壁に、聖堂や礼拝堂群が建っている。
(ロカマドゥールの全体像)
「ロカマドゥール(Rocamadour)」という地名が文献資料に現れたのは、ウィキペディアによると17世紀。それよりも前、14世紀頃には「la roque de Saint Amadour」と呼ばれていたらしい。「聖アマドゥールの岩(ロック)」。聖人アマドゥールゆかりの聖地ということだ。
だが、巡礼たちがこの地を目指したのは、聖アマドゥールよりも、この聖域の中のノートルダム礼拝堂に祀られている「黒い聖母」だった。この聖母が奇跡を起こして、人々の願いをかなえてくれたのだ。
そうは言っても、我々は現代の価値観で歴史を裁いてはいけない。もし昔の人々が現代の世界を見れば、異様と思われても仕方のないことはいくらでもあるのだから。
上の写真に見るように、ロカマドゥールは3層の構造で成り立っている。
最上部は断崖の上で、司教の城館である。
第2層は断崖の中腹部で、ひときわ大きい聖堂と、ノートルダム礼拝堂など6つの礼拝堂によって構成されている。ここがこの聖地の中心となる「聖域」である。
第3層は、麓のシテ(City)。ひと筋の石畳の道がカーブしながら手前の方へ延び(写真では木陰に隠れている)、その道の両側に中世の家々が並んでいる。日本流に言えば門前町通りだ。
現在のロカマドゥールの人口は600人余りとか。
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<中世の巡礼の時代とロカマドゥールのこと>
イエス・キリストが生まれてもうすぐ千年という頃、人々は恐れた。
「新約聖書」の最終章の「ヨハネの黙示録」は終末 ─ この世の終わりの預言である。キリストの誕生から千年後、キリストは再臨する。「最後の審判」のために。
黙示録の歴史観では、終わりの日が近づくと戦争、飢饉、ペストなどが世界を覆い、やがてすさまじい天変地異とともにイエス・キリストが再臨する。再臨したキリストは「最後の審判」を行い、死者も生者も、全ての人が裁かれる。そして、心貧しく神とともに生きてきた人々のみが永遠の命を得て天国に行く。罪深く不信心な者たちは皆、「永遠の地獄」に堕とされる。
人々は恐れおののいた。 …… ところが、紀元千年を過ぎても、何も起こらなかった なぜだろう。
これは、聖母マリアが、我々人類のために審判の日を先延ばしするよう神にとりなしてくださったのだ。
そういう観念がキリスト教世界に広がっていった。この与えられた猶予の期間を大切にしなければならない。
ある人々は使徒的清貧の生活に入った。また、多数の人々が自己の贖罪のために、巡礼の旅に出た。
「聖母マリアは、もはや修道のための模範ではなく、神への仲介者、すなわち神にとりなしをしてくれる新しい救済者として現れてくる」。
「聖母崇拝の高まりとともに、多くの木造聖母子像が制作されるようになった」。
「その頃から、西欧世界を風靡する大聖堂のほとんどが、聖母マリアに捧げられるようになる。大聖堂の出現とその発展は、聖母崇拝の高まりと、その伝播の歴史といってよいのである」(以上、馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』から)。
人々が巡礼の旅の目的地としたのは、イエス・キリストが人類の贖罪のために処刑されたエルサレムの聖墳墓教会、イエスから直接に教えを受け殉教した使徒ペテロの遺骸のあるローマの聖ピエトロ大聖堂、同じく12使徒の一人として殉教した聖ヤコブの遺骸を納めるスペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラ大聖堂。
これら3大聖地に向かう途中には、イエスの十字架の切れ端をもつ教会とか、最後の晩餐のときの聖杯をもつ教会とか、聖母マリアが身に付けていた衣をもつ教会とか、或いは、各地で布教中に殉教死した聖人の棺を納めた教会など、さまざまな「聖遺物」をもつ教会が巡礼者たちを迎えた。
群れを成してやって来た巡礼者たちの寄進、喜捨によって、それまでの粗末な教会が「ノートル・ダム」(我らの貴婦人の意。聖母マリアのこと) の名を冠したゴシックの大聖堂に建て替えられ、巡礼の行く道筋には宿泊施設や病院も建てられ、彼らを保護するため騎士団も結成された。
12世紀。ロカマドゥールも、そのような聖地の一つとして成立した。
ロカマドゥールの断崖付近からは、先史時代の人々の生活の跡や地下墳墓が発見され、また、ケルト(ガリア)人たちの砦の跡も認められるそうだ。
しかし、現在残っている文献資料によると、12世紀の初頭にこの断崖に小さな礼拝堂が造られ、すぐにチュールのベネディクト派修道院長が移り住んだという。
12世紀の半ばには、ここに祀られていた「黒い聖母」の像の奇跡が評判になり、巡礼が群れを成して訪れるようになった。すると、ロカマドゥールの名の起源である聖アマドゥールの遺骸も発見された。
修道院長は、巡礼者たちの寄進・喜捨によって、壮麗な聖堂や礼拝堂の建造を進めていった。
13世紀の終わり頃が、ロカマドゥールの巡礼のピークだったようだ。教皇はロカマドゥールを巡礼した人に贖宥状を発行した。
(聖域の建築群とその上の城館)
14世紀になると、英仏百年戦争、ペストの流行、飢饉などがヨーロッパを襲い、巡礼者も減り、巡礼者の世話をした修道士たちも去っていった。
16世紀の宗教改革の時代には、新教側の傭兵に襲われて、ロカマドゥールは略奪・破壊された。
さらに、18世紀のフランス革命のとき、民衆に襲われ略奪・破壊された。
19世紀になって、フランス政府は歴史文化財保護の取り組みを始め、19世紀の末にロカマドゥールの大修復工事が完成して、今、見るような姿を取り戻した。
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<ロカマドゥールを見学する>
(お断り) 人口600人余りの限られた空間に年間150万人もの観光客が押しかけるのだから、写真を撮ろうと思っても、人、人、人。レンズの中は欧米人の姿ばかりになる。残念ながら、聖堂や礼拝堂の外観も、内部の様子も、満足に写真撮影できなかった。アヴィニョン教皇宮殿の内部と同様である。
それはともかく、中世の巡礼者たちは門前町を通り過ぎると、第2層の聖域に通じる216段の急峻な石の階段を昇った。それも、足ではなく、膝で昇って行ったそうだ。イエス・キリストが十字架を背負ってゴルゴダの丘に上がっていったときの苦しみを追体験するためである。
一方、私たち現代の旅行者は、膝で歩くどころか、断崖をくり抜いて造られたエレベータで一気に聖域まで昇った。(文句を言っているのではありません)。
(聖域のエレベータの昇降口)
断崖の岩をくり抜いたエレベータには驚いた。これもまた、現代のヨーロッパ文明である。観光で生きるスイスなどはもっとすごい。
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聖域には、サン・ソヴール聖堂と付属する6つの礼拝堂がある。その2、3か所を見学した。
(聖 域)
こんな断崖の上に、どのようにしてこれだけの石を積み上げ、築いたのだろう。中世のヨーロッパもすごい。
ノートルダム礼拝堂の奥まった一郭の高い祭壇の上に、「黒い聖母」の像が祀られていた。薄暗く、人々の頭越しで、よく見えなかったが、意外に小さく感じた。たぶん木彫りで、ふつうにイメージする聖母像とはかなり違う。何か原初的なエネルギーを感じさせる、アルカイックな顔・形に見えた。
黒い聖母の像はフランス各地にその存在が認められているが、ロカマドゥールの黒い聖母は奇跡を起こし、例えば、船乗りたちの信仰も集めたそうだ。船乗りたちが海で嵐に遭ったとき、遥かに遠い山中のこの礼拝堂の鐘が鳴り、奇跡を起こして助けてくれたという。
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ノートルダム礼拝堂の横から、地下礼拝堂へ降りた。
(地下礼拝堂)
ここは、「ロカマドゥール」のいわれとなった聖アマドゥールが埋葬されていた所だ。
アマドゥールという人がどういう聖者であったのか、よくわからない。この地に最初に隠棲した聖者とも言われる。その聖者の遺骸が12世紀に発見され、聖遺物となった。
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エレベータで、さらに上層に昇った。
(城 館)
断崖の天辺に造られた建造物はツール司教の城館。巡礼者の保護にあたったという。
(城館のテラスへ)
内部は見学できなかったが、テラスから眺望を楽しむことができた。
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城館から聖域までの下りは、エレベータを使わず、山道を歩いて下りた。
のどかな山の中の小道は、「十字架の道」と名付けられている。
(十字架への道)
道沿いの所々に14の祠が置かれ、その中にイエスの受難を描いたレリーフが納められていた。山道を歩くと、それらが小道の茂みの脇に現れて、カソリックらしい雰囲気が感じられた。
聖域から麓までは、また、エレベータで一気に降りた。
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<黒い聖母について>
フランス文学者の田中仁彦氏は、その著『黒マリアの謎』(岩波書店)の「あとがき」に、このように書いておられる。
「アカデミックな美術史学者アイリン・フォーサイスは、 …… 黒マリアの黒という色を『土俗信仰に属するもの』ときめつけ、『そのようなものには関知しない』と言い切っているのであるが、筆者(田中氏のこと)にとってはまさに『土俗信仰』こそが問題だった。
土俗信仰とは、 …… 人間の心の古層である。そして、黒マリアとはまさしく、地表に露出しているこの古層なのだ。黒マリアを訪ねて歩きながら次第にわかってきたことは、この旅が、いわば、幾重にも重なった歴史の地層を通り抜けてこの古層に向かう旅だったのだということである」。
「黒い聖母」の像は、西ヨーロッパに広く分布しているそうだ。
だが、その多くはフランスである。
フランス全土に広がっているが、集中しているのは、ピレネー山脈の東部(カルカソンヌを含む)、中央山塊のオーヴェルニュ地方、そして、プロヴァンスの山間部である。
要は最もフランス的なものが残されていると言われる地方である。
フランスの文化の地層は、3層構造になっている。
古層には、アニミズム的な色合いの濃いケルト (フランスではガリア) の文化がある。
第2層は、ローマ文明。ただし、ローマ文明は多神教だったから、ケルトの神々も寛容に受け容れた。
例えば、ローマに残るパンテオン神殿は円形である。それは、全ての民族・諸族の神々を上下の別なく祭壇に祀るためである。
第3層は、一神教のキリスト教の文明である。
ヨーロッパがキリスト教化していくと、ローマのパンテオンも一神教のキリスト教会に変えられた。神は唯一絶対で、他者と共生しない。
キリスト教化が進む以前の第1層と第2層のガリア(フランス)には、ケルトの神々が生きていた。
ガリアでは、「大地」は実りをもたらすものとして敬われた。フランスの大地は豊かで黒い。黒い大地が穀物を育む。大地は、豊饒を表す母なる神であった。
大地母神への信仰は、ローマ世界 ── ギリシャ、アナトリア (今のトルコ)、エジプト、そしてガリア地方(フランス) ── に広がっていた。
中世になり、キリスト教の布教は自ずから人の集まる都市部を中心に進められた。司教座は都市に設けられた。
他方、農村部には、キリスト教の教えは十分には届きにくかった。
木村尚三郎『西洋文明の現像』から
「キリスト教は、本質的に都会人の宗教であった。…… 異教の神々、古代ケルトや古代ゲルマンの神々は、死に絶えはしなかった。…… キリスト教が都市を支配したのに対し、それぞれ不思議な力をそなえた異教の神々は、森と農村の広大な世界を意外にも17、18世紀まで支配していた。すぐれたキリスト教聖職者は都市に集中してしまい、村の司祭は長い間無学であった。異教の神々との共存や妥協なしには、キリスト教は農村に入ることができなかった」。
農民たちは、司祭から教えられた「聖母マリア」を、「大地母神」のイメージと重ね合わせながら受け入れた。それが、黒い聖母である。
「黒い聖母」については、そのように理解されているようだ。
ロカマドールの黒い聖母の像を本の写真で見ると、その顔形は素朴で、原初的で、異教的である。
しかし、ミケランジェロやラファエロの美しすぎるマリア像と比べたら、この木彫りの古拙の像にこそ、農民の思いを受けとめる大地のエネルギーが宿っていたのではないかと思った。
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ロカマドゥールからさらにバスで5時間半。バス旅はこたえた。