( 萩城の指月山 )
[ 萩 ]
萩は、歴史の中の町だ。城下の城跡公園まで行くと、日本海を望んで、美しい。
自転車を借りて、一日、維新の歴史をたずねた。
城址近くには、上級武士の邸宅跡が並ぶ。崩れた塀やその奥に見える屋敷の姿から、昔日の立派な面影がしのばれる。
ただ、その一軒ごとの敷地の広さは、村方の庄屋の屋敷と変わらないように思え、江戸時代が身分制度ほどに、格差のあった社会かどうか、考えさせられる。
100石を超える程度の中級武士の屋敷群は、武家屋敷街として、一画が残されており、散策して楽しい。藩医の家だった桂小五郎邸も、高杉晋作の家もある。質実な書院造りとともに、いずれも小さいながら庭があって、ゆかしい。こういう家は、安らぎを覚える。
( 中級武士の武家屋敷街 )
下級武士の家は、城下の外れにある。吉田松陰の実家(彼は子どものころ、吉田家に養子に出た)は、城下を離れた不便な丘の上にあり、その叔父で、子どもの松蔭に勉強を教えた玉木の家も、こんな小さな家に家族で住んでいたのかと驚くほど、小さい。貧農の家と変わらないだろう。
( 松下村塾 )
( 玉木叔父の居宅 )
( 松陰の生家の小さな敷地跡 )
自転車を走らせていると、あちこちの家の塀の上から、夏蜜柑の実がのぞいている。そのみずみずしさが、往時の青春をしのばせる。
( 白壁からのぞく夏蜜柑 )
松蔭は、国禁を犯してペリーの黒船に乗り込み、アメリカに連れて行ってほしいと頼んだ。今、まず必要なことは、敵の文明度を知り、学ぶことだ。だが、もちろんペリーは許可せず、幕府に捕らえられ、最終的には死刑になる。そういう運命が待ち構えていることはわかりながら、彼は、まっすぐに行動していった。吉田家は学者の家であり、彼の思想・行動は、いかにも書生的である。青春とはそういうものだ。
江戸で死刑になるまで、長州藩に預けられた間、藩はこの若者を惜しんで、出来る範囲の扱いをしてやった。藩も、若者を大切にした藩である。
松下村塾は、藩に預けられていた間に生まれた。天下の英才を集めたのではない。近所の下級武士や百姓・町人の子弟が集まった。ディスカッションが多かったらしい。松蔭先生は、一人一人の特徴をつかみ、一人一人とディスカッションし、一人一人に期待した。この塾から出た若者たちが、日本を変える。天下の英才を集めて教育したわけではない。
( 松陰神社 )
高杉晋作は、高杉家の一人息子で、もちろん長男であったが、父親がまだ現役であったから、部屋住みであった。文字どおりの書生身分である。長州が連合艦隊と戦って敗れたとき、藩は人選をし、部屋住みの晋作を家老と偽って、講和の使者に送り出した。晋作も可笑しいが、長州藩という藩も可笑しい。
( 詳しくは、司馬遼太郎 『世に棲む日々』 文春文庫4巻 を参照)
薩摩の西郷や大久保がすでに熟達のリーダーであり、十分に策士であるのに対し、長州のリーダーたちはいかにも青くさい書生である。
萩の町を自転車で風を切りながら、ここは、明治維新のときから動きを止めた、歴史の町だと感じた。だが、その歴史の中から、青春が匂い立ってくる、と肌で感じた。松蔭の夏蜜柑、晋作の夏蜜柑である。
遠い日の青春と重ねつつ、良い町だと思った。 ( 続く )