ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

時よ、止まれ ─ ブルージュ散策 … ネーデルランドへの旅(6)

2017年11月25日 | 西欧旅行…ベネルクス3国の旅

   ( ブルージュの街並みを映す運河 )

 ※ 一旦、発表した後、「フランドル伯」についての記述を少し修正しました。

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 ツアーの4日目はベルギーの3つの都市 ── ブルージュ、ゲント、ブリュッセル ── を訪ねる。

   午前中は、ブルージュを散策。運河の街を歩き、運河めぐりの遊覧船にも乗った。

 ブルージュの印象を仏文学者で西洋美術にも詳しい饗庭孝男氏は、次のようにつづっている(『ヨーロッパの四季』東京書籍から)。

 「(ホテルの)私の部屋は2階にあり、窓からは道をはさんで運河が見え、その向こうに暗褐色の煉瓦づくりや、白い壁の家並があった。今はもう使われない小さな船着きの古い石段が、静かな波に洗われ、水藻を青く漂わせている。それを見ると私はヴェネツィアの裏通りの運河沿いにある家々を思い出した。白鳥が時折動いてゆく。舟が通ってゆく以外、水面は繁栄を失ったこの町のように、幻のような家々の姿を映している」。     

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 「ブルージュ」は英語読みである。私の使っている世界地図帳では「ブルッヘ」。その方が一般的なのかもしれない。他にも、いくつかの呼称がある。その国の公用語が2つも3つもあったりすれば、自ずから日本での呼び名も多様化する。

 ただ、日本での呼び方はいろいろあっても、町の名の由来は「橋」である。町の周囲も町の中も運河が縦横に流れて、そこに50以上の橋が架かっている。橋の町なのである。

 町の起こりは9世紀だ。初代フランドル伯のボードゥアンⅠ世が、ここに城塞を築いたのが始まりである。

 フランドル伯は、この地方で864年から1795年までの長きにわたって続いた名門の伯位である。(同じ家系がずっと続いてということではない)。西フランク王国(フランス)と封建関係にあったが、東フランク王国(ドイツ)との境界に位置し、緩衝地帯となった。また、イギリス王家とも婚姻関係があった。

 このブルージュがブルージュ(橋)に大変身したのは、12世紀である。フランドル伯の下、15キロ先の北海のズウィン湾まで運河が通され、町の中にも水路が張り巡らされたのだ。その結果、この町は、フランスやドイツの内陸部と、北欧や英国とを結ぶ交易の要衝として一大飛躍を遂げるのである。

 13~14世紀は、ブルージュが光り輝いた世紀である。ハンザ同盟の商館が置かれ、東方貿易に携わる地中海の海洋都市国家の商船までが、遥々と大西洋経由でやって来るようになった。ブルージュは貿易・金融の一大拠点となり、市民たちは力をつけ、豊かになり、その財力によって、今見るような美しい街並みを築いていった。

 この町の衰亡は意外に早くやってきた。15世紀になると、北海への出口のズウィン湾に土砂が堆積していき、ついには商船が出入りできなくなったのである。町は一気に衰退した。

 その結果、ブルージュは、中世の景観をそのままに残す化石のような町として、時代から取り残された。

 だが、中世の街のまま取り残されたことが不幸中の幸となり、19世紀に観光の町として再生するのである。もう商船が行き交う時代ではなくなったが、観光用に運河が再生され、風と光とカリヨンの音色の響くかつての「水の都」として、世界の観光客を集める街に生まれ変わったのである。

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 ブルージュの散策の出発点は、昨夜のマルクト広場から。町のシンボルの鐘楼を仰いで、お隣のブルグ広場へ行く。

 ブルグ広場には、装飾の美々しい市庁舎の建物がある。

   ( ブルグ広場の市庁舎 )

 市庁舎の右隣に聖血礼拝堂。その名のとおり「聖血」が、この町の大切な聖遺物として祭壇に納められている。12世紀の第2回十字軍のときにエルサレムに遠征した当時のフランドル伯が、義理の兄弟であるエルサレム王からもらって帰ったとも、コンスタンチノープル(イスタンブール)から持ちかえったとも伝えられている。毎年、イエス昇天の日に、中世の装束をした1800人の市民らが「聖血の行列」を行い、世界から5万人の人々が見学にやって来るそうだ。

 それにしても、イエスの死を前にして、弟子たちや2人のマリアが気も動顛して嘆いていたというのに、十字架上のイエスが流す血を壺か何かで受けた人って、どういう神経なんでしょうか?? 想像すると、かなりおどろおどろしい光景である…。

 或いは、例のごとく、その人の前に天使が現れて、お告げをしたのかもしれない。「あなたは自宅の壺を持って十字架の下に行き、イエスの血を受けなさい」。そういう話が、四福音書の外典に残されているとしたら、話もきれいになるかも…。

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 ブルージュは煉瓦の街である。

 煉瓦色の家並みの中に、時折、瀟洒な白壁の邸宅が混じる。白壁の家がいくつか並ぶ地域もある。

 今は商船の行き来もなく、荷揚げや荷積みの喧噪もなく、運河はしんと静かで、白鳥が水を切るだけだ。

 少し歩けば、家並みの上に、町のシンボルである鐘楼がのぞいて見える。

     ( 家並みの上の鐘楼 )

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 町のどこからでも目につくのは、聖母教会の塔も同様である。町のシンボルの鐘楼よりも背が高くて、122mもある。煉瓦造りの塔としては、世界一の高さと言われる。

   ( 聖母教会の塔 )

 煉瓦の橋を渡って、ゴシック様式の聖母教会へ入った。

 

      ( 聖母教会へ )

 南側の祭壇には、ミケランジェロの聖母子像があった。西洋旅行をしていると、行く先々の教会に聖母マリアの像をよく見るが、どれも似ているし、それぞれに違いもある。中世を終わらせ、ルネッサンスを切り開いた巨匠たちの一人ミケランジェロは、どうしてマリアの顔をこのように造形したのだろうか … 。

 どれも似ているというのは、マリアはたいていどれも、私には「冷たい顔」をしているように見えて、例えば、わが子を抱いて愛おしそうに微笑む顔を思い出せないのである。「聖母」は永遠の母性。もっと柔和な、優しい顔をしていてもいいのではないかと、不信心な私は思う。

 ( ミケランジェロの聖母子像 )

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 ベギン会修道院の建物も美しい。

 ヨーロッパ中世において、女性は結婚するか修道女になるかしか、生きるすべがなかった。ベギン会は、12世紀のベルギー・フランドル地方で起こり、女性の自立を支援するために、女性だけで組織された共同体である。13の修道院がつくられ、今は一括して世界遺産に登録されている。  

       ( 橋を渡ればベギン会修道院 )

 ブルージュのベギン会修道院は、1245年にフランドル伯夫人によって創設された。

 白鳥の群がる運河の橋を渡り、門をくぐると、森の木立があり、静寂が支配していた。その木立の向こうに、女性たちが暮らした白壁の家が並んでいる。

     (ベギン会修道院の白い建物)

 いわゆる修道女ではない。ここで暮らした女性たちは、朝のミサが終われば、レース編みをしたり  (今もこの地方の伝統産業である) 、夕のミサまで町に出て家庭教師をしたり、病院で働いたりした。自立して生きるための経済活動をしたのである。修道女ではないから、退会して結婚することも認められていた。女性が自立し、自己決定することを大切にしたのである。         

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   運河クルーズも楽しんだ。水面に近い位置から眺める街も良かった。

       ( 運河クルーズ )

 

   ( 街角の聖母子像 )

 「角にあたる家の軒に陶器の聖母子像が見える。春だとその下に花々が供えてあるのであった」(饗庭孝男『ヨーロッパの四季』 から)。

 午後からは、バスでゲントとブリュッセルをまわった。

    

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