( ローマの防衛線であったドナウ川 )
所用で大阪へ出たついでに、難波宮跡から大阪城公園に入り、森之宮駅まで散歩した。
春は桜の名所だが、その桜の木の葉っぱが紅葉して、秋は秋なりの風情がある。
秋深きウィーンの市立公園は美しかったが、それほど負けてはいない。聞こえてくる言語が国際色豊かなのも、ウィーン並みだ。
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三木清『人生論ノート』から
「旅の心は遥かであり、この遥けさが旅を旅にするのである」。「旅において我々はつねに多かれ少なかれ浪漫的になる。浪漫的心情というのは遠さの感情にほかならない」。
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Wien 。日本語では、ウィーン。ドイツ語ではヴィーン。英語では Vienna ビエナ。
いずれの響きも綺麗だ。
音楽の好きな人にとって、ウィーンは「音楽の都」。ベートーベンをはじめ、ウィーンにゆかりのある偉大な音楽家は多い。しかし、何といっても、愛されているのは、モーツアルト!!
音楽にあまり関心のない人でも、小澤征司がウィーンに行ってから、オペラ座のそばを通るとき、懐かしいような感じを抱くようになった。
( ウィーンのオペラ座 )
ただ、「音楽の都」も、この街並みがあってこそだ。この街並みがあって、モーツアルトのウィーンである。
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オーソドックスな歴史愛好家なら、ウィーンはやはりハプスブルグ家のウィーン。神聖ローマ帝国の皇帝を輩出したのだから、やはりすごいのだろう。ウィーンの街並みの美しさは、ハプスブルグ抜きには考えられない。ハプスブルグのウィーンである。
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( ハブスブルグのシェーンブルン宮殿 )
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高い天井にシャンデリア、大理石のテーブル。
パリとは全く趣の異なる、少々気取ったカフェ文化。
パリのカフェでケーキを食べているのは、よほどのもの好きだ。だが、ウィーンのオペラ座近辺のカフェに入ると、西洋のおば様グループも、日本のマダムグループも、ケーキ、ケーキ、ケーキ。おじ様もケーキ。
ショーウインドの中を見ると、さまざまなケーキがより取りみどり。美味そうだが、とにかく1個が大きい。
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ウィーンを舞台にした「寅さん」シリーズもあった。外国が舞台になったのはあの1本だけ。マドンナは竹下景子。ウィーン市から、ぜひ「寅さん」シリーズのロケをと、招へいされたらしい。
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だが、心ひかれるウィーンは、それらのウィーンと少し違う。
「私のウィーン」を3つ挙げるなら、2つはその歴史。もう1つは、…… 映画かな??
< その1 ローマ第13軍団のウィーン >
ウィーンは、ユリウス・カエサル以来、ドナウ川を防衛線としたローマ帝国の最前線だった。
ローマ軍は、この寒冷の地に、ローマ軍の規格どおり、1辺400メートル四方の、堀(グラーベン)をめぐらせ、城壁で囲って、軍団基地を建造した。そして、第13軍団6千人の兵卒が駐留し、ドナウ川に沿う辺境の地をパトロールした。
今は旧市街の高級ブランド街・グラーベン通りは、軍団基地の南辺の堀(グラーベン)を埋め立てた道である。
北辺はドナウ川に接していたので、城壁はあったが、堀はなかった。今は、ドナウ運河として残されている。
6千人の町は、当時のドナウ川流域では、「大都市」だ。何より安全。ローマ軍が健在な限り、ここにいれば危険はない。周辺の商人、農民、漁民がやってきて、にぎわう。これが都市ウィーンの起こりであった。
そして、2世紀。ドナウ川流域でゲルマン民族の大規模な侵入が繰り返された。結果から見ればローマ史の終わりの始まりとなる事件であった。
哲人皇帝マルクス・アウレリウスは、これをただならぬ事件と判断し、太陽の輝くローマからアルプス越えをして、遥々とこの寒冷の地にやってきた。そして、ドナウ川流域の各軍団の司令官たちを召集して、作戦を練る。
昼間は戦いを指揮し、夜はテントのランプの灯りで読書や執筆をしたという。寒冷の地で、長く、病弱の身を酷使し、心労を重ね、決して得意とは言えない戦いに明け暮れ、戦い半ばで、ウィーンで病没する。
これが、「私のウィーン」のその1。
その何に心ひかれるのか?
当時、ドナウ川流域は、レーゲンスブルグも、ウィーンも、ブダペストも、首都ローマから見れば、遥かに北方の、文明の果てるところ、辺境の防衛線であった。
川の向こうは、黒々と森が生い茂る、果てしない広がり。バーバリアンの地だ。
かつて、ユリウス・カエサルは、ライン川とドナウ川を防衛線(国境ではない)にせよ、と言い残した。その先に、ローマ人は踏み込んではいけないとも。
( ドナウ川・パッサウ付近 )
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ウィーンに心ひかれるとき、わが心はローマ人である。
そこは、文明の果てる地。遥けさの思い。浪漫的心情。
「北帰行」も、「津軽海峡冬景色」も、「みちのく一人旅」も、「北の旅人」も、「五能線」も、北方に心ひかれる浪漫的心情である。