< 第2日目の旅の計画 >
2日目は何とか晴れた。今日は忙しい。
まず太宰府政庁跡を見る。今は何もない原っぱのはずだが、そこに立てば、太宰府のイメージがもっと生き生きしてくるはずだ。
次に、時代は一気にさかのぼって、あの「魏志倭人伝」に登場する「奴国」と「伊都国」の跡に建つ資料館に寄る。今は、「奴国」や「伊都国」の姿をイメージできるようなものはないだろうが、少なくともクニとクニの相互の距離感や玄界灘との距離感を、車で走って体験できる。
道すがら、仲哀天皇の香椎の宮にお参りする。時代は古墳時代だ。
そのあと、玄界灘に長細く突き出した砂洲・「海の中道」を走って志賀島に渡り、志賀海神社を訪ねる。志賀海神社は海人族とされる安曇氏が祀る神社で、今日の行程の中では最もロマンをかきたてられる目的地だ。
今夜の宿は、その志賀島の先端にある国民休暇村である。
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< 今は広々とした原っぱの太宰府政庁跡 >
昨日、見学した九州国立博物館の玄関口に、「太宰府政庁」のりっぱな模型が陳列されていた。
太宰府と言っても古代のこと、どうせ草深い田舎の役所だろうと、長年、勝手なイメージを描いていた。菅原道真が、流刑されたと嘆いたくらいだから。
今回、旅に先立って、少しばかり最新の考古学情報を仕入れた。そして、大宰府政庁が、最近、奈良の平城宮跡に復元された朱雀門や大極殿を思わせるような壮麗なものであることを知った。
( 太宰府南大門の模型 )
私の歴史知識は、高校時代に勉強した「日本史」である。そのころ、太宰府政庁跡の発掘調査はまだ行われていなかった。だから、当時、日本史の先生でも、太宰府政庁の実際の規模や太宰府を守るために築かれた水城 (ミズキ) の構造などはイメージできていなかった。
私の太宰府のイメージに多少とも血が通うようになるのは社会人になってからで、万葉歌人として著名な山上憶良が筑紫の国の国司であったことや、「貧窮問答歌」は筑紫の国の守であったころの作品であること、それに彼が渡来人の2世かもしれないということも知った。
山上憶良の上司に当たる当時の太宰府の帥(長官) ── 3位以上で、かつ参議以上の人たちがいわば閣僚で、20人くらいいた。大宰府の帥は4位で、閣僚に次ぐポスト。偉いのだ!! ── が、万葉歌人として憶良と歌を詠み交わす大伴旅人であること、大隅国一円で起こった大規模な反乱の折、旅人は司令長官として九州各地から兵を動員し、これを鎮圧したことなども、社会人になってから加わった知識である。大伴氏はもともと大王の軍事を司る一門で、「万葉集」を編集した歌人・大伴家持は旅人の子息である。
今回、旅に先立って、少しばかり考古学的な情報を得た。そして、太宰府や水城のことを改めて知り、ただ驚いた。
物量のことである。物量とは文明である。太宰府政庁の規模、さらにはその太宰府を守るために造られた水城の規模や構造に驚いた。古代、恐るべし、である。
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昨夜、宿泊した二日市温泉から、街の中の道を車で40分ほど走って、太宰府政庁跡に着いた。
( 南大門跡のあたり )
雨上がりの緑はみずみずしく、街中を走って来た目には、大きな木立に囲まれた、何もない広々とした原っぱはいかにも心地よかった。三々五々にたむろする高校生の遠足グループ、小学生の遠足のグルーブは一列の長い列、一般の観光客も思い思いに散策したり、座っておやつを食べている。
木立に囲まれた見渡す限りが、太宰府政庁の敷地の跡である。
( 正殿はやや左上のこんもりした辺り )
(正殿跡の「都督府古址」の碑)
( 小学生の列 )
原っぱの隅に、太宰府展示館の建物があったので、入って資料を見た。
手前が南大門、奥が正殿である。
歴史上、古代日本の最大の危機は、中国大陸に超大国・唐が生まれ、「膨張」を始めたときである。
日本に情報が入ってきた時には、日本の友好国・百済は唐の一撃で滅亡させられていた。さらに唐は手こずりながらも、強国・高句麗を亡ぼす。さらに矛先を新羅に向けて、朝鮮半島全域を支配下におこうとしたが、ついに長年の戦争にいきづまり、兵を引き上げた。
この間、百済侵攻の660年から新羅からの撤退の676年に至る、おおよそ15年~20年間である。
660年、唐・新羅軍の侵攻による百済の滅亡の後、蜂起した百済独立軍を助けるべく、日本は国力を挙げた派兵を行うが、663年の白村江の戦いにおいて唐の水軍に大敗する。
勢いに乗った唐軍がいつ海を越えて侵攻してくるかわからない。そういう恐怖と緊張のなか、665年(天智4年)、かつては博多湾にあった外交の役所を、もう少し内陸部に移動させ、日本防衛の最前線の司令部として設置したのが、「太宰府」である。これが第1期政庁である。
それから約50年後、唐の膨張がおさまり、東アジアの情勢が安定して、大陸との交流が盛んに行われるようになる。
そこで、708年~717年ごろ、 太宰府政庁は、唐や新羅の使者を受け入れ、ヒト、モノ、カネが行き交うにふさわしい威厳と壮麗さをもった建物へと建て替えられた。
その政庁の敷地の広さは、東西約111m、南北が約211mであった。(第2期政庁)
また、その政庁を中心に条坊制に基づく官衙・居館が建ち並ぶ近代都市・太宰府もできあがる。一説によると、それは、東西26キロ、南北24キロに及ぶ、ほぼ正方形の街区をもっていたとされる。
平安時代、第2次政庁は、一度、藤原純友の乱によって焼失する。
第3次政庁は、純友を討ち取った4年後の941年に、第2次政庁とほぼ同規模・同構造で再建された。
現在、復元されている模型は、第3次政庁のものである。
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いま、そこには何もない。周囲をこんもりした木立に囲まれ、広々とした原っぱと、3つの石碑と、わずかに石畳や石段の跡が残るのみである。
そこに、高校生や小学生がやってきて、歴史を勉強する。
その風景を見ながら、古代日本は、想像していたよりもずっと頑張っていたんだという思いが、青い空に浮かぶ小さな白い雲のように、胸にぽかりと浮かんだ。