ドナウ川の白い雲

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ルネッサンスの教皇たちがつくった美術館…早春のイタリア紀行(17)

2021年05月26日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

 フランスの画家ジョルジュ・ルオー(1871~1958)の描いたイエス・キリストの顔。

 ルオーはパリの国立美術学校で学んだ。師はギュスタープ・モローで、同期にマティスがいる。同期の2人の画風は全く異なるが、友として生涯、互いに敬愛しつづけた。

 バチカン美術館にあるこの絵は、ルオーという画家が思い描いたイエス・キリストの顔である。もしレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロがこの絵を見たらどう評価するだろうかと思う。ひょっとしたら酷評するかもしれないが、私には中世、ルネッサンスのどの宗教画よりも、この絵に福音書のイエスを感じる。不純物 ── カトリックの教義だとか、個々の画家自身の野心だとか ── そういうものを取り去って、「野のユリを見よ」と語った福音書のイエスに思いを致せば、このような絵になるのではないだろうか。

 そう言えば、ルネッサンス初期の画家でただ1人、この絵を評価するかもしれない人がいる。フィレンツェのサン・マルコ修道院の「受胎告知」を描いたフラ・アンジェリコ … 。

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<バチカン美術館の起源>

 バチカン美術館は、サン・ピエトロ大聖堂の北側に隣接する。もともとは、教皇の公邸であるバチカン宮殿だった。現在、宮殿として使用されているのは、サン・ピエトロ大聖堂に隣接する一角だけのようだ。

 

  (バチカン美術館付近)

 タクシーで着くと、美術館のチケット売り場には行列ができていた。入口付近も時間待ちする観光客で賑わっている。そういう人々の中に、例の「赤ちゃん」を抱いた女性もいた。落ち着かない目つきの男もうろうろと歩いている。

 日本でネット予約していたから、チケット売り場に並ぶ必要はない。この人ごみの中にぼんやりと立っているのはまずいと思い、近くのバールでティータイムにした。

      ★

 バチカン美術館の起源は、サン・ピエトロ大聖堂の再建を号令した剛腕の教皇ユリウス2世(在位1503~1513)に遡る。なにしろこの教皇は、イタリア中部にあった「教皇領」に盤踞していた豪族貴族を蹴散らして、教皇王国を確立するため、自ら軍を率いて出陣した人である。

 時は、古代の復興が謳われたルネッサンスの盛期。

 そのユリウス2世のもとに、ローマ市のブドウ畑から古代の彫像群「ラオコーン」が発掘されたという情報が入った。教皇はミケランジェロらに確認に行かせ、大枚のカネを払ってこれを引き取った。そして、新築のバチカン宮殿の「ベルヴェデーレの中庭」に置いた。また、それまでに買い集めていた古代彫刻もそこに並べて展示した。

 以後、歴代の教皇はカネに糸目をつけず古代エジプトから古代ギリシャ・ローマの美術品を収集し、また、同時代のルネッサンスの美術家には宮殿の天井画や壁画を描かせた。

 その後も、近現代に至るまで、多くの美術品が寄贈されたり、収集されたりする。

 歴代の教皇はそれらの美術品を、教皇宮殿の敷地に次々建て増した美術館や回廊や邸宅に並べた。

 こうしてできあがったのがバチカン美術館である。今や、世界有数の大美術館である。

 美術館の中は迷路のような複雑さ。全行程を歩けば7㎞になるそうだ。モデルコースが設定され、色分けされているから、要所要所で色の目印を確認しながら進路を取れば良い。一番短いコースで1.5時間、いちばん長いコースは5時間である。

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<ミケランジェロの「天地創造」と「最後の審判」>

 1997年の「初めてのイタリア旅行」のとき、ローマの最終日はフリーだった。早朝、一緒にツアーに参加していた友人と2人で郊外のホテルを出発し、列車と地下鉄を乗り継いで、開館1時間前のバチカン美術館のチケット売り場に並んだ。

 『ローマの休日』のローマも自分の足で歩いてみたかったから、バチカン美術館の見学は午前中と決めていた。それで、いちばん短い1.5時間コースを歩くことにした。

 目標もシスティーナ礼拝堂にしぼった。バチカン美術館の最高傑作とされるミケランジェロの天井画「天地創造」と祭壇壁画「最後の審判」はぜひ見たい。あとはいいと、わりきった。

 迷路のようなコースを、大勢の見学者の間をすり抜けながらひたすら歩いた。そしてついにシスティーナ礼拝堂の扉の前に到達したときは、胸が高鳴った。

 しかし、中に入って、頭上遥かに天井画を見上げたとき、自分でも意外だったが、「えっ!! これは、日本の劇画だ!!」 と思った。美術史上最大の芸術家に対して誠に不遜極まる感想である。

 天井画はコマ組になっているから、余計、漫画のように感じたのかもしれない。それにしても、天地を創造し人間を創造した「神」までが裸で、しかも不自然なほどにマッチョなのだ。この絵を見て、キリスト教徒は本当に「神」を感じるのだろうか??

 ずっと後に、自分のその時の印象も一概に否定されるべきではないのかもしれないと知った。美術史上では、マニエリスムというそうだ。以下、「コトババンク」からの要約。

 マニエリスムは、「ルネッサンスからバロックへ移行する過渡期に」、「ローマやフィレンツェを中心に起こり、西洋全体に及んでいった芸術様式」。「盛期ルネッサンスとりわけミケランジェロにその萌芽を見ることができる」。宗教改革や政治的動乱による「不安な世相」が背景にある。「調和・均衡・安定を重んじる規範的理想美に対する反発から」生まれ、「……その特色は人体表現において顕著で、誇張された肉付け …… 派手な色彩などが認められる」。

 均整の取れた古典的な美であるルネッサンス芸術に反発して、バロックはわざと調和を乱し、激しい動きを表現し、見る者に動的・劇的な訴えかけをしようとした。美術史的には、そういうバロックへの第一歩目がミケランジェロだったのではないかと思う。もちろん、本人の意図したことではないだろうが。

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<ラファエロの「アテネの学堂」>

 時間になり、係員にバウチャーを見せると中へ入れてもらえた。チケットブースでチケットに代えてもらう。

 今回は3.5時間の『地球の歩き方』オリジナルコースを歩いてみることにした。『地球の歩き方』のマップを手に、迷路のようなコースを自分で歩いて行く。

 それでも、目標は1つに決めた。「新回廊」の「プリマポルタのアウグストゥス帝」の像。

 アウグストゥスは初代のローマ皇帝(在位BC27~AD14)としてパクス・ロマーナをつくり出し、当時としては高齢の75歳まで生きた。この像は、兵士たちを前にスピーチする比較的若い時代の姿だという。

 19世紀、フラミニア街道沿いのプリマポルタという地で、アウグストゥス帝の妻リヴィアのヴィラと思われる邸宅跡が発見された。2000年も前の遺跡だ。その邸宅跡にアウグストゥス帝の像があった。

 皇帝の死後、老妻が大切に手元に置いていた若き日のアウグストゥスはどのような男だったのか、それを見たいと思った。

 中庭から入り、最初の「エジプト美術館」は、古代エジプトの発掘品の数々が展示されて興味深かった。

 「キアラモンティ美術館」は、古代ギリシャ・ローマ時代の1000体もの彫刻が並んで、楽しく鑑賞できた。古代ギリシャ・ローマの古代彫刻は、端正で、しかも、どこか古拙の味わいを感じる。

 肝心のアウグストゥス像のある「新回廊」は、なんと工事中で閉鎖されていた。かなりがっかりした。

 「ピオ・クレメンティーノ美術館」も、例のラオコーン像をはじめ、古代ギリシャ・ローマ時代の教科書に出てくるような彫像の数々が陳列されていた。

 続く5つのギャラリーは、若干の強弱をつけながらもほぼ素通りした。

 今回の収穫は、続く「ラファエロの間」だ。

 私の幼稚なラファエロの絵のイメージは、貴族のお姫様のような聖母像を描く画家だった。

 だが、ここに展示されている大作の数々、中でも「アテネの学堂」は、構成も大きく、色彩も美しかった。何よりも宗教的なくさみがなく、人間の知性が描かれているのがいい。

  (ラファエロ「アテネの学堂」)

 階段の中央に並んで会話しながら降りようとするプラトンとアリストテレスの雰囲気がいい。互いにリスペクトし合う両者の知性と品格を感じる。白髭のプラトンの顔は、ラファエロが最も尊敬したレオナルド・ダ・ヴィンチをモデルにしているそうだ。

 階段の途中、左側に頬杖をついて自分の世界に閉じこもっているヘラクレイトスは、ラファエロがこの絵を描いている時、システィーナ礼拝堂の天井画を描いていたライバルのミケランジェロがモデルだという。敬意を表して、最後にここに描き加えたそうだ。

 ラファエロの間からさらに歩いて、システィーナ礼拝堂へ。この部屋の中で、教皇選出のコンクラーベが行われる。そう思うと興味深かった。

 出口も間近な部屋には、まるでその他大勢というように、ゴッホ、マチス、ルオー、シャガールなどの近代絵画の名作が数多く架けられていた。

 ルオーの絵も何点かあった。

  (ルオーの絵)

 「塔、樹木、月かもしれぬ太陽、夜かもしれぬ夕暮れ …… 。ルオーによる福音書では、キリストの説話は、ほとんど一つしかないようだ。キリストと貧しい人たちとの会話である」(柳宗元)。

   話ながら道を歩いてくる白い服の人が、イエスかもしれない。

       ★

<スイス人衛兵>

 バチカン美術館を出て、サン・ピエトロ大聖堂へ。

 ここはカトリックの2大巡礼地の1つ。もう1つはエルサレムの聖墳墓教会。

 3大巡礼地と言えば、イベリア半島の北西の果て、大西洋もま近な地に建つサンチャゴ・デ・コンポステーラ大聖堂。

 要所に、制服姿のスイス兵が警護に当たっている。

 (スイス兵)

 バチカンには教皇の護衛としてスイス人衛兵が常駐している。

 スイスは今は豊かな国だが、昔は貧しく、次男や三男は国外へ出稼ぎに出た。傭兵のスイス兵は強く、しかも、忠誠心があるとされた。

 特に、フランス王家やバチカンの傭兵として働いた。フランス革命の時には、王宮の中に押し寄せた革命派の民衆によって多くのスイス兵が無抵抗のまま殺された。王から、発砲するな、抵抗するなと命じられていたから、命令を守ったのである。そのとき死んだ兵士たちを悼んで、スイスのルツェルンに「瀕死のライオン像」が作られている。この頃からフランス革命は暴走を始めた。

 そういう伝統を受け継ぐバチカンのスイス人衛兵は、スイス国内のカトリック教会から推薦を受けた人で、カトリック信徒のスイス人男性であることが条件だそうだ。

(次回は、「サン・ピエトロ大聖堂」です)。

 

 

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