ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

季節の風を感じて ( 2023春から夏へ) … 読売俳壇・歌壇から

2023年12月03日 | 随想…俳句と短歌

 (杉浦孝治さんの絵画展から)

<閑話 … 「季節の風を感じて~杉浦孝始 絵画展」に行く>

 先日、新幹線に乗って豊橋へ、「~季節の風を感じて~杉浦孝始絵画展(第24回)」に行ってきました。

 杉浦孝始さんは静岡県にお住いの画家です。

 Face bookで、偶然に、白雪を冠したアルプスの山なみとその下に広がる安曇野を描いた絵を見て、その大きな図柄や精緻な描写に感動し、この方の絵を直接に見たいとかねてから思っていました。今回、思い切って、豊橋の会場まで。

 会場では杉浦さんとお話しする機会を得ましたが、絵から受ける感じのとおり、穏やかで朴訥なお人柄の奥にロマンを感じました。

  (レストラン「ボン・ファン」の会場)

 会場は豊橋で有名なフレンチレストラン。この店のオーナーから声を掛けられ、レストランのパーティー用の一室を提供いただいたそうです。このように杉浦ファンはあちこちにいるのでしょう。シックな会場に安曇野や、故郷の浜名湖や新城市の風景画が掛けられていました。

 帰りの新幹線の時間が気になって一番軽いランチをいただきましたが、「ボン・ファン」のランチは本当に美味しかった。近ければ何度でも行きたいぐらい。

  (「涼風白馬村」) 

 今回出展されていた16点の中で、私の一番のお気に入りは冒頭の絵です。

 杉浦さんの絵は安曇野をはじめとする風景画です。しかし、コロナになってから、信州にも行けなくなったと仰っていました。

 この絵は、アジサイやバラなどの季節の静物の中に、モジリアーニの絵が配されていて、レストランのシックな雰囲気によく似合っていると思いました。これから、こういう絵もどんどん描いていただきたいと、これは1ファンの勝手なお願いです。

  ★   ★   ★ 

 さて、読売俳壇、歌壇から、前回の続きです。今年の春から夏に讀賣紙上に掲載された作品からです。

<夏の句>

〇 風薫る 穂高の町の 美術館 (向井市/福嶋猛さん)

 信州の風薫る季節は空気に透明感があります。

 これは碌山美術館ですね。

 ずいぶん昔のことですが、私が初めて碌山美術館を訪ねた頃、大糸線はまだSL(蒸気機関車)で、客車2両の後ろに貨物車をつないでのどかにコトコトと走っていました。

 夏の終わり、小さな穂高駅に降りると、安曇野は早くも稲穂が頭を垂れて、その向こうに碌山美術館の尖塔が見えました。

  (秋の安曇野)

 1958年に開館したこの小さな美術館は、夭折した安曇野出身の彫刻家・荻原守衛(碌山)の作品や資料を展示しています。美術館の建設に際しては、長野県下の全小中学生を含む約30万人の若者たちが、5円、10円という金額から募金を出し合ったそうです。文字どおり郷土の美術館です。

 チャーチ風の建物は蔦で覆われ、樹木が陰を落とす美術館の前の空き地では、蝉のように真っ黒に日焼けした子供たちが遊んでいました。

  (碌山美術館)

 荻原守衛(碌山)は明治12(1879)年の生まれ。島崎藤村より7歳年下です。穂高の村の農家の三男に生まれましたが、郷土の相馬家に嫁いできた相馬(旧姓は星)良子(黒光)に啓発され、やがて東京に出て美術の勉強を始めます。

 相馬良子(黒光)は明治女学校で島崎藤村先生らの教えを受けた、ハイカラな考えをもつ女性でした。

 上京した守衛は、数え年23歳から足掛け8年、アメリカとフランスの美術学校に学び、帰国後、新宿の角筈にアトリエをもって彫刻の制作活動を始めました。新宿には相馬良子(黒光)が「中村屋」というパン屋を出して成功し、彼女の周りには文学や芸術を志す青年らが出入りしてサロンのようになっていました。明治43(1910)年、守衛はその中村屋にいたとき、突然喀血し、良子らの介護の甲斐なく、2日後に永眠しました。数え年で32歳の若さでした。

 「デスペア」「戸張孤雁像」「爺」「女」など、日本のロダンと言われる彼の作品は碌山美術館で見ることができます。

 昭和50年代になると、日本人もお金持ちになって大観光ブームも起き、大型観光バスが田んぼの中のこの小さな美術館にも立ち寄るようになりました。小さな穂高の駅の周辺も開発されて、家や店が立ち並びました。

 今は、再び、忘れられたような静かな美術館になっています。

 伝説の海の民である安曇氏の穂高神社も近くにあります。

 できたらマイカーではなく、大糸線の各駅停車に揺られて訪ねれば、いっそう趣が感じられます。

      ★

〇 実家売れ 梔子(クチナシ)の花 助手席に(山形県/沼沢さとみさん)

 矢島渚男先生評)「地方の農家だったのだろうか。移住が風潮にもなってようやく買う人が現れて処分した。実家のクチナシの花を乗せて都市の家へ帰る」。

 そのまま空き家として残していたら、固定資産税やら維持費やらで毎年出費がかさみます。「実家売れ」と、ようやく売れたことに少しほっとしています。

 しかし、心にぽっかりと穴があいたような淋しさもあります。売れたのは「実家」なのですから。

 いい人の手に渡り、大切に住み為してくれたら救われるのですが、更地にされたりしたら悲しい。その家の太い柱や梁には、自分の思い出だけでなく、親の一生や、もしかしたら祖父母らの一生もあったのだから。

 建てた人は、子や孫やその次の世代のことに思いを馳せながら、精魂を傾けたことでしょう。

 哀しいことですが、日本は継承していくことがむずかしい社会になってしまいました。

 車の中、ほのかに薫る白いクチナシの花が印象的です。

      ★

〇 余所(ヨソ)行きも 少なくなりぬ 更衣(コロモガエ) (川崎市/多田敬さん)

    宇多喜代子先生評)「かつては余所行きに着替えて出て行くことも多かったが、最近はそれも少なくなった。いささかの淋しさを感じさせる更衣」。

 「更衣(コロモガエ)」は夏の季語。「春の衣服を夏のものに替えること。昔は陰暦4月朔日(注 : 月の最初の日)を更衣の日と定め、その日に袷に替えたものだが、明治以後は一般に随時替えるようになった」(歳時記から)。

 「余所行き」という言葉には、「晴れの日」の装いという語感もあります。

 私も年とともに公の場に出て行くことがなくなり、それはそれで気楽なのですが、そうなると外出するとき誰かの目を気にするようなことも少なくなります。すると、もう「余所行き」と言うよりも、単なる外出着ですね。

       ★

〇 夏帽子 ひとつだけ乗せ 終電車 (宝塚市/武田優子さん)

 ちょっとユーモラスで、印象に残る句です。

               ★ 

〇 森の夏 フランスパンと すれ違う (加須市/萩原康吉さん)

 宇多喜代子先生評)「すれ違ったのはフランスパンを持った人なのだが、その人を省略してパンの方のみを書き留めた句」。

 「森」「夏」「フランスパン」から、軽井沢などの別荘地をイメージしました。ちょっとファンタジックな感じもあって、オシャレな句です。

 私は堀辰雄や詩人の立原道造が好きで、まだ静かだった頃の軽井沢や信濃追分を貸し自転車で文学散歩したことがあります。

 やわらかに薄緑色に芽吹いたカラマツの林と、その間からのぞく浅間山のどっしりした火山の姿が印象的でした。

 

(軽井沢の有島武郎記念館で)

     ★

〇 ヨットゆく 島にぶつかり そうな風 (逗子市/鈴木喜久代さん)

  自分がヨットを操っているのでしょうか。爽快感があります。

 最初、岬などから見た遠景のヨットかなと思いました。目の遠近感の錯覚で、このような景を見ることがあります。

 しかし、風が強調されていますから、やはり自分はヨットの中なのでしょう。

 下の写真はこの句とは関係ないのですが、好きな1枚なので。

 (エーゲ海のロードス島の夕暮れ)

      ★

〇 母といる ごとき法事の 寺涼み (郡山市/寺田英雄さん)

 法事のため、お母様と一緒によく訪ねたお寺なのでしょうか。境内を囲む木陰の風は涼しく、生前の母の存在を感じています。   

  ★   ★   ★

 ここまでは俳句ばかりになってしまいました。少しだけ短歌を。

<短歌から>

〇 南部ふうりん 窓に聴きをり ひとり旅 せし七十路(ナナソジ)の みちのくの風 (枚方市/鍵山奈津江さん)

 七十路のみちのく一人旅。今は、わが家で、旅の記念の南部ふうりんの音を聴いています。

      ★

〇 夏の朝、飯の焚け具合 知らせ来る ぼっちキャンプの 古希の友より (日野市/那須真治さん)

 「七十路」と言い、「古希」と言いますが、今の日本で70歳は高齢とか老人とは言えなくなりました。70歳の多くはまだまだ元気で、旅に出たり、キャンプをしたりもします。旅行社のツアーなど、この年齢もターゲットにしています。

 でも、70歳は、仕事をリタイアして少し年月もたち、かつての知人との交流も少なくなっています。また、子らはとっくに独立していて、孤独なのです。

 まだまだ元気だが、孤独で淋しい。少子高齢化社会には、そういう中高齢者の心もあります。

         ★

〇 じいちゃんの 歯の抜けたるを じっと見て よき歯生えよと 祈る子のあり (青梅市/梅田啓子さん)

  「祈る子のあり」に、孫の存在のうれしさ、いとおしさが表れています。

      ★

孫娘は われに眼鏡を かけさせて 「この本読んで」と 隣に座る (藤沢市/瑞山徳子さん)

 栗木京子先生が「体温の伝わってくる歌である」と評しておられます。幼い孫の体温が伝わってくるのはうれしいですね。

 

 

 

 

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風の峪(タニ) (2023 春の句) … 読売歌壇・俳壇から

2023年11月22日 | 随想…俳句と短歌

   (吉野山の桜)

 讀賣新聞の「読売俳壇」「読売歌壇」に掲載された句や歌の中から、私の心と感性に響いた作品を勝手な感想とともに紹介させていただいています。今回は、今年の前半に紙上に載った作品からです。

  ★   ★   ★

<春の句>

〇 春のカフェ 電車の見える 席が好き(東京都/石田絹子さん)

 (ミニチュアのあるカフェ)

 このカフェが東京ならば、「電車」はJRの山手線や中央線かもしれません。でも、この句から浮かぶ私のイメージは、街路に敷設された線路を走るチンチン電車とかトラムです。

 写真は大阪の阿倍野のカフェの窓辺のカウンター席。

 大きな窓ガラスには、日よけのブラインドが降りていました。その隅っこからでも写真を撮りたいと思ってカメラをいじっていたら、若い女店員さんが下半分を揚げてくれました。ありがとう。ニコニコ笑顔が返ってきました。

 走っているのは、阿倍野から住吉大社や堺の方へ行く私営の阪堺電車。色も型もいろいろで、昭和を思わせるチンチン電車もあれば、ヨーロッパの街中を走っているようなスマートなトラムもあり、見ているだけで楽しい。

 私が学生の頃、東京も都営のチンチン電車が走っていました。大阪の街もそうです。車の走行の邪魔になるというので取っ払われ、その代わりに地下鉄網ができました。でも、ヨーロッパの街角を走る瀟洒なトラムや坂道を上がるチンチン電車を見るにつけ、惜しいことをしたなと思います。日本の狭い道路ではムリなのかも知れませんが、街並みにとけ込んだ風物詩でした。

      ★

〇 この峪(タニ)は 風の道なり 花吹雪(日立市/菊池二三夫さん)

 風に乗って周りの山から無数の桜の花びらが舞い込んでくる峪。「峪」という文字も趣があって、美しいイメージの句です。

 以下は、この句に触発された閑話です。

<吉野川の向こうのこと>

 大和国は大国です。国の形は、縦(南北)に長い長方形。

 その北半分は、周囲を低い山々に囲まれた大和盆地(大和平野ともいう)です。ここは、遥かな古代、日本文明の中心だった時代もありました。

 3世紀の中ごろから、巨大な前方後円墳が次々築かれました。その後、飛鳥文化、白鳳文化が花開き、やがて唐の都をモデルにした藤原京や平城京が築かれました。北から南から盆地の中を流れる清流は全て大和川へ流れ込み、大和川は生駒山系と葛城山系の間の峡谷を抜けて河内国へと流れ、大阪湾から、瀬戸内海を経て、大陸へとつながっていました。500年以上もの間、大和盆地は日本の"まほろば"の地であったと言ってよいでしょう。

 その大和盆地の南辺を区切るのは、東から西へと流れる吉野川です。この川は紀国に入ると、紀ノ川と名を変えます。この川によって、大和国は、北と南に分けられます。

 吉野川より南の地は広大で、面積の上では大和国の半分以上を占めています。

 そこはどんな世界だったのか??

 昔も今も、高く深い山々と谷が、大和国から紀国、伊勢国にまたがって延々と広がっています。住む人は少なく、都から見れば文明から隔絶されたような地。能でいえば、「異界」の地。

 しかし、私たち日本人は、昔も今も、こういう世界に心ひかれてきました。

 吉野山から大峰山系の山上ヶ岳(標高1719m)へ続く深く険しい山々は、7世紀に役行者(エンノギョウジャ)が修験道を切り開いた地です。修験者たちは深山幽谷に分け入って、激しい修行を積み、衆生を救う験力を得ようとしました。

 その西には、高野山があります。平安初期、空海が真言密教を開いた聖地です。

 さらにその南、深く高い峰々と谷が太平洋に向かって落ちていく空間には熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)があって、平安末期以降、極楽浄土を求める人々が遥々と熊野詣でするようになりました。

 近年、これらの全体が「紀伊山地の霊場と参詣道」という名でユネスコの文化遺産に登録されました。今では日本人に負けないくらいの数の外国人バックパッカーが訪ねる地域になっています。一神教に飽き足りなくなってやって来る人たちもいるようです。

      ★

<吉野の文学歴史散歩① … 蔵王権現>

 吉野は学生の頃に行ったのが最初で、仕事をリタイアしてからは何度か訪ねました。ただし、私の場合、吉野の文学歴史散歩が目的でしたから、花見客で混雑する時季は避けてきました。

 それでも、一度くらい吉野の桜を見ておきたいと、仕事をリタイアした直後の4月に出かけたことがあります。それが冒頭の写真です。もう随分前のことで、これ1回きりです。

 吉野山には、修験道の総本山・金峯山寺があります。本堂の蔵王堂は国宝で、木造の建築物としては東大寺の大仏殿に次ぐ世界第2位の大きさを誇ります。

  (蔵王堂遠望)

 金峯山寺の「金峯山(キンプセン)」は、吉野山から大峰山系の山上ヶ岳に到る修験道の山々の全体を言うそうです。

 茫々たる昔、役行者は千日の練行の末、山中深くで、深夜、釈迦、次いで観音菩薩のお姿を見ましたが、自分が追い求めてきた神ではないと感じました。

 「すると、にわかに天地が震動して、恐ろしい荒神が大地から湧出した。『大忿怒大勇猛』の蔵王権現で、これこそ彼が長年求めた新しい神であった。それは自然の猛威を秘めた山岳の表徴であるとともに、古代の山の神の生まれ変わった姿でもあった」(白洲正子『かくれ里』から)。

 役行者は自分が見た恐ろしい蔵王権現の姿を山桜の木に彫らせました。できた巨像を祀るために建てたのが蔵王堂です。

 修験道の世界は、森羅万象の大自然と古神道と仏教とが混然と融合した日本的な宗教世界です。

 いつの頃からか吉野山に参詣する人々は、蔵王権現像の素材となった桜の木を寄進・植樹するようになりました。"花の吉野"は、そういう信仰の結果として生まれたのでした。

      ★

<吉野の文学歴史散歩② … 吉水院など>

 金峯山寺の先に吉水院(今は吉水神社)があります。もとは修験道の僧坊でした。

 源義経が兄頼朝の追っ手を逃れて、静御前や弁慶らと、一時ここに潜んだそうです。しかし、すぐに追手が迫って、さらに大峰山系の奥へと逃れなければなりませんでした。しかし、ここから先は女人禁制。静御前とはここが永遠の別れの地になりました。

 吉野山 峯の白雪 踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき(静御前) 

 この悲話は、のちに能の「二人静」などの素材になりました。

 時代が下って、南北朝の争乱のときには、吉水院は南朝の後醍醐天皇の御座所になりました。今は桜で有名ですが、上の写真に見るように、吉野山の地形は自然の要害でした。

 それらより遥かに古く、壬申の乱の前、大海人皇子が隠れたのも吉野でした。

 吉水院に「義経潜居の間」として展示されている部屋は、室町初期の改築で、現存する最古の書院造りとして日本建築史上貴重なもの。また、「後醍醐天皇玉座の間」も、庭園とともに、桃山時代の様式によるものです。

 吉水院から奥へ、奥の千本と言われる方まで行くと、観光客も少なくなり、吉野水分(ミクマリ)神社が古色を帯びて建っています。まわりは山ばかりです。さらに先へと行くと、吉野山の総地主神を祀る金峰神社があり、そこからしばらく険路を下ると、西行が3年間住んだという庵が復元されています。

 西行庵まで来ると、花の吉野も本当にひっそりとします。やって来るのは、文学歴史好きで、かつ健脚の青壮年の男女ばかりです。

 これらを含めて、吉野山はユネスコ世界遺産の山です。

  (西行庵)

 初めて吉野を訪れたのは学生時代。若く、修験者に劣らぬような健脚で、これらを全て見て回って、さらに吉野川の宮滝まで行きました。

 今では、金峰神社のバス停で降り、そこから西行庵まで行って戻るだけで足が痛くなりました。途中、道を間違えて丁字路を逆方向に歩き、ほら貝を持った修験者に呼び戻されました。

      ★

<吉野の文学歴史散歩③ … 花の散り込む谷の宿>

 さて、上の「蔵王堂遠望」の写真ですが、参詣道が尾根を通っているのがわかります。この尾根を左へ下って谷へ降りると、ちょうど吉水院の下あたりに、「吉野温泉元湯」という小さな宿があります。(もちろん、険路を下らなくても、吉野駅から谷を行く道もあります)。鉄分を含んだ鉱泉が湧き、山を下りてきた修験者が疲れを癒した宿だったそうです。

 2020年の6月。1度目のコロナの緊急事態宣言が解除された直後、自宅に蟄居し続けた息苦しさに耐えかねて、この小さな宿を訪ねました。全国の旅館という旅館が、客足がすっかり絶えて苦しかった時期です。

 たまたまネットで探し当てた宿でしたが、訪ねてみると「島崎藤村ゆかりの宿」でした。

 また、宿の庭には句碑がありました。

 (句碑のある庭)

 (句碑)

 「一山の 花の散り込む 谷と聞く」

 初めて見たとき、ゆかしい句だと思いました。稲畑汀子さんの作とのことでした。俳句を作られる方ならよくご存じなのでしょうが、高浜虚子の孫に当たる方で、『アララギ』を引き継いで主宰されていたそうです。

 毎年の4月初め、この隠れ宿を定宿にして、仲間の皆さんと句会を開いていらっしゃったそうです。宿の若主人が、「子供の頃の私のことも句に詠んでもらっているんです」と仰っていました。

 若主人に尋ねてみましたが、桜の期間はわずか、その間は常連客でいっぱいで、宿泊はムリだそうです。山の上は人でいっぱいでも、ここなら静かでいいかなと思ったのですが。

      ★

<吉野の文学歴史散歩④ … 島崎藤村の青春>

 さて、この宿が「島崎藤村ゆかりの宿」であったということについてです。

 宿のリーフレットに、以下のようなことが記されていました。

 「藤村が訪れたのは明治26(1893)年/22歳の春の3月14日より4月22日までこの元湯に逗留/ちょうど桜の時期で、女学校の教え子との愛に悩み、関西の旅に出た藤村にとって、庭に咲く桜は慰めになったことでしょう」云々。

 宿の庭には枝垂れ桜の大きな古木がありました。

 前回も藤村のことを書きましたが、格別に藤村文学のファンというわけではないのです。学生の頃、明治20年代の青春について、少し勉強したことがあるのです。

 明治10年代の青春は、自由民権運動の政治の季節でした。それに遅れて、北村透谷、国木田独歩、島崎藤村、正宗白鳥らの明治20年代の青春は、キリスト教(プロテスタント)との出会いから始まりました。彼らの多くはのちに棄教しますが、キリスト教との出会いを通して近代の精神に目覚め、明治30年代以降、詩人や作家として日本の近代文学を豊かにしていきました。

 明治政府は欧米から入って来る新知識の配電盤として、東大をつくりました。しかし、日本の近代文学が、東大出の森鷗外と夏目漱石を除けば、「別れろの切れろのは芸者のときに言うものよ」というレベルのものしかないとしたら、寂しすぎるというものです。

 島崎藤村も、若い日に、一番町教会の植村正久から洗礼を受けています。

 それまでの日本の社会では、「男女7歳にして、席を同じくせず」という儒教の教えは疑う余地のない規範でした。普通の若い男女が出会って交際するような場はなく、結婚は本人の意志とは別に家と家との関係の上に成り立ちました。「曽根崎心中」をはじめとする多くの江戸文学や明治初期の読み物に見るとおり、惚れた腫れたの男女の情愛は、遊郭の女性や芸者との関係でした。

 ところが、明治の初めに日本に入ってきたプロテスタントの教会では、男性の席と女性の席はまだ左右に分けられていたようですが、同じフロアのベンチに腰掛け、(三味線ではなく)、オルガンの音が響き、男女が声を合わせて讃美歌を歌うのです。礼拝が終われば、目の前に若い異性がいて、牧師を囲みながら、最初はおずおずとであっても談笑することは自然なことでした。プロテスタント教会は、明治の新青年にとって新知識を得る場でもあり、また、若い異性と知り合う心ときめく場でもありました。明治20年代の進取の気風をもった若者たちは、こぞってプロテスタント教会の門をたたきました。漱石の『三四郎』のヒロインの美禰子も、日曜日にはチャーチに通っていました。

 恋愛は、一個の自立した男子と一個の自立した女子の、互いの人格の尊重の上に成り立つ感情です。「恋愛」という日本語を作ったのは北村透谷でした。

 こういう新しい欧米の文化や精神・思想に出会った青春の中から、新しい言葉や表現形式が生まれ、新しい詩や小説として結実していったのです。

 さて、木曽の田舎から東京に出てきた藤村青年は、明治学院を卒業し、まだ数え年の21歳のときに、新しく設立された明治女学校(私立のミッションスクール)の英語教師になります。女子教育のミッションスクールは新鮮で、明治女学校に入学してきた女子たちの中にもハイカラな気風があったと思われます。また、まだ学制の整っていなかった時代でしたから、生徒の年齢もばらばらで、高等部の女生徒の中には先生の藤村と同年齢、中には年上の女子もいました。

 この頃に同校の女生徒だった相馬良子(黒光)は、当時のことを回想して次のように書き残しています。「明治学院出身の戸川、馬場、島崎先生など、教室に入っていらっしゃると、まず本を机の上に置き、粛然としてお祈りをされてから講義を始められるという風でした」。

 やがて、藤村は教え子の女生徒の一人に恋をします。彼と同じ一番町教会に来ていた22歳の女子でした。既に親の決めた婚約者がいました。若い藤村は勝手にこの女子に恋をし、教え子への道ならぬ恋という「恋の苦悩」をした挙句、学校に辞表を出して、関西への漂泊の旅に出てしまいました。

 学生の頃に明治20年代の青春のことを少し勉強したと書きましたが、藤村がその漂泊の旅で滞在した宿に偶然にも泊まることになろうとは思いませんでした。

  (藤村が滞在した部屋)

 21歳の藤村青年は、いわば恋に恋したのでしょう。しかし、そういうもやもやとした苦しい青春の感情が彼の中で次第に熟していったとき、短歌でもなく、俳句でもなく、まして漢詩でもない、新しい日本の詩(poem)が出来上がっていったのです。

      ★ 

〇 いかんとも しがたく春を 惜しむなり (さいたま市/池田雅夫さん)

   桜も終わり、新芽が萌え出て、季節は風薫る初夏に入っていきます。

 同じように、青春にも終わりがやってきます。

 国木田独歩も、島崎藤村も、正宗白鳥も、現実にないものにあこがれる浪漫的な心情を脱皮し、次第に事と物とをリアルに見る自然主義の作家へと成長していきました。

 それにしても、日本の春と秋。過ごしやすく、かつ、美しい。しかし、良い季節はたちまちに過ぎていってしまいます。

 (続く)

 

 

 

 

 

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風誘ふ … 2022(秋から冬へ) 読売俳壇・歌壇から(2/2)

2023年10月27日 | 随想…俳句と短歌

  (小諸城址・懐古園) 

 小諸城は市街地よりも低地に造られ、穴城とも言われました。

         ★

 ご無沙汰しました

    讀賣新聞の「読売俳壇」「読売歌壇」を、毎週、楽しみにしています。 各選者の先生によって選ばれた秀作ばかりですが、そのなかでも自分の心にストンとおちた句や歌を手帳に書き留めています。 それをここに勝手な感想とともに紹介させていただきました。昨年の後半に紙上に発表された作品です。

  ★    ★    ★

<風誘ふ>

風誘ふままに信州訪ひ来れば小諸は林檎の中にありけり (霧島市/内村としお)

 この歌の作者は島崎藤村の「小諸なる古城のほとり」がお好きで、信州へのあこがれをお持ちなのではと、自分に引き寄せて勝手な想像をしました。

 藤村の「小諸なる」の詩の季節は早春です。「小諸は林檎の中にありけり」という感動は、春浅き信州のイメージが下敷きとしてあってのことかと想像しました。

 「小諸なる古城のほとり/雲白く遊子悲しむ/緑なす繁縷(ハコベ)は萌えず/若草も藉(シ)くによしなし/しろがねの衾(フスマ)の岡辺/日に溶けて淡雪流る」

 私が藤村のこの五七調の詩を知ったのは高校生の頃。それから、ずっと信州の風土に惹かれ、貧乏大学生の頃から今に到るまで、何度も訪ねました。

 「小諸なる古城」の城址は「懐古園」となり、園内をそぞろ歩くと西端は崖となって切れ落ちて、眼下を千曲川が流れていました。戦国の世にあっては、穴城を守るための自然の要害だったのでしょう。

  (眼下の千曲川)

 「暮れ行けば浅間も見えず/歌哀し佐久の草笛/千曲川いざよふ波の/岸近き宿にのぼりつ/濁り酒濁れる飲みて/草枕しばし慰む」

 「岸近き宿」の「中棚荘」は「島崎藤村ゆかりの宿」。季節になるとお風呂に林檎が浮かぶゆかしい温泉宿です。

 同じ信州でも、北アルプスの山麓を大糸線でとことこ走る安曇野は登山家やハイカーが歩く明るいイメージがあり、一方、長野からしなの鉄道で、或いは、日本一標高の高い小海線に乗ってゆく佐久地方は、いかにも「信濃国」という感じがあって林檎畑がなつかしい。

 林檎と言えば、藤村の処女詩集『若菜集』の中の「初恋」。

 「まだあげ初めし前髪の/林檎のもとに見えしとき/前にさしたる花櫛の/花ある君と思もひけり

 やさしく白き手をのべて/林檎をわれにあたへしは/薄紅(ウスクレナイ)の秋の実に/人こひ初めしはじめなり」

 林檎の木は秋にたくさんの赤い実をつけますが、信州のおそい春は4月後半から連休の頃で、透明な空気の中に桜の花びらに似た可憐なピンクの花が咲いて、ああ、これが林檎の実になるんだと納得がいきました。

 懐古園には「小諸なる」の詩碑もありますが、もう一つ、島崎藤村作「惜別歌」と刻まれた歌碑もあります。

  (「惜別歌」の碑)

 もともと、『若菜集』に「高楼」という題で載っていました。嫁ぐ姉と、姉を送る妹の対話型式の詩です。

 私の持っている『日本の詩歌 島崎藤村』(中央公論 昭和42年刊)には、「高殿」の詩について、伊藤信吉氏のこういう説明が付いています。

 「『高楼』は、戦後になって『惜別の歌』という別題を付され作曲されて、若い人たちに広く歌われるようになった。明治30年に作られた詩が、永い年月を隔てて新しいリードとして迎えられたのである。本歌の作者が藤村だということを知らずに歌っている人もある。

 最も愛唱されているのは、『きみがさやけき/めのいろも』に始まる第9連で、この部分だけを切りはなすと、姉と妹の別れというよりも、恋人との別れを惜しむ歌の形になる。それが若い人たちをひきつけるのである」。

 高校生の時、友人たちとよく歌った歌の一つです。藤村の作だと知っていたが、戦後に作曲されたとは知りませんでした。それなら、私たち『青い山脈』の世代の歌です。(『青い山脈』なんて、わかる人にしかわかりませんね。石坂洋次郎という作家の新制高校を舞台にした青春小説で、何度か映画化もされました。先生役を石原裕次郎と芦川いずみとか)。

 「君がさやけき目の色も/君くれないのくちびるも/君がみどりの黒髪も/またいつか見んこの別れ」。

 私たちは無口朴訥な旧制高校生のイメージを思い浮かべて歌っていましたが、もとの藤村の詩の姉妹の歌とするなら、ちょっと官能的ですね。藤村は日本の新体詩を確立した人とされていますが、こういうみずみずしい才があってこそのことなのでしょう。

 「風誘ふ」の歌に触発されて、自分の遠い昔のことを書いてしまいました。

 以下は俳句ばかりです。

      ★

〇 秋風や生きてるだけでいいのかと(東京都/駒形光子さん)

 正木ゆう子先生評>「誰が誰に問うたのか、様々な場面が考えられるし、ニュアンスも違う。でも、どんな場合も、答えはきっと『生きてるだけでいい』」。

 働いている頃は、ささやかながらも何かを成しているように感じていました。

 リタイアして、歳月が経つにつれて、なんにも成していなかったのだと悟るようになりました。

 ゆっくり歩こう、生きていることが素敵なんだからと、人生の後輩たちには言ってあげたい。

 「風立ちぬ。いざ生きめやも」(堀辰雄『風立ちぬ』の冒頭」)。風が吹いた。さあ、残りの生をいとおしみながら生きていこう。

  ★   ★   ★

<秋の暮 そろそろ>

秋の暮そろそろ晩酌良いですか(川崎市/加藤英行さん)

 正木ゆう子先生評>「四時では早い。六時まで待てない。 五時過ぎたからそろそろ飲み始めていいですかと、誰に訊いているのか。 微笑ましく幸せな秋の暮」。 

 正木先生の解説は絶妙。私もお酒好きですから、少しゆっくりする日曜日の午後など、こういうことがよくありました。まあ、自制心とのたたかいですね。

 ヨーロッパのパーティーでは、ディナーを待ちきれない酒好きのために、食前酒の時間があります。ちょっと度数の高い酒を少量たしなむ。食前酒と言えば上品に聞こえますが、ありていに言えば、酒好きの主人(ホスト)や招かれた客が開宴を待ちきれずに一杯ひっかけようということです。さらに、食後酒の時間もある。こういう西洋人のやり方はなかなかのもの。

 私は、年を取って、今は少々の晩酌で満足できるようになってしまいました。それでも、健やかな日も、病のときも、毎夕、少々の晩酌をたしなんでいます

     ★

〇 湯加減を訊く蟋蟀に良しと言ひ(横浜市/杉山太郎さん)

 正木ゆう子先生評>「湯加減は如何(イカガ)と蟋蟀(コオロギ)が訊くので、良いと答えた?? 荒唐無稽と思いつつも、きっと五右衛門風呂、いや、檜風呂かもと思われて、不思議」。

 面白い。 こういう感覚、私も好きですね。

      ★

〇 武蔵野の名月しばし私(ワタクシ)す(武蔵野市/相坂康さん)

 (手持ちで月を撮るのはむずかしい) 

   日本全国のあちらでも、こちらでも、名月を一人占めしている人がいます。私もその一人です

      ★

〇 先延ばし先延ばしつつ冬支度(さいたま市/西村正男さん)

 宇多喜代子先生評>「秋も深まってくると冬支度のことが気にかかりはじめる。あれをしてこれをしてと思いつつ一日が過ぎ二日が過ぎる」。

 作者の意図と離れてしまいますが、この句を読んだとき、常日頃気になっている自分の「終活」のことが重なってしまいました。

 私は、祖父母がそうであったように、また、親がそうであったように、最期はわが家で迎えたいと思っています。

 昔は、年を取ると、わが家で大往生するのは当たり前でした。近所のお医者さんも往診してくれました。大病院に入院されると、家族は看護にも行きにくい。車社会ではありませんでしたから。

 大病院の延命治療もいやですが、私は何よりも、長く暮らしてきたわが家で終わりを迎えたいのです。

 しかし、問題があります。昔は一つ家で二世代、三世代が暮らしていましたが、今はどこの家でもそうですが、私の子らも他郷に暮らしています。

 ですから、往診してくれる医師と看護師、それに、薬局や介護士やヘルパーさんらに頼らねばならないでしょう。

 死後は、家族葬のこと、お墓のこと、その他のあれこれの処理なども、誰かにやってもらわねばなりません。

 そのためには、元気なうちにやっておかなければいけないこと、書いて伝えておかねばならないことが多々あります。ところが、そういう「冬支度」を先へ先へと延ばして、こうしてブログを書いたり、興味をそそられた本を読んだり、日本シリーズをテレビ観戦したり、アニメ「葬送のフリーレン」を見たり、カルチャーセンターの西洋史の講義を聴きに出かけたり、体調が良ければ小さな旅に出たりして、先延ばし先延ばしして日々が過ぎて行きます。

 今日なすべきことを明日に延ばせ。我ながら困ったことです。

 以前、このブログでも取り上げた山口富江さんの句。「 九十六才 日向ぼっこに日が暮れぬ」。正木ゆう子先生の評を読んで、胸をうたれました。「常連の冨江さん。自筆のこの投句葉書を枕元に置いて亡くなったという。『令和を四十七分生きました』とご家族の添え書き」。     

 美しく、とても幸せな最期です。

  ★   ★   ★

<夜長のメルヘン>

〇 眠る児の手に団栗も眠りけり(神奈川県/中村昌男さん)

 歳時記に小林一茶の「団栗の寝ん寝んころりころりかな」という句があり、平易な句だが改めて味わおうとすると句の意味が分からない??? …… と書かれていました。確かに!!。

 しかし、中村さんの句につなげると、一つの解ができあがります。

 ぐっすりと眠っている児の緩んだ手から団栗がころりころりと転がってゆき、静止して、その場所で団栗ももう一度寝入ったのです。

      ★

〇 降る雪や昔ばなしをするやうに(青森市/小山内豊彦さん)

 (湖西線からの雪景色)

 昨年の早春の頃、大阪から「快速」列車に乗って、琵琶湖の周りを一周しました。

 途中、湖西から湖東へ、一カ所で乗り継ぎました。

 湖西は寒々とした雪景色で、比良の山並みが見えました。

 ところが、湖東に来ると景色が明るくなり、春の息吹が感じられました。長浜で降りると、ガラス館にガラスのお雛様が並んでいました。

  (ガラスのお雛様)

 さて、本句は、もっともっと深い雪国の夜です。

 矢島渚男先生評>「降る雪の中で幼い時から繰り返し聞いた話を思い出す。昔噺(ムカシバナシ)ではなく、家族の思い出かもしれない。 優しくときに激しく雪は降り続く。 単純で美しい句だ」。

 三好達治の詩「雪」を連想しました。

 「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。

 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。」

  ★   ★   ★

 次号も、少し間が開くかもしれません。働いていた頃のように、集中して物事をてきぱきと進めることができません。あれにも、これにも、関心があるのです。でも、また

 

 

 

 

 

 

 

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駒場と大塚 … 東京を歩く9/9

2023年09月08日 | 東京を歩く

    (旧前田家本邸洋館)

<東大駒場>

   今日は2か所を回る。目黒区駒場の旧前田家本邸 (別邸は鎌倉に残る) を見学し、そのあと文京区大塚の母校の跡地を訪ねようと思う。あとは新幹線に乗って帰るだけ。

 渋谷で井の頭線に乗り換えてコトコトと走り、「駒場東大前」駅で降りた。

 天下の東京大学(駒場校)の玄関口とは思えないローカルな駅だ。各駅停車しか停まらない。

 駅近くに校門がある。

 (東大駒場校門)

 戦前は、第一高等学校だった。今は、東大の教養学部。

 私などは、学生服、学生帽、黒いマントに高下駄を履いた一高生の姿の方に、何となく親しみというか、憧れを感じてしまう。

 前期の授業が始まれば学生たちで賑わうのだろうが、今はまだ4月の初め。若者の姿はまばらで、新入生を迎えるサークルの看板が、校門の内側から学内の奥へと通路に沿ってずらっと並んでいた。学生数に比して、サークルの種類は多い

 (東大駒場構内)

     ★

<旧前田邸洋館との出会い>

 大学の前を西へ歩き、大学の敷地が尽きると、北へ折れた。

 そこは閑静な住宅街で、敷地がゆったりし、思わず素敵ですねと言いたくなるようなお洒落なお家もある。新緑が萌えはじめ、所々に桜の名残りもあり、春の日射しがやわらかい。

 かつて、明治時代、現在の東大駒場校から、これから行く旧前田邸を含めた一帯が、全て東大農学部だった。

 大正の終わりに関東大震災があり、昭和になって、東大農学部は今の文京区弥生町に移転し、本郷の各学部と一つになった。

 一方、駒場の東大農学部の跡地には、弥生町にあった第一高等学校、そして、本郷の前田侯爵邸も移転してきた。

 加賀前田家について。 

 百万石と言われた加賀前田藩邸は、江戸城天守閣も延焼する江戸大火まで江戸城のそばにあった。大火の後、かつて家康から下賜されていた本郷の地に移る。

 明治維新の後、前田家は10万坪あった本郷の上屋敷の大半を文部省 (現東大本郷キャンパス)に譲渡し、上屋敷の南西部1万坪だけを残して邸宅を構えた。

 昭和になり、前田本家第16代当主の利為(トシナリ)の時、東大農学部の移転に伴って本郷の邸宅を譲り (その跡は、今も東大本郷に懐徳園として残る)、代替地の駒場へ移った。

 以下は、見学の際にもらったパンフレットを参考に書く。

 利為(トシナリ)は、年少の頃、養子として前田家に入った。少年時代は政治家志望であったが、前田家は初代の前田利家以来"武"の家格だと言われ、陸軍士官学校に入り、さらに陸軍大学校を出た。

 東条英機と同期だったが、仲は悪かったらしい。東条が首相になった時も、その力量を危ぶんでいたという。

 若くしてヨーロッパに留学して諸国を歴訪した。また、駐英大使館付き武官を経験し、ヨーロッパの社会、文化とその変貌を知る国際派の軍人だった。

 宅地が駒場に移り、昭和4~5年に洋館、和館等を建てた。

 やがて一旦、予備役に退いたが、太平洋戦争が勃発して、ボルネオ守備軍司令官として赴任し、搭乗機の墜落で事故死した。

 当主を失って、前田家本邸は人手に渡る。敗戦後はさらに占領軍に接収された。

 その後、東京都と目黒区の所有となり、今は「駒場公園」と名づけられて保存・公開されている。

 私が初めてそこを知ったのは、昭和42年に(敷地内に)日本近代文学館が設立されたというニュースからである。

 以後、設立された近代文学館を見学したいと思っていた。そして、もう30年近くも前の話だが、まだ現役で働いていた頃、東京出張の帰りに立ち寄った。

 訪ねてみると、近代文学関係資料は旧前田家の洋館の方にも展示されていた。このときまで、私は旧前田邸のことを全く知らず、ただ近代文学資料を見に行ったのだった。

 そして、近代文学資料も興味深く見学したが、それらが展示されている建物のたたずまいにも感銘を受けた。良いものを見たという余韻がずっと残った。

 今は、近代文学関係の資料は他へ移され、旧前田邸は可能な限り元のように復元されて、それ自体が重要文化財として公開されている。

 前回の訪問は、思いがけない出会いだった。

 その後、仕事をリタイアした後、私はヨーロッパを旅行して、各地の宮殿や大邸宅を見る機会があった。

 そして、もう一度、あの旧前田家の洋館を訪ねてみたいと思うようになった。

      ★

<旧前田家本邸(洋館、和館)を見学する>

 井の頭線の駅や東大駒場の正門は大学の敷地の南東側にある。旧前田邸の正門は敷地の北西側。その間、ほどよいウォーキングになった。

 塀に囲まれた広大な敷地の門の脇には、ちょっとオシャレな守衛用の建物もあるが、今は無人のようなので、そのまま中へ入った。石の門にも、「駒場公園」と彫られている。

  (旧前田邸の正門)

 木立の中の小道を進んで行くと、左手の奥の方に和館の建物が少し見え、そして洋館の建物の前に出た。

  (旧前田邸・洋館)

 岩崎邸と比べると、少し小ぶりに見える。洋館が建てられたのは昭和4年。見かけによらず鉄筋コンクリート造り。表面がレンガ風に見えるのはスクラッチタイルという壁面装飾で、東大本郷の校舎などにも見ることができる。

 建物の外形は、イギリス貴族のカントリー・ハウス(田園の中の大邸宅)をイメージして設計されたそうだ。

 玄関で靴を脱いだ。入場無料の上、美麗なパンフレットまでもらった。この記述の多くは、このパンフレットからの引き写しである。

 見学者は少なく、訪れている人は静かにゆったりと見学されている。

 パンフレットに、1階は海外からの賓客用、2階が家族の空間とある。

 1階を迎賓館として使えるようにしたのは、日本に海外からの賓客を気楽に迎える個人邸宅が少ないという、国際派の利為らしい配慮があった。

 1階は階段広間を中心に、大食堂は最大26人の会食ができた。白い大理石のマントルピースが印象的。

 そのほか、少人数用の部屋や、落ち着いた応接室などもあった。

 (来賓接待用の部屋)

 ガラス戸からやわらかい光が入り、外は開放的な芝生の庭。その周りは駒場の自然林に囲まれている。

 2階へ上がる階段は木造り風で、ぬくもりがあり、木彫りの装飾も施されている。

 そういえば、洋館と言いながらも、天井も、柱も、梁も、木造り風で、和風の趣がある。

  (階 段)

 2階に上がると、家族のための各部屋がある。

 当主の書斎、寝室、子どもたちの部屋もあるが、一番立派な部屋は夫人の部屋だそうだ。家族がそこに集えるようにしたという。

  (当主の書斎)

 私がヨーロッパ旅行で見てきた王侯貴族や近世以後のブルジョアジーの所有する宮殿や大邸宅はこんな規模ではない。天井は遥かに高く、各部屋はもっと規模壮大で、階段や廊下は色模様も美しい大理石。頭上には天使やギリシャ神話が描かれた天井画、或いはきらびやかなシャンデリア、壁には大きな絵画が掛けられ、或いは金箔模様の装飾が施され、天蓋のあるベッド、豪華なテーブルと椅子、大書棚、蒐集された陶磁器の数々など、何をとっても豪華絢爛である。

 私は、歴史的な決戦のあった城塞や、何か大きな歴史的事件のあった宮殿には、その史跡を訪ねて、興味感慨があれば遥かな旅にも出てみたいと思った。だが、ただ絢爛豪華を誇るだけの宮殿邸宅の見学ツアーに参加させられたときは、辟易したものだ。ルイ14世のヴェルサイユ宮殿の宮殿の中も大庭園もガイドの詳しい説明を受けたが、こんな野暮ったい所には絶対住みたくないなという感想しかもてなかった。

 それに引き換え、旧前田家の洋館は、庶民から見れば豪壮な大邸宅かもしれないが、ヨーロッパの宮殿・大邸宅を見た目には、壮大と言うにはほど遠く、絢爛豪華という言葉は似合わず、むしろ落ち着いて、品良く、暮らしやすい邸宅であるように思った。

 参考までに、今、読みかけている 司馬遼太郎の『街道をゆく18 越前の諸道』の中から、題材は陶磁器のことなのだが、日本人のものの見方、感じ方、感性に話が及んでいる箇所を抜粋する。

 「室町期になると、明とのあいだに官貿易や私貿易がさかえ、やがてその貿易港として堺や博多の殷賑(インシン) が生まれ、同時に京都が内陸の貿易都市としてあらたな性格をもつにいたる。

 これらの町の貿易商人のあいだで、茶湯という独自な美学がうまれるのである。

 私がふしぎでならないのは、貿易商人というのは本来華美を好むものかと思われるのに、陶磁器にしても、大型よりも小型を好み、過剰な装飾のものより簡素なものを好み、手のこんだ玉細工に似たものよりも火が偶然に生んだ土くれに近いものを好んだということである。ついには、わびやさびといった、中国陶芸の美学からおよそ対極的なところまでゆきついてしまう」。

 「景徳鎮や、高麗官窯、李朝官窯がもつ美的志向とは、およそちがう世界であるといっていい」。

 「理屈は別にして、そのようにして焼きものを見るのは、私自身にとって、自己をあらためて見出すという心のやすらぎにかかわることである」。

 そもそも西欧や中国のもつ権力や富の巨大さと日本のそれらとの間には、大きな差、落差があるのかもしれないと思う。

      ★

 せっかくだから、洋館の東側にある和館も見学に行った。

 洋館と和館は長い廊下(回廊)でつながれているそうだが、今は公開されていない。

  (和館の門)

 和館は、昭和5年、外国からの賓客に日本文化を伝える空間として建てられた。

 木造2階建てで、今は1階のみが公開されている。

  (書院造りの和室)

 この御客間、御次の間は、私にはあまりに広すぎて落ち着かない。

 だが、日々を暮らすには畳の部屋も必要だ。時に、座布団を枕に寝ころびたいではないか。

 もっと小さい部屋であることが前提だが、書院の障子から外光が入る戸袋のそばに坐り机を置いて (机と椅子でも良いが) 書見でもすれば、心が落ち着くことだろう。

 書見に倦めば縁側に出て、こんなに立派でなくても良いが (江戸時代の大名屋敷の庭園と比べれば、規模はごくささやかだが)、小さな庭を見ながら日向ぼっこし、本を読んで、うつらうつらと昼寝もしたい。下駄を履いて、庭木戸から散歩に出るのも良い。

  (池泉庭園)

 和館の北側の森の中に、日本近代文学館があるが、今回は行かなかった。

  ★   ★   ★

<母校の占春園を訪ねる>

 この旅の最後に母校を訪ねた。正確には、母校の跡地である。今、母校の流れを受け継ぐ大学は筑波にある。卒業してから半世紀以上になるが、その間、一度も母校(跡)を訪ねていない。心の隅に親不孝な息子に似た気もちもある。

 それでも、筑波がおまえの母校かと聞かれれば、そうだとは言いにくい。母校はと聞かれたら、ここしかない。

 閉校のあと校舎等は撤去され、もう何もなく、「教育の森公園」となって、ただ「占春園」だけが残っていると聞いていた。

 地下鉄「茗荷谷」駅を出て、国道254号線をはさんで、お茶の水女子大学と反対側にある。

 どうでもよい話だが、記憶の底からふと浮かんできた思い出。

 大学に入学して間もない頃、朝夕はまるで通学バスのようになる池袋発の路線バスの中で、大勢の乗客の向こうから、「〇〇くーん」と大きな声で呼ばれた。手を振っている。何と同じ高校の2年先輩で、秀才の誉れ高かった女子だった。高校在学中、口をきいたことは一度もない。お茶の水女子大に入ったことはどこかで耳にして知っていたが、私のような凡庸な2年下の男子のことなど知るはずがないと思っていた。

 彼女は乗客の間を縫って近づき、「東京教育大に入ったんだって!! 私、お茶大の寮にいるの。一度、遊びに来て!!」と言われた。顔が赤くなるのを感じた。「はあ」と言いながら、女子寮などに行けるはずないだろうと思っていた。訪問は可能なのかもしれないが、わざわざ女子寮に行く気にはなれなかった。

 あのバスの中以後、多少気になっていたが、一度も会うことなく、彼女は卒業した。もう、お互いに年取って、顔を合わせても分からないだろう。

 ただ、私の中で、ずっと、お茶の水女子大というと、「才媛の学校」というイメージがあるのは、その女子先輩のイメージが重なっているからだ。

 しかし、もとはと言えば、東京高等師範学校と東京高等女子師範学校の関係だった。彼女も、高校が同窓であるばかりでなく、大学もそういう関係にあるから、気にかけてくれたのだろう。

 母校の跡地は茗荷谷駅からすぐ近くだ。土地の形状など、面影が残っているような気がした。

 どんどん入って、筑波大付属小学校の前で道を分け、樹林の小道を、人けのない森の奥へと進んで行くと、なつかしい池のあたりに出た。占春園だ。

 (占春園へ)

 私の記憶にあるより、かなり鬱蒼としていた。自然の森に帰ろうとしているのかもしれない。その森の中に、芭蕉の句を思わせるような古びた池がある。

  (占春園の池)

 傍らに、見覚えのある古い石碑があった。在学中はちゃんと読んだことがなかったが、今回は読んだ。

 占春園は守山藩の上屋敷の庭園として作庭され、江戸の三名庭の一つであったと刻まれている。

 帰って調べると、守山藩は水戸藩の支藩で、福島県の郡山市のあたりを所領にしていた。わずか2万石だが、親藩であるから参勤交代はなく、藩主はここに定住していた。

 入学した初めの3か月は、講義をサボって、一人、この池のそばへ来て『チボー家の人々』全巻を読みふけった。その後も、よくここに来た。

 そばに嘉納治五郎先生の像が立っている。

 (嘉納治五郎先生の像)

 説明があり、明治26年から大正8年まで、再度に渡り通算20余年東京高等師範学校長であったこと。また、講道館柔道の創始者であり、国際オリンピック委員としても活躍されたと記されている。

 学生時代の私にとって、「一人ぐらいお前のような学生もいていい。安心して、俺のそばで本を読め」と言ってくれているような偉い方だった。

 東京高等師範学校が、ここ、東京市小石川区(現在は文京区)大塚窪町に移転してきたのは1903(明治36)年である。

 1929(昭和4)年、東京高等師範学校に、東京文理科大学が設置された。東京高商に一橋大学が設置されたのと同様である。

 戦後の1945(昭和24)年に、東京教育大となる。文学部、理学部、教育学部、農学部、体育学部をもつ総合大学だった。教育学部も、小学校教員の養成課程ではない。全体にアカデミックな学風だった。その学風は、もしかしたら当時の私に合わなかったかもしれない。ちなみに、私が入学した時、式辞を述べられた学長は、のちにノーベル賞を受賞された原子物理学の朝永振一郎先生だった。

 1978(昭和53)年に閉学し、筑波大学に移管された。

 その間、75年の歴史をこの地に刻んだ。私がいたのはそのうちのたった4年間だけである。

 一番端っこの端に並んで、何とか卒業した。それで、今回も、そっと、嘉納治五郎先生に会いに来た。

 これで、この旅は終わる。

 (新幹線から)

  ★   ★   ★

 このブログ「東京を歩く」は、少々、美禰子にこだわり過ぎ、疲れてしまった。猛暑だったのに、夏休みもなかった

 ゆえに、1か月ほど休憩します

 もう少し秋らしく、涼しくなってから、再開します。また、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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われは我が咎(トガ)を知る(美禰子考3)(本郷⑤) … 東京を歩く8/9

2023年08月31日 | 東京を歩く

  (ロワールの森)

<三四郎の恋は片思いだったのか??>

 さて、『三四郎』をこうして1場面ごと追っていくとキリがなくなる。

 小説『三四郎』は田舎から出てきた青年の初恋物語で(も)あり、多くの初恋物語がそうであるように、三四郎の恋は失恋に終わる。

 田舎から上京した三四郎にとって、美禰子は躍進する「東京」そのもの。聡明で、自分の考えをもち、しかも美しい。青年は出会いのときから彼女に魅了された。

 三四郎を菊人形展に誘ってくれたのは、美禰子であった。

 美禰子にとっては、サンドイッチを作って広田先生の引越しの手伝いに行ったのも、菊人形展に行ったのも、野々宮さんと逢えるということが大事だったのかもしれない。そう考えると、引越しの日、野々宮さんが遅く来て誰よりも早くかえろうとしたとき、「随分ね」と言い、さらにそのあと、野々宮さんを追って外で立ち話したのも、何となく納得できる。

 だが、菊人形展で体調が悪くなったとき、多分、美禰子はそれまでの野々宮さんへの期待や思いに、気持ちの上で終止符を打ったのだ。……「責任を逃れたがる人だから」。

 一方、三四郎が菊人形展に参加したのは、美禰子に逢いたかったからである。

 それ以後も、三四郎は美禰子に逢える機会や場面があれば出かけて行った。大学の運動会を見に行ったのも、美禰子とよし子が行くと聞いたからである。そして、その帰りにうまく一緒になり、池の丘の上で二人の出会いの場面のことを語り合ったりする。

 三四郎は、物事をまっすぐに見る、朴訥ですがすがしい青年であった。聡明な美禰子は、三四郎の自分への眼差し感じとる。そして、自分自身もこの青年に心ひかれていった。<<※ 美禰子を「無意識の優美な演技家」と見る立場では、美禰子が一方的に三四郎の心を捉えていっただけという見方になる>>。

 だが、三四郎の美禰子への思いは、結婚という現実を考えようとしない純粋培養のような恋。美禰子が結婚の対象としてお付き合いできる相手ではなかった。

 それでも、美禰子が三四郎に心を寄せたかと思われる一瞬もあった <<※ 同様に、美禰子が優美に三四郎を弄んでいるだけという見方になる>>が、そのあとすぐに、唐突に、兄の友人である男との結婚に踏み切ってしまう。

 美禰子のその唐突さは、読者にはよく分からない。

 だが、私は、美禰子は三四郎に心ひかれる自分に区切りをつけようとしたのではないか、と考える。

 それに、結婚を決めた相手は以前からよく知っていた兄の友人で、結婚相手として信頼できる、好ましい男性だったから。

      ★

<雨降る樹下の二人>

 美禰子の心が近寄ったと三四郎が感じたであろうシーンを、そこに到る状況は省略し、そのほんの一瞬だけ、以下、抜き出す。

 二人は博物館を出た。外に出ると、雨が降っていた。

 「雨の中を濡れながら、博物館前の広い原の中に立った。幸い雨は今降り出したばかりである。その上烈しくはない。

 女は雨の中に立って、見回しながら、向こうの森を指さした。

 『あの樹の蔭へ入りましょう』

 少し待てばやみそうである。二人は大きな杉の下に入った。

 雨を防ぐには都合のよくない樹である。けれども二人とも動かない。濡れても立っている。二人とも寒くなった。女が『小川さん』と言う。男は八の字を寄せて、空を見ていた顔を女の方へ向けた。

 『悪くって?? さっきのこと』

 『いいです』

 『だって』と言いながら、寄ってきた。『私、何故だか、ああしたかったんですもの。野々宮さんに失礼するつもりじゃないんですけれども』。

 女は瞳を定めて、三四郎を見た。三四郎はその瞳の中に言葉よりも深き訴えを認めた。

 ── 畢竟(ヒッキョウ)あなたのためにしたことじゃありませんかと、二重瞼の奥で訴えている。三四郎は、もう一遍、

 『だから、いいです』と答えた。

 雨はだんだんと濃くなった。雫の落ちない場所はわずかしかない。二人は段々一つ所へかたまってきた。肩と肩と擦れ合うくらいにして立ち竦んでいた。

 雨の音の中で、美禰子が、

 『さっきのお金をお遣いなさい』と言った。

 『借りましょう。要るだけ』

 『みんな、お遣いなさい』と言った」。

      ★

<三四郎の恋の終わり>

 だが、この日からそんなに月日を経ずに、美禰子は兄の学友だった男との結婚を決めた(今なら婚約ということか)。そのことを三四郎はまだ知らない。

 そのことを知らぬまま、三四郎は、ついに自分の思いを美禰子に伝える。

 三四郎は学友の与次郎の不始末のために、美禰子から金を借りていた。その金を返すため、画家の原口さんのアトリエを訪ねた。情報通の与次郎から、美禰子が原口さんに絵のモデルを頼まれ、毎日、アトリエに通っていると聞いたからだ。

 モデルが姿勢を保つのが苦しくなると、画家は休憩を入れる。

 その休憩中、三四郎は美禰子のそばに行きお金を返そうとしたが、美禰子はここでは受け取れないと言う。それで、その日の作業が終わるのを待って、二人で表へ出た。

 三四郎は少し大回りして帰ろうと誘うが、断られる。美禰子はいつもより疲れているように見えた。無言のまま二人は歩く。

 「やがて、女の方から口をききだした。『今日は何か原口さんに御用がおありだったの』

 『いいえ、用事はなかったんです』

 『じゃ、ただ遊びにいらしったの』

 『いいえ、遊びに行ったんじゃありません』

 『じゃ、何でいらしったの』

 三四郎はこの瞬間をとらえた。

 『あなたに会いに行ったんです』

 三四郎はこれで言えるだけのことを悉く言ったつもりである。すると、女はすこしも刺激に感じない。しかも、いつものごとく男を酔わせる調子で、

 『お金は、あそこじゃ頂けないのよ』と言った。三四郎はがっかりした。

 二人はまた無言で五六間来た。三四郎は突然口を開いた。

 『本当は金を返しに行ったのじゃありません』

 美禰子はしばらく返事をしなかった。やがて、静かに言った。

 『お金は私も要りません。持っていらっしゃい』

 三四郎は堪えられなくなった。急に、

 『ただ、あなたに会いたいから行ったのです』と言って、横の女の顔を覗き込んだ。

 『お金は…』

 『金なんぞ…』

 二人の会話は双方とも意味をなさないで、途中で切れた。」。

 …… 美禰子が、画家の原口さんに用事があったのかと聞く。三四郎は、(原口さんではなく)、あなたに会いに行ったのだと答える。美禰子は、自分にお金を返却するためにわざわざ原口さんのアトリエまで出向いて来たのかと思い、あのお金は、今、自分に必要ないから、持っていてくれと言う。三四郎は「ただ、あなたに会いたいから行ったのです」とストレートにぶつけた。その言葉の意味に気づいて、美禰子は絶句する。

 「それなりで、また小半町ほど来た。今度は女から話しかけた。『原口さんの絵をご覧になって、どうお思いなすって』…… 『あんまり出来が早いのでお驚きなさりゃしなくて』」 (略)

 …… そして、あのやり取りになる。

 「『いつから取り掛かったんです』

 『本当に取り掛かったのは、ついこの間ですけれども、その前から少しずつ描いていただいていたんです』

 『その前って、いつ頃からですか』

 『あの服装(ナリ)で分かるでしょう』

 三四郎は突然として、初めて池の周囲(マワリ)で美禰子に逢った暑い昔を思い出した。

 『そら、あなた、椎の木の下にしゃがんでいらしったじぁありませんか』

 『あなたは団扇をかざして、高い所に立っていた』

 『あの絵のとおりでしょう』

 『ええ、あの絵のとおりです』

 二人は顔を見合した」。

 このとき、向こうから「背のすらりと高い細面の立派な人」がやってきて、美禰子を見つけて声を掛ける。「今まで待っていたけれども、あんまり遅いから、迎えに来た」。

 「『どなた』と男が聞いた。『大学の小川さん』と美禰子が答えた。男は軽く帽子を取って、向こうから挨拶した。『早く行こう。兄さんも待っている』。

 好い具合に三四郎は追分へ曲がるべき横町の角に立っていた。金はとうとう返さずに別れた」。

 美禰子は三四郎に、この男のことを説明しなかった。

 しかし、三四郎は、自分の恋の終わりを感じていた。

      ★

<美禰子の事情と三四郎の事情>

 やがて、三四郎は情報通の与次郎から、美禰子が結婚するらしいと聞く。

 美禰子の結婚は唐突だ。美禰子が野々宮さんのことを思い切ったのは菊の秋。今は冬。

 その間の事情はわからない。

 だが、少しわかることもある。さきほどのアトリエの場面。画家と美禰子の雑談のやりとりの中で、美禰子は画家に、兄が結婚することになったと言った。

 里見兄妹は両親はなく、一軒の家に(奉公人と)兄と二人で暮らしている。兄も既に30歳。兄が妻を迎えれば、美禰子も多少なりとも居ずらくなる。もちろん、当時、若い女性の一人暮らしは考えられなかった。

 それに ……

 先に、美禰子が心を寄せたかと思われる一瞬もあったが、そのあと唐突に美禰子は結婚を決めたと書いた。

 美禰子は三四郎の自分への思いを感じ取り、自身も三四郎に心ひかれていた。だが、三四郎との結婚は現実には考えられない。彼の思いは純真なあこがれのようなもの。美禰子は自分の思いを抑え、自分にとっても、多分、三四郎にとっても、最善な道を選択した。

     ★

 与次郎から美禰子が結婚するらしいと聞いたあと、三四郎は数日間も風邪で寝込んでしまった。古来、若者は、そんな風にして失恋の痛手を乗り越える。

 そこへ与次郎が見舞いに来て、枕元で言った。三四郎の恋心を見抜いて忠告してくれるのは与次郎だけである。

 「馬鹿だなあ、あんな女を思って。思ったって仕方がないよ。第一、きみと同じ年くらいじゃないか」。「何故というに、二十歳前後の男女を二人並べてみろ。女の方が万事上手(ウワテ)だあね。男は馬鹿にされるばかりだ。女だって、自分の軽蔑する男の所へ嫁に行く気は出ないやね」。

 美禰子も同様だと言う。「夫として尊敬のできない人の所へは初めから行く気はないんだから」「そういう点で、きみだの僕だのは資格はないんだよ」と自分のことも含めて、断定する。

 さらに、「あと5、6年たたなければ、自分たちの偉さは現れない。しかし、彼女は5、6年もじっと待つことはない。従って、君があの女と結婚することはできない」。

 そういう論理を組み立てて言って聞かせ、「早く風邪を治せ」と言って帰って行った。

 実際、三四郎は国元から月々仕送りを受けて下宿生活をし、大学に通っている身分である。この世にあって、まだ、何者でもない。

 その後、野々宮さんの妹のよし子も見舞いに来た。与次郎が、美禰子の事情を一番よく知っているのはよし子だから、よし子に聞いたら確かなことがわかると言って、三四郎の病気見舞いに行ってやってほしいと、よし子に頼んだのだ。

 三四郎はよし子から、美禰子の結婚相手が、美禰子の兄の友人であること、その男はよし子の縁談の相手だったことを聞く。三四郎は、野々宮さんのお宅で、たまたまよし子に縁談があること、その話をよし子が兄に断っている場面に出会っていた。

 とすると、美禰子がその相手との結婚を承諾したのはつい最近のことだ。かなり唐突に話がまとまったのだ。

 あの<雨降る樹下の二人>よりも後である。

      ★

 (ケルン大聖堂)

<チャーチの前の別れ>

 三四郎は美禰子にお金を借りたままだ。美禰子が結婚することになった以上、そのままにしておくわけにはいかない。

 二人の最後のシーンは、物語の冒頭の美禰子が花一輪を落として行く場面とともに、彼女を「無意識の優美な演技家である」と断ずる材料として、最もよく取り上げられるシーンである。

 三四郎は美禰子の家を訪ね、美禰子がチャーチに行ったと聞いて、さらにその足で教会へ向かった。そして、寒い中、礼拝が終わるまで外で待った。礼拝が終わり、人々の中にまじって美禰子も出てきた。

 美禰子は、三四郎が自分の結婚のことをまだ知らないと思っている。まだ公にはしていない。

 「『お風邪はもういいの。大事になさらないと、ぶり返しますよ。まだ顔色がよくないようね』。男は返事をしずに、外套の隠しから半紙に包んだものを出した。『拝借した金です。長々ありがとう。返そう返そうと思って、つい遅くなった』。

 美禰子はちょっと三四郎の顔を見たが、そのまま逆らわずに、紙包を受け取った。しかし手に持ったなり、しまわずに眺めている。三四郎もそれを眺めている。言葉が少しの間切れた。やがて、美禰子が言った。

 『あなた、ご不自由じゃなくって』

 『いいえ、この間からそのつもりで国から取り寄せておいたのだから、どうか取ってください』。

 『そう。じゃ頂いておきましょう』。

 女は紙包みを懐へ入れた。

  (略)

 空には高い日が明らかに懸かる。

 『結婚なさるそうですね』

 美禰子は白いハンカチを袂へ落とした。

 『ご存知なの』と言いながら、二重瞼を細目にして、男の顔を見た。三四郎を遠くに置いて、かえって遠くにいるのを気遣いすぎた目つきである。そのくせ眉だけははっきり落ち着いている。三四郎の舌が上あごへひっついてしまった。

 女はややしばらく三四郎を眺めた後、聞きかねるほどのため息をかすかに漏らした。やがて細い手を濃い眉の上に加えて言った。

 『われは我が咎(トガ)を知る。我が罪は常に我が前にあり』。

 聞き取れないくらいな声であった。それを三四郎は明らかに聞き取った。三四郎と美禰子は斯様(カヨウ)にして別れた」。

      ★

<われは我が咎(トガ)を知る>

 前回のブログに書いた「迷える羊(ストレイ・シープ)」のあたりまで、『三四郎』の前半部の美禰子は健康的で明るい。

 だが、連載の途中で、作者が「美禰子は無意識の偽善者である云々」の談話を出したせいか、後半部になって、前半部ほどには美禰子は生き生きと躍動しなくなる。そして、作者の美禰子を描く筆致に、時に陰、或いは影が付加されるようになった感がある。

 そして、この二人の最後のシーンの美禰子には、そう思って読むと、まるで日食でも起きたような陰りを感じる。

 多分、19歳の私も、読んだ文庫本の巻末の解説を読んで、そのように受けとめ、いやな女だと思った。そして、ずっと『三四郎』の美禰子はそういう女だと思ってきた。

 『本郷界隈』もこのように言う。

 「三四郎は、この作品の最後のあたりで、美禰子が、結婚することを知る。

 彼女が教会にいることを知って、外で待つ。彼女から借りた金を返すためであった。もはや借金を返済するということ以外に美禰子とのかかわりはなくなった。やがて、吾妻コートを羽織った美禰子が教会から出てくる。本郷三丁目の日射しが彼女をつつんでいる。漱石の文章は、美禰子を描写するとき、つい詩的になる。

 『女はややしばらく三四郎を眺めた後、聞きかねるほどのため息をかすかに漏らした。やがて細い手を濃い眉の上に加えて言った。

 われは我が咎(トガ)を知る。我が罪は我が前にあり

 聞き取れないくらいな声であった。それを三四郎は明らかに聞き取った』。

 これが、三四郎の淡い恋のおわりである。無意識な演技の結果としての三四郎の"恋"に対し、彼女はほのかに省みたらしく、自分の"悪"に気づいたかのようであったその気づき方さえ演劇的であった。同時に三四郎への残酷な引導にもなっている。華麗なものである」。

 美禰子論の一典型であろう。

 だが、今回、改めて美禰子の心に寄り添って読み返てみて、そういう読み方はしたくないなと思った。それはまあ、…… 私の年のせいかもしれない。これを書いた当時の司馬さんよりも、『三四郎』を書いた頃の漱石先生よりも、今はずっと年上になった。

 そもそもヒロイン美禰子を「無意識の優美な偽善者」とするのは、小説のためにだけに作られたキャラクター、つまり美禰子が「作り物」の人間のように私には思えてくる。三四郎という青年を上から操り人形のように優美に弄ぶ。無意識のうちに、残酷に!!??   

 さて、問題は、「われは我が咎(トガ)を知る。我が罪は我が前にあり」という聖書から引用した美禰子の言葉(祈り)の意味であろう。

 美禰子は、ここで、自分の何を指して、「我が咎」とし、「我が罪」としたのだろうか??

  『本郷界隈』は、「(自分の)無意識な演技の結果としての三四郎の"恋"に対し、ほのかに省みたらしく、自分の"悪"に気づいたかのようであった」とし、しかも、それを、演劇的に演じてみせたという。もちろん、演じたのも無意識のうちであろうから、悪意はない。

 少しばかり論理が矛盾し、それを「ほのかに」だとか、「らしく」だとか、「かのようであった」とぼかしているようにも思われる。

 それはともかくとして、「省みたらしく」とは、美禰子は何を「省みた」のか?? そして、「自分の"悪"に気づいたかのよう」と言うのは、自分のどういう「"悪"」に気づいたというのか?? 

 意訳すればこうなるだろうか??

美禰子の心A)

 「私は心ならずも、この純真な青年の心に私へのあこがれの気持ちを抱かせ、いつの間にか恋心を燃やすよう仕向けてしまった …… のかもしれない。その結果、私の結婚を知って、この青年はひどく心が傷ついてしまった。私は知らずに罪深いことをしてしまったみたい。ごめんなさい。悪いことをしたわ。そして、これでお別れよ。さようなら」。

 美禰子悪女論である。

      ★

 美禰子の「演技」は、愛なき虚構の驕慢な演技なのか、それとも、愛に伴う自然の演技なのか?? 私は、あえて後者と解する。

   人は誰でも人を愛したら、その心が、表情や、しぐさや、言葉や、行為に表れ出てくる。相手の顔を見て思わず笑顔がこぼれ、相手の眸を思わず見つめてしまい、ささいなことにも相手を気遣い、共通の思い出を語り合い、相手の危機には手も差し伸べたくなる。そういうときも、相手に好い印象を与えたくて、無意識のうちに演技的になる。愛は人を演技家にする。それは人間としての自然である。

美禰子の心B)

 「最初、池のそばにしゃがんでいるあなたを見た時、『迷える羊(ストレイ・シープ)』と思ったわ。可笑しいでしょう。

 あの頃、私は野々宮さんとのお付き合いに決着をつけて、結婚したかったの。兄に結婚話もあったから。

 そのあと、あなたは、私の方を向いてどんどん私に近づいた。

 一方であなたは、野々宮さんと私の関係をずっと気にしていたわ。でも、私は、結局、野々宮さんとのことはあきらめたの。

 あなたは真っ直ぐで、純朴で、魅力的だった。

 でも、あなたは結婚の対象にならないでしょう?? なのに、ふと気づくと、私の心もあなたにひかれていたの。

 そういうとき縁談があって、私もよく知っている兄の友人だった。この人ならと思ったの。

 その方の縁談は初めよし子さんに行ったのだけど、よし子さんはお断りしたの。だって、よし子さんはまだ二十歳前だから。でも、野々宮さんは妹を早く片付けて、身軽になりたがっていたのだと思う。

 その人は本当は以前から、私のことを思ってくれていたらしい。でも、私がその人の友人でもある野々宮さんとお付き合いしていることを知っていたから、遠慮していた。

 私は思いきって決めたの。だって、あなたのことを本気で思い続けても、あなたは何年か先には、私のことなんか思っていないかもしれないでしょう。

 私は結婚を決めた以上、後悔しないよう一生懸命、努力するつもりよ。

 でも、あなたの真っ直ぐな心に、私の心もひかれていたの。それなのに、現実を考えてしまった。その結果が、あなたを傷つけることを知っていたわ。あなたのことを思うと、私の心も痛む。

 私は、自分自身の素直な心も裏切り、あなたのまっすぐな心も裏切ってしまった。

 このことは、私の人生の悔いとして、ずっと心に残る。

 でも、今は、ただ、心の中でごめんなさいとあやまるしかない」。

 …… 私も、美禰子にすっかり騙されてしまったのかもしれない。以上は、こういう物語であってほしいという私の願望込みの話である。

  なお、美禰子がつぶやいた(祈った)聖書の言葉は、旧約聖書の詩編第51編にある。念のため原文を記す。

 「神よ、私を憐れんでください、御慈しみをもって。/深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。/私の咎をことごとく洗い、罪から清めてください。/あなたに背いたことを私は知っています。/私の罪は常に私の前に置かれています。…… 」。

       

<エピローグ ─「 ストレイ・シープ」>

 小説『三四郎』のエピローグは、「森の女」という題名の絵を見に行く場面で終わる。画家の原口さんが美禰子をモデルに描いた等身大の大きな絵である。

 美禰子は既に結婚した。

 「森の女」は展覧会場の一部屋に掛けられ、展覧会の開会の日から評判を呼んだ。

 与次郎に誘われ、三四郎は、広田先生、野々宮さんらと展覧会場にやって来る。彼らはまず「森の女」が掛けらた部屋に向かった。

 以下、本文からの抜粋。

 「与次郎が『あれだ、あれだ』と言う。人が沢山集(タカ)っている。三四郎は入り口でちょっと躊躇した。野々宮さんは超然として入った。

 大勢の後から、覗き込んだだけで、三四郎は退いた。腰掛に寄ってみんなを待ち合わしていた。

 『素敵に大きなもの描いたな』と与次郎が言った。

 『佐々木(※与次郎のこと)に買ってもらうつもりだそうだ』と広田先生が言った。

 『僕より』と言いかけて、見ると、三四郎はむずかしい顔をして腰掛にもたれている。与次郎は黙ってしまった」。

 ( 略 一行はしばし、感想を述べあった後、別の絵の方へ向かう)

 「与次郎だけが三四郎のそばへ来た。

 『どうだ、森の女は』

 『森の女という題が悪い』

 『じゃ、何とすれば好いんだ』

 三四郎は何とも答えなかった。ただ口の内で、迷羊(ストレイ・シープ)、迷羊(ストレイ・シープ)と繰り返した」。

 ここで、この物語は終わる。

 漱石は、最後に、「迷羊(ストレイ・シープ)、迷羊(ストレイ・シープ)と繰り返し」て、物語を閉じた。

 利発な美禰子の選択が幸せなものになるかどうか、それはわからない。幸せになるかもしれないし、そうでないかもしれない。

 そういうこととかかわりなく、美禰子はこれからも迷える羊であろう。そして、自分もそうである。そう、三四郎は思った。

 …… 広田先生も、野々宮さんも、どこかで、皆、迷える羊なのだ。

 漱石はそういうことを言いたかったのではなかろうか。

            ★

<美禰子考」の終わりに>

 再三、取り上げて恐縮だが、『本郷界隈』(司馬さん)の次の一節はヒントになる。

 「『三四郎』という小説は、(主人公の青年が) 配電盤にむかってお上りをし、配電盤の周囲をうろつきつつ、眩惑されたり、自分をうしないかけたりする物語である。明治時代、東京が文明の配電盤だったという設定が理解できなければ、なんのことだかわからない」。

 その「東京」を、ヒロインの「美禰子」に置き換えてみたら良いのではないか、と既に書いた。

 三四郎という青年が、ヒロイン「美禰子」の周囲をうろつきつつ、眩惑されたり、自分をうしないかけたりする物語である。

 美禰子には「自分」というものがある。自覚的で、精神的に自立した女子である。「我」に目覚めた近代人は、前近代のしがらみを脱して「自由」になる。だが、一方で、根っこを失った近代人は、宙を浮遊する。迷子になるのだ。(広田先生が三四郎に、それに似たことを語る場面があった。前近代を全否定してしまったらだめだよと)。

 それはともかく、私の「読み」では (私の「読み」が正しければ)、三四郎は、美禰子という利発で自立した精神をもつ新しい女性の中で、確かな存在感をもった。三四郎は、美禰子に翻弄されながらも、出会いから別れまでの間、真っすぐに美禰子と対峙した。

 そういう意味で、ここに一つの青春があった。

   (三四郎の池)

 だから、この池は「三四郎の池」である。初恋や失恋の経験もない青年に、未来は託せない。

 「池は、その青年の名を異名として冠している」(司馬遼太郎)。

 さて、私の東京紀行はすっかり寄り道をしてしまった。私もこれで『三四郎』を卒業しよう。

 

 

 

 

  

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迷える羊(美禰子考 2) (本郷 ④) … 東京を歩く7

2023年08月20日 | 東京を歩く

   (三四郎の池)

<美禰子の、三四郎との出会い>

 前回、「三四郎の池」の出会いの場面における三四郎の心理を表現に即して分析した。だが、美禰子の方は何を感じ、どう思っていたのだろうか。

 今回読み返して、この池のほとりの出会いのシーンを二人で回想する場面が、このあと3回も出てくることに気づいた。

① まず、三四郎が広田先生の引越しの手伝いに行き、「池の女」(美禰子)と再会する場面。

 三四郎が庭の縁側に坐っていると、裏木戸が開いて池の女が入ってきた。このあと、前回の冒頭の<閑話>で取り上げた秋の女のシーンになる。

 そのあと、三四郎は女から名刺をもらう。名刺には「里見美禰子」とあった。そして、三四郎が腰掛けている縁側に、少し離れて美禰子も腰を下ろした。

 「『あなたにはお目にかかりましたな』と名刺を袂へ入れた三四郎が顔を挙げた。

 『はあ。いつか病院で … 』と言って女もこちらを向いた。(※野々宮さんの妹のお見舞いに行ったとき、病院の玄関で出会った)。

 『まだある』

 『それから池の端で … 』と女はすぐ言った。よく覚えている。三四郎はそれで言うことがなくなった。女は最後に、『どうも失礼いたしました』と句切りをつけたので、三四郎は『いいえ』と答えた。すこぶる簡潔である。

② 二つ目は大学の運動会の帰り。三四郎と美禰子は、「三四郎の池」を見下ろす別の丘の上に立つ。

 丘の上から、美禰子は下方の池の暗い木陰を指さして、

 「『あの木を知っていらしって』という

 『あれは椎』

 女は笑い出した。『よく覚えていらっしゃること

 『あの時の看護婦ですか。あなたが今訪ねようと言ったのは』

 『ええ』

 『よし子さん (※ 野々宮さんの妹) の看護婦とは違うんですか』

 『違います。これは椎 ── と言った看護婦です』

 今度は三四郎が笑い出した。『あそこですね。あなたがあの看護婦と一緒に団扇を持って立っていたのは』。 (略)

 『あなたはまた何であんな所にしゃがんでいらしったんです』。

 『暑いからです。あの日初めて野々宮さんに逢って、それから、あそこへ来てぼんやりしていたのです。何だか心細くなって』」。

③ 三つ目は物語の後半部。画家の原口さんのモデルになっている美禰子を訪ねた帰り道のこと。

 モデルになって絵を描き始めた時期のことが話題になり、

 「『その前って、いつ頃からですか』

 『あの (※モデルのときの) 服装(ナリ)で分かるでしょう』

 三四郎は突然として、初めて池の周囲(マワリ)で美禰子に逢った暑い昔を思い出した。

 『そら、あなた、椎の木の下にしゃがんでいらしったじぁありませんか』

 『あなたは団扇をかざして、高い所に立っていた』

 『あの絵のとおりでしょう』

 『ええ、あの絵のとおりです』

 二人は顔を見合した」。

 あの日、美禰子は絵のモデルとして画架の前に立ち続けて、その帰りだったのだ。色彩の綺麗な和服姿で、髪には白い薔薇を挿し、手に団扇を持っていた。

 もしかしたら、そんな装いで長時間のポーズを取り続けた余韻が、花一輪を落として行くという芝居がかった行為になったのかもしれない??

 それはわからないが、…… 少なくともそういう芝居がかったことを、美禰子がいつもしているわけではない。従って、この行為一つで美禰子像を決定づけてはいけない。しかし、時に、そういうこともやってのける不敵さが美禰子にはある。

 ともかくこれらの回想から、美禰子においても、あのときの三四郎が心に残ったことがうかがえる。

 自分を凝視し続けた不躾な或いは無礼な青年というようなことではなく、印象に残るものがあったのだ。

  ( トゥルニューの大聖堂/ブルゴーニュ)

       ★   ★   ★

<広田先生の引越し先で 「女だって」>

 広田先生の引越し先の縁側で、こうして待っていても仕方がないから2人で掃除を始めようと、美禰子が三四郎に提案する。三四郎は隣家で掃除道具を借りてきた。美禰子が部屋の畳を掃き、そのあとを三四郎が雑巾掛けしていく。作業しながら、二人は次第に打ち解けていく。

 そのさ中、こんな場面も。

 「美禰子は例のごとく掃きだした。三四郎は四つ這いになって、後から拭きだした。美禰子は箒を両手で持ったまま、三四郎の姿を見て、

 『まあ』と言った」。

 美禰子にとって、四つ這いになって畳を拭く男の姿は新鮮だった。

 法学士の兄や、兄の友人で結婚を前提にお付き合いをしている研究者の野々宮さんや、一高の教師の広田先生は、そういうことをしない男たちである。

     ★

 1階から2階の部屋の掃除を終えて一息入れ、二人は2階の窓から雲を眺める。

 「三四郎は、…… あの白い雲はみんな雪の粉で、下から見てあのくらいに動く以上は、颶風(グフウ)以上の速度でなくてはならないと、この間野々宮さんから聞いたとおりを教えた。美禰子は

 『あらそう』と言いながら三四郎を見たが、

 『雪じゃつまらないわね』と否定を許さぬような調子であった

 『なぜです』

 『なぜでも、雲は雲でなくっちゃいけないわ。こうして遠くから眺めている甲斐がないじゃありませんか』

 『そうですか』(以下略)」

 ここは、美禰子は気が強いな、などと思いながら読みとばしてしまうところだ。

 漱石は明確には書いていないが、注意深く読んでいくと、野々宮さんと美禰子が長いお付き合いをしてきたことが仄めかされている。美禰子は、野々宮さんが将来を嘱望される研究者であることもよく知っている。また、野々宮さんが自分に好意をもっていることも知っている。雲が雪であるという話は、デートの時に野々宮さんから聞いた話だ。美禰子には三四郎の話の出どころはすぐに分かった。

 野々宮さんはたまに二人で逢ったとき、いつもこういう話をする。まるで理科の先生と生徒みたいに。初めは偉い人だと思って聞いていたが、二人のお付き合いは既に長い。あいまいなまま、まともに向き合おうとしない野々宮さんに、美禰子は愛想をつかしかけているのだ。

 「『雪じゃつまらないわね』と否定を許さぬような調子であった」というのは、美禰子の野々宮さんに対する否定的な気持ちの表れである。

 そういう風に読み込んでいくと、美禰子の心も、彼女の事情も、少しは理解できてくる。

      ★

 やがて、二人を動員した与次郎が荷車に荷物を積んで現れ、さらに広田先生もやってきて、たくさんの書物の整理をする。

 ほぼ全ての作業が終わった頃、野々宮さんもやって来た。

 野々宮さんにとって広田先生は一高時代以来の恩師である。

 一段落したあと、美禰子は持ってきた大きなバスケット(籃)からサンドウィッチを出して、小皿に分け、皆にふるまう。

    以下は、三四郎の学友の与次郎と美禰子とのやりとりである。

 「『よく忘れずに持ってきましたね』

 『だって、わざわざご注文ですもの』

 『その籃も買ってきたんですか』

 『いいえ』

 『家にあったんですか』

 『ええ』

 『大変大きなものですね。車夫でも連れてきたんですか。(略)』

 『(略) 女だってこのぐらいなものは持てますわ

 『あなただから持つんです。ほかのお嬢さんなら、まあやめますね

 『そうでしょうか。それなら私もやめればよかった』

 美禰子は食物を小皿へ取りながら、与次郎と応対している。言葉に少しも淀みがない。しかも、ゆっくり落ち着いている。ほとんど与次郎の顔をみないくらいである。三四郎は敬服した」。

 前回引用した部分に、「女の言葉は明確(ハッキリ)している。普通のように後を濁さない」とあった。     

 「女だってこのぐらいなものは持てますわ」「あなただから持つんです。ほかのお嬢さんなら、まあ、やめますね」。

 「三四郎は敬服した

 初めて『三四郎』を読んだ19歳のとき、こういう箇所も読みとばしていた。

 美禰子は、男たちと会話するときも、自然で、軽やかで、しかも的を射た受け答えをする。言い換えれば、女らしく、慎み深く、控えめな、もの言いはしない。

 大きな籃(バスケット)も、当たり前のように一人で持って来る。(この時代、それなりの家の女性は、外出に当たって、自分で物を運ぶようなことはしなかった)。

 漱石は、そういう女性として美禰子を描いている。こういう美禰子の言葉やふるまいに沿って考えると、「優美な演技家」とか「男を擒にする女」という評価は、少し不自然ではないだろうか。

     ★ 

  「『どれ僕も失礼しましょうか』と野々宮さんが腰を上げる。

 『あらもうお帰り。随分ね』」と美禰子が言う。

  「随分ね」は、一番最後に来て、最初に帰ることへの軽い非難。ただし、年上の男性に対して、よほど親しくなければ、こういう言葉は出ない。

 「野々宮さんが庭から出て行った。その影が折り戸の外へ隠れると、美禰子は急に思い出したように『そうそう』と言いながら、庭先に脱いであった下駄を履いて、野々宮の後を追いかけた。表で何か話している。

 三四郎は黙って座っていた」。

 美禰子は、野々宮さんが将来を嘱望された若手研究者であることを知っている。それに、彼は落ち着いた穏やかな性格である。

 だが、彼の頭の中を占めているのは研究のことで、日常的な人間関係に煩わされたくない。本当は今日も来たくなかったのだ。美禰子との関係も、煮え切らないままずっと先延ばししてきた。

 三四郎は二人の関係を知らないまま、気にしている。野々宮さんと美禰子が結婚を前提としてお付き合いをしているのなら、自分が出る幕はないのである。

 (シャガール美術館─ニース)

   ★   ★   ★

<団子坂から野の道へ ━ 迷える羊(ストレイ・シープ)>

 次は、団子坂の菊人形展に行く場面である。(団子坂及びこのとき三四郎と美禰子が歩いたコースのことは、当ブログ「本郷① 薮下の道」で取り上げた)。

 美禰子からお誘いがあって、三四郎は菊人形展に同行することになる。メンバーは、広田先生、野々宮さん、その妹のよし子、美禰子、そして三四郎の5人である。

 団子坂の会場のあたりは、泣き叫ぶ迷子もいて、大混雑だった。

 会場の中で菊人形を見ていたとき、三四郎は少し離れた所にいる美禰子の様子がおかしいことに気づく。気分が悪いらしい。

 美禰子は首をめぐらせて、野々宮のいる方を見た。

 こういうとき、美禰子が頼るとしたら野々宮さんであろう。だが、野々宮さんは少し離れた向こうで、広田先生と菊の培養法について談義している。いつものとおりだ。

 美禰子はそういう野々宮さんを見限って、一人で出口の方へ向かう。

 彼女は気丈である。しかし、そればかりでない。思うに、おそらくこの瞬間、美禰子はずっと迷っていたことを、ふり切ったのだ。

 三四郎は、三人を残して、群集を押し分けながら美禰子の後を追った。 

 追いついたとき、美禰子は青竹の手欄に手を付いていた。

 「どうかしましたか」。三四郎を見た美禰子の物憂い眼に、三四郎は体調のことだけではない何かを感じる。だが、三四郎には、美禰子の心も、事情も、知る由がない。

 美禰子は「もう出ましょう」と言って、一人で出口の方へ歩いて行く。三四郎はついていった。

 表に出ると、周囲はまるで人が渦をまいているような状態だった。

 半町(注 : 5、60m)ほど歩いたとき、美禰子は人ごみの中でやっと、「私、心持ちが悪くって…」と言った。「どこか静かな所はないでしょうか」。

 この辺りは本郷の一角だから、三四郎はよく散策している。「もう1町ばかり歩けますか」と聞くと、「歩きます」と言う。

 二人は石橋を渡って、賑やかな団子坂の通りから、左へ折れた。

 そして、しばらく路地のような所を歩いて行く。すると広い野に出た。(略)

 「ありがとう。大分好くなりました」。「もう少し歩けますか」。(略)

 漱石が、美禰子をどういう女性として描いているか、次の表現に注目したい。

 「1丁ばかり来た。また橋がある。1尺に足らない古板を造作なく渡した上を、三四郎は大股に歩いた。女もつづいて通った。待ち合わせた三四郎の眼には、女の足が常の大地を踏むと同じように軽く見えた。この女は素直な足を真っ直ぐに前へ運ぶ。わざと女らしく甘えた歩き方をしない。従って、むやみにこちらから手を貸すわけにいかない」。

    美禰子を「無意識かつ優美な天性の演技家」とすることに首をかしげたくなるのは、こういう叙述があるからである。

 現代の心理学者は、人は誰でもそれぞれに、それぞれの役割を「演じて」生きていると言う。家庭ではそれぞれに父親を、会社ではそれぞれにもの分かりのいい係長やベテランの課長を、また、久しぶりの同窓会ではそれぞれに在りし日の高校時代の友を。

 そういう意味でなら、美禰子も美禰子らしさを演じて生きている。

 『三四郎』の時代より前の時代(前近代)から現代に到るまで、多くの場面で男はそれぞれに男らしさを演じてきたし、女はそのときどきに「女らしく甘えた」しぐさやふるまいをして見せた。

 だが、美禰子は「素直」で「真っ直ぐ」であると漱石は言う。わざと「女らしさ」を演じないのだ。

   この一点において、美禰子はすがすがしい。

      ★

 続きである。

 二人の向こうに藁屋根が見える。屋根の下に赤い唐辛子が干してある。それを見て、美禰子は「美しいこと」と言い、小川の縁の草に座った。着物が汚れるからもう少し先へと三四郎が言うが、美禰子は意に介さない。結局、三四郎も腰を下ろした。

 川上で百姓が大根を洗っている。小川の向こうは広い畑で、畑の先は森、その上は空である。遠くで、菊人形の客を呼ぶ声が、折々、聞こえてくる。

 しばらく、とりとめもなく話した後、三四郎は言う。

 「『広田先生や野々宮さんはさぞ後で僕らを探したでしょう』。

 美禰子はむしろ冷ややかである。『なに大丈夫よ。大きな迷子ですもの

 『迷子だから探したでしょう』と三四郎はやはり前説を主張した。

 すると美禰子は、なお冷ややかな調子で、『責任を逃れたがる人だから、丁度好いでしょう

 『誰が?? 広田先生がですか』。美禰子は答えなかった。『野々宮さんがですか』。美禰子はやっぱり答えなかった」。

 三四郎は、野々宮さんと美禰子との関係が気になっているが、よくわからないでいる。

 「責任を逃れたがる人だから、丁度好いでしょう」という言葉は、結婚を前提にお付き合いをしてきて、いつまでも煮え切らないままの野々宮さんに対する美禰子の怒りである。

 「もう気分はよくなりましたか。よくなったら、そろそろ帰りましょうか」と言う三四郎に対して、美禰子は立ち上がろうとしない。美禰子は強情である。

 …… そして、「迷子」と言う。

 「女は三四郎を見たままでこの一言を繰り返した」。

 美禰子は、菊人形展を見に来た一行からの迷子であるだけでなく、自分は今、人生の迷子なのだと思う。方向を見失っているのだ。

 「三四郎は答えなかった。

 『迷子の英訳を知っていらしって』。

 三四郎は知るとも、知らぬとも言い得ぬほどに、この問いを予期していなかった。

 『教えてあげましょうか』

 『ええ』

 『ストレイ・シープ(迷える子) ── わかって??』。 (略) 

 ストレイ・シープ(迷える子)という言葉はわかったようでもある。また、わからないようでもある。わかる、わからないは、言葉の意味よりも、むしろこの言葉を使った女の意味である。三四郎はいたずらに女の顔を眺めて黙っていた。すると女は急に真面目になった。

 『私そんなに生意気に見えますか』。

 その調子には弁解の心持がある。三四郎は意外の感に打たれた。 (略)

 女は卒然として、『じゃ、もう帰りましょう』と言った。嫌味のある言い方ではなかった。ただ三四郎にとって自分は興味のないものと諦めるような静かな口調であった」。

(イン・クラッセ聖堂のモザイク画/ラベンナ)

 のちに、美禰子がキリスト教の教会に通っていることがわかる。「迷える羊」は、新約聖書のマタイ伝18-13~に出てくるイエスの言葉である。

 「ある人が羊を100匹もっていて、その1匹が迷い出たとすれば、99匹を山に残しておいて、迷い出た1匹を捜しに行かないだろうか」。「もし、それを見つけたら、迷わずにいた99匹より、その1匹のことを喜ぶだろう」。

 イエスは、神の前で人はみな迷える羊であると説いているのである。

 美禰子を「優美な天性の演技家」と考える人は、このシーンを、思わせぶりなことを言って、初心な三四郎を擒(トリコ)にしようとすると理解する。… 迷える羊の私を捜しに来てほしい …。

 だが、到る所に仄めかされている美禰子の状況を読みとっていけば、そのようには思えない。

 実際、美禰子は人生の岐路に立たされているのだ。長年、お付き合いしてきた野々宮さんとの関係・結婚のこと。

 さらに、そういうことの根底にある、一人の女性としてのありようのこと。それは、「私そんなに生意気に見えますか」という問いに表れている。

 彼女は前近代の女ではない。今までの女性なら、自分の置かれた宿命に従って、家や親の意を受けて結婚し、夫に従い、伝統やしきたりに沿って生きただろう。そこには、「自分」はない。

 だが、美禰子には「自分」がある。「我」に目覚めた近代人は、前近代のしがらみを脱して「自由」になる。だが、一方で、根っこを失った近代人は宙を浮遊する。迷子になるのだ。

 美禰子は、自分の迷いを少しだけ三四郎に漏らしてみたかった。

 彼女にとって、このときの三四郎は、異性の友達、或いは、姉と弟のような感じに近かったかもしれない。

      ★

 その後、「すっかり直りました」という美禰子と、赤い唐辛子が干してあった家の脇の小道をたどって帰る。その途中のこと。

 「足の前に泥濘(ヌカルミ)があった。4尺(1.2m)ばかりの所、土が凹んで水がぴたぴたに溜まっている。その真ん中に足がかりのために手頃な石を置いたものがある。三四郎は石のたすけをからずに、向こうへ跳んだ。そうして美禰子を振り返って見た。美禰子は右の足を泥濘の真ん中にある石の上へ乗せた。石の据わりがあまり善くない。足へ力を入れて、肩をゆすって調子を取っている。三四郎はこちら側から手を出した。

 『おつかまりなさい』

 『いえ、大丈夫』と女は笑っている。手を出している間は、調子を取るだけで渡らない

 三四郎は手を引っ込めた。すると美禰子は石の上にある右の足に、身体の重みを託して、左の足でひらりとこちら側へ渡った。あまりに下駄を汚すまいと念を入れすぎたため、力が余って、腰が浮いた。のめりそうに胸が前へ出る。その勢いで美禰子の両手が三四郎の両腕の上へ落ちた。

 『ストレイ・シープ(迷える子)』と美禰子が口の内で言った。三四郎はその呼吸(イキ)を感ずることができた」。

 漱石先生の描写表現は、生き生きと美しい。『三四郎』という作品の中で、この場面の美禰子を私はいちばん好きかもしれない。

 だが、三四郎よ、誤解してはいけない。    

      ★

<美禰子からの葉書 ━ 2匹の迷える羊>

 その何日かあと、美禰子から三四郎の下宿に葉書が届く。

 絵が描いてある。

 緑の草の中に2匹の羊。表の宛名の下に差出人の名はなく、「迷える子」と書いてあった。

 三四郎は、迷える子のなかには、美禰子のみではない、自分も入っていたのだと思い、「美禰子の使ったstray sheep(ストレイ・シープ)の意味がこれでようやく判然した」と考える。

 (迷える2匹の羊)

 美禰子は、三四郎という青年が人生のどこへ向いて歩いて行けばよいかわからないでいることを見抜いている。それは、あの出会いの場面、池のそばにしゃがんでいた三四郎を見た瞬間に感じとったのかもしれない。

 そして、自分もまた、一人の女として、どう生きていったらよいのか迷っている。

 広田先生や、野々宮さんは、自分の歩く道を決めて、既に相当に歩いている。彼らはもう迷わない。

 でも、あなたも私も、迷える羊ね。

 美禰子はそういう思いを表現したかったのだろうか。

 そこには、同年齢の男への媚びも含まれているかもしれない。しかし、それは、普通、大なり小なりあることである。

 しかし、それ以上に、この時、彼女は自分らしく生きることに精一杯だったのだと思う。長いお付き合いをしてきた果てに、思いをたち切るのはたやすいことではない。しかし、野々宮さんは自分が人生を共にする人ではないと、結論付けたのだ。

 だが、当時の年頃の若い女性に多様な選択肢が用意されているわけではない。

 (続く)     

 

 

 

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美禰子考⑴ (本郷③) … 東京を歩く6

2023年08月12日 | 東京を歩く

   (シャガール美術館 ─ ニース)

 東京旅行から帰って、小説『三四郎』を読み返してみた。19歳のときに読み、コケティッシュだと思った美禰子というヒロインにもう一度会ってみたくなったから。

 読み返してみて、まとまったことを書くのは難しいと感じた。

   それで、読み返すなかで気づいたことや考えたことの一部を、メモ風に書きとめることにした。

      ★

<閑話 ─ 詩のような漱石の文章>

 本題に入る前に ……

 今回、読み直して、写真で見れば気難しそうな漱石先生が、詩のようなメルヘンチックな文章も書くのだと(書こうと思えば書けるのだと)、改めて感心した箇所があった。その一つを紹介。

 その場面は ── 季節は秋。三四郎は学友の与次郎に頼まれて、祭日の日の朝、広田先生の引越しの手伝いに行く。ところが、まだ誰も来ていなかった。

 一人で待っていると、(同じように手伝いに呼ばれた)「池の女」 が庭に入ってきた。 (このとき、三四郎はまだ、彼女の名を知らない)。

 次のゴシックの部分を味わって読んでいただきたい。

      ★

 三四郎は、一人、手持ち無沙汰のまま、小さな庭の縁側に座っている。そのとき、「庭木戸がすうと明いた。そうして思いも寄らぬ池の女が庭の中にあらわれた」。 (略)

 『失礼でございますが…』。 (略)

 『広田さんの御移転(オコシ)になるのは、こちらでございましょうか』

 『はあ、ここです』。

 女の声と調子に比べると、三四郎の答えはすこぶるぶっきら棒である。

 「『まだお移りにならないんでございますか』。女の言葉は明確(ハッキリ)している。普通のように後を濁さない」(※ アンダーラインの部分については、あとで取り上げる)。

 『まだ来ません。もう来るでしょう』

 女はしばしためらった。手に大きなバスケット(籃)を提げている」。 (略)

 上から桜の葉が時々落ちて来る。その一つがバスケット(籃)の蓋(フタ)の上に乗った。乗ったと思ううちに吹かれて行った。風が女を包んだ。女は秋の中に立っている。

 『あなたは …… 』

 風が隣へ越した時分、女が三四郎に聞いた

 『掃除に頼まれてきたのです』と言ったが、現に腰を掛けてぽかんとしていた所を見られたのだから、三四郎は自分でも可笑しくなった。すると女も笑いながら、『じゃ私も少しお待ちしましょうか』と言った」。

   どうでしょう 風を擬人化して、テレビのコマーシャルの1シーンに使いたいような、オシャレな文章です。 

  ★   ★   ★

<美禰子は「優美な天性の演技家」か??>

 さて、以下は、ヒロイン美禰子はどういう女性として描かれているのか、ということについてである。

 ちなみに、『本郷界隈』(司馬遼太郎) の美禰子論はこうである。

 「(『三四郎を』を)連載中の明治41年、(夏目漱石は)『早稲田文学』に談話を載せている。この女(美禰子)は『無意識(アンコンシアス)な偽善者(ヒポクリツト)』であるという」

 「このタイプの女性は、『ほとんど無意識に、天性の発露のままで男を擒(トリコ)にする』のである。むろん善悪の道徳観念はほとんどもたない。要するに、無意識かつ優美な天性の演技家なのである。偽善には演技を伴う。演技が偽善ともいえる。後者(無意識)の場合、演技をして、そこから何を得ようという功利的目的もない。だから三四郎と結婚することなど頭から考えずに、いわばなぶるのである」。

 敬愛する司馬さんではあるが、この美禰子論はちょっときびしい。

 例えば、「三四郎と結婚することなど頭から考えずに …… 」と言う。

 だが、それは、むしろ三四郎の方である。『三四郎』の中にこういう場面がある。

 大学の講義が終わって教場を出るとき、三四郎は親しい学友である与次郎に突然、聞かれる。三四郎の恋を察知し、忠告を与えるのは、与次郎だけである。

 『あの女 (美禰子のこと) はきみに惚れているのか』。

 三四郎は『よく分からない』と答える。

 「与次郎はしばらく三四郎を見て、『そういうこともある。しかし、よく分かったとして、きみ、あの女のハズバンド(夫)になれるか』。

 三四郎は未だかつてこの問題を考えたことがなかった」。

 三四郎は、結婚のことなど頭から考えず、美禰子にひかれ、近づいていった。与次郎は、同年齢の女性との愛は成立しないからやめておけと言うのだ。

 実際、23歳の三四郎は田舎から出てきて大学へ入ったばかり。親の仕送りで勉強をしている身である。この世において、まだ、何ものにもなっていない。

 物語の終わり、美禰子は唐突に兄の学友だった男と結婚する。それで、三四郎の気をひき、擒(トリコ)にし、あっさり他の男と結婚した女という評価も出てくる。

 しかし、美禰子は三四郎に心ひかた瞬間もあったように読み取れる。だが、三四郎のそういう立ち位置を考えて、他の縁談を受け入れたのではないだろうか。そう読みとる方が自然である。

     ★ 

 そもそも文芸研究家や評論家は、しばしば、『三四郎』連載中に漱石自身が語ったという「美禰子論」を紹介し、それを根拠にしてヒロイン美禰子を説明する。

 だが、例えばピカソが、自分の抽象画の意味を誰かに聞かれて、(普通は笑って答えないと思うが)、仮に答えたとしても、それはそのときのピカソの思いのほんの一端の吐露、或いは、そのときの気分で答えたのかもしれず、或いはまた、自分の絵のファンのためにサービスとして語ったことかもしれない。

 だから、創作者自身がどう言ったかを根拠にして作品を説明するのは、必ずしも正しいやり方とは思えない。

 よく言われるように、発表された作品は世に出た瞬間に創作者の手を離れる。そして、時代を超えて、享受者の側に委ねられるのである。

 よって、作品の理解は、作者自身がどう言ったかを根拠にすべきではなく、作品に表現されているところに沿って、享受され、理解されるべきあろう。

     ★

 もう一つ。初めて『三四郎』を読んだ10代の終わり、私も美禰子をコケティッシュ女だと思った。男の心を翻弄するような魅力的な賢い女性というほどの意味である。それは、「無意識かつ優美な天性の演技家」ということと通じる。ただし、司馬さんの場合は、「… いわばなぶるのである」と、非難のニュアンスが強い。

 美禰子の三四郎に対する言葉やふるまいは、全て、男を擒(トリコ)にする天性の演技なのであろうか??

 今回、美禰子のその時々の心情を考えながら、美禰子の立場に添って読み直してみた。

 すると、明らかに演技めいたふるまいは最初の出会いのシーン ─ 池のそばで三四郎の目の前に花一輪を落として行った ─ だけかも知れない、とも思った。

 はっきりしていることは、主人公の三四郎自身が、物語の最終章においても、美禰子に「なぶられた」などとは思っていないことである。

 私は、男を擒にするようなキャラクターの女とその女に翻弄される青年の物語などではないと考える。『三四郎』は、江戸の色男や金持ちの坊ちゃんを題材にした浮世草子ではないのだから。

 とにかく、作品の表現に即して読んでいこう。

 その結果、それぞれの美禰子論があっていいと思うのである。

     ★

<きみが心は知りがたし>

 今回、再読して、美禰子についてまとまったことを書くのがむずかしいと感じた。それには理由がある。

 また、『本郷界隈』から。

 「最近、桜楓社が漱石の作品論をあつめた全集を出した。その第5巻『三四郎』を読んでみて、研究者たちの論文のほとんどが美禰子論だったのがおもしろかった。漱石は、それほどあざやかに美禰子を造形したのである」。

 『三四郎』という作品を論じた論文のほとんどが、「美禰子論」だったという。

 それは、美禰子というヒロインが魅力的であるというだけでなく、とらえがたいからだ。魅力的で、しかも、とらえがたいが故に、多くの論者が美禰子論を論じてみたくなる。

 だが、今回、読み直してわかったことは、作品に描かれている美禰子はほとんど全て主人公の三四郎の眼と心に映じた美禰子であるということだ。

 ゆえに、美禰子の言葉やふるまいの奥にあるその時々の美禰子の心情は、三四郎の目と心を通してしか、私たちにはわからない。

 美禰子は三四郎の自分への眼差しを意識する。そして、親しくなっていき、三四郎に心を寄せたかと思われる一瞬もあったのだが、そのあと、唐突に兄の友人である男との結婚に踏み切ってしまう。

 美禰子のその間の気持ちの変化、或いはその背景にあるはずの美禰子の諸事情は、ほとんど何もわからない。私たちは、三四郎を通して垣間見るだけである。

 『本郷界隈』は、「漱石は、それほどあざやかに美禰子を造形した」と言うが、あざやかなのは、三四郎が見た一瞬一瞬の美禰子であって、彼女の気持ちの変化の過程や彼女の諸事情は何もわからないのである。

 きみが瞳はつぶらにて / きみが心は知りがたし /

   きみをはなれて唯ひとり / 月夜の海に石を投ぐ (佐藤春夫)

 青春とはそういうものかもしれない。

 『本郷界隈』は、『三四郎』のテーマは青春などというものではないというが、私は改めて青春小説だと思った。それにプラスして近代文明批評。

 とにかく、美禰子は春の書斎に迷い込み、気ままに部屋の中を飛んで、ふいっと去っていったアゲハ蝶のようである。

 そういう美禰子を断定的に論じるのはむずかしい。

 ゆえに、それぞれの「美禰子」があっていい。

    以下は、私の美禰子論の切れ端を集めたものである。

 なお、「 」は漱石の『三四郎』からの引用。ただし、現代仮名遣いに直し、漢字も常用漢字の範囲に改めた。

  ★   ★   ★

<プロローグ ─ 三四郎について>

 まず、三四郎という青年について、はっきりさせておきたい。

 小説『三四郎』は主人公が上京する車中から始まる。九州から東京までまる2日間を要する。その間の二つのエピソードを通して、三四郎という青年が紹介される。

 彼は数え年で23歳(満年齢で22歳)。熊本にある第5高等学校を卒業して、これから東大に入学する。

 旧制高等学校は当時日本に8つしかなかった。東大で専門分野を勉強するための予科段階のためにつくられた学校で、今の大学の教養課程に相当する。

 『伊豆の踊子』の一高生は、旅の途中で見かけた旅芸人一座の踊子に恋心を抱くが、三四郎はこれまで恋を知らない。

 三四郎が知っている娘は、故郷のお光さんである。上京後、しばしば母から手紙がくる。そこにはいつもお光さんのことが書いてある。母は息子が大学を卒業したら、お光さんを嫁に迎えるつもりでいる。家と家のつり合いが取れ、年の頃も程よく、自分が気心を知る娘を嫁に迎えたいのだ。

 だが、三四郎はお光さんに異性を感じたことはない。

 汽車の旅はまる2日、かかり、駅近くの宿で一泊する。その夜、同じ宿に同宿した年上の女に誘われる。やりすごしたが、翌朝、その女に「あなたは度胸のない方ですね」と言われて、恐ろしくなる。

 こういうむき出しのストレートな人間関係は、熊本で勉強したことと次元を異にする。三四郎は現実世界の手ごわさを思い知らされる。

   (イブの誘惑 ─ オータン)

 また、車中で中年の男と会話する。その男は東京で再会することになる第一高等学校の英語の先生の広田さんである。もちろん、このとき、そういうことは知らない。

 ちなみに、時代は日露戦争後の明治40年頃。以下、二人の会話の途中から引用する。

 「 『これからは日本も発展するでしょう」と弁護した。

   すると、かの男は、すましたもので、『滅びるね』と言った。

 ── 熊本でこんなことを口に出せば、すぐ殴られる。わるくすると国賊扱いされる。三四郎は頭の中のどこの隅にもこういう思想を入れる余裕はないような空気のうちで成長した。 (略)

 すると男が、こう言った。『熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より … 』でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。『日本より頭の中の方が広いでしょう』と言った。

 『囚われちゃ駄目だ。いくら日本のためを思ったって贔屓(ヒイキ)の引き倒しになるばかりだ』

 この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持がした。同時に熊本に居た時の自分は非常に卑怯であったと悟った」。

 三四郎はこの男の言葉で、瞬時に、自分が熊本、或いは、日本の空気の中にどっぷりと漬かって、自分自身の頭で主体的にものを考えようとしてこなかったことを悟ったのだ。思考を停止して周囲に同調していた。その方が楽で安全だったから。そういう自分を、卑怯であったと悟るのである。

 三四郎は、この世にあって、まだ何ものでもない。だが、物事をまっすぐに見、やわらかい頭脳で受け入れることができる、清々しい青年である。そして、日本より広い頭をもった独立した人間として羽ばたこうとしているのである。

 このような青年が東京にやって来て、いきなり出会ったのが美禰子という女性であった。

  ★   ★   ★

<三四郎の池 ── 美禰子との出会い  >

 出会いのシーンの美禰子は、印象的である。

 当時の大学は欧米並みに9月始まりだったようだ。上京したばかりの三四郎は、夏の暑い日、大学構内に、郷里の先輩の野々宮さんを訪ねる。大学は人気(ヒトケ)がなく、閑散としていた。

 野々宮さんは理科棟の暗い地下室にいた。たった一人、実験器具をいじっている。毎日、こうして<光線の圧力>の実験をしているのだという。

 後でわかることだが、野々宮さんは三四郎より7歳の年長。日本ではまだ無名だが、彼の研究はむしろ西欧で注目されている。

 しばらく野々宮さんの実験器具の説明を聞いた後、三四郎は「穴倉」を辞した。構内を歩いて池の端(ハタ)まで来て、池のそばにしゃがみ込む

 そして、自分のこれからの生き方を思う。野々宮さんのように人気のない地下室で一生を研究に捧げる人生もある。そういう生涯を想像すると、急に寂しさがおし寄せた。

 ふと眼を上げると、池の向かいの丘の上に女が二人立っていた。丘の上は夕日が当たって明るい。

 一人は白い服から大学病院の看護婦だとわかる。もう一人は、日射しを避けて団扇(ウチワ)を額にかざし、和服姿だった。

  「この時三四郎の受けた感じはただ奇麗な色彩だということであった」。

 三四郎は見とれている。やがて、二人は坂をこちら側へ下りはじめる。三四郎はやっぱり見ている。

 坂の下に石橋がある。渡れば池の水際を伝ってこっちへ来ることになる。二人は石橋を渡った。

  (三四郎の池)

 以下、本文から。

 「団扇はもうかざしていない。左の手に白い小さな花を持って、それを嗅ぎながら来る。嗅ぎながら、鼻の下にあてがった花を見ながら、歩くので、眼は伏せている。それで、三四郎から一間ばかりの所へ来てひょいと留まった。(※ 1間とは約1.8m。絶妙の距離感!! )。

 『これは何でしょう』と言って、仰向いた。頭の上には大きな椎の木が、日の目の洩らないほど厚い葉を茂らして、丸い形に、水際まで張り出していた。

 『これは椎』と看護婦が言った。まるで子供に物を教えるようであった。

 『そう。実は生(ナ)っていないの』と言いながら、仰向いた顔を元へ戻す、その拍子に三四郎を一目見た。三四郎はたしかに女の黒眼の動く刹那を意識した。その時、色彩の感じは悉く消えて、何とも言えぬ或る物に出逢った。その或る物は汽車の女に『あなたは度胸のない方ですね』と言われた時の感じとどこか似通っている。三四郎は恐ろしくなった。

 二人の女は三四郎の前を通り過ぎる。若い方が今まで嗅いでいた白い花を三四郎の前へ落として行った。三四郎は二人の後姿をじっと見つめていた。……頭にも白い薔薇を一つ挿している。……」 

                ★

 美禰子は三四郎のそば、一間の所で立ち留まり、繁った樹木を仰いで「これは何でしょう」と聞き、仰向いた顔を元へ戻す瞬間に三四郎を見た。もちろん、一連の動きは意図的、意志的である。二人の目が一瞬、合う。

 そして、三四郎の前に白い薔薇を落として行った。

 美禰子は「無意識かつ優美な天性の演技家」であるという評価は、この出会いのシーンで決まったようなものだ。「天性の発露のまま男を擒(トリコ)にする」女だとなる。

 初めて『三四郎』を読んだ19歳の私も、美しく魅力的だが…… このコケティッシュな女は心許せぬところがあると思った。

 しかし、今は、…… もう少し丁寧に読んでみたいと思う。

 「女の黒眼の動く刹那を意識した」時、三四郎は「何とも言えぬ或る物に出逢った」という。「その或る物は汽車の女に『あなたは度胸のない方ですね』と言われた時の感じとどこか似通っている」。そして「三四郎は恐ろしくなった」。

 三四郎は何に「恐ろしくなった」のだろう。その気持ちが起こったのは、女が花一輪を落としていく前である。それは、女の黒眼が動いた刹那だ。その眼は三四郎を見ようという意志をもって動いた眼である。

 三四郎の恐れは、「汽車の女に『あなたは度胸のない方ですね』と言われた時の感じとどこか似通っている」という。

 「どこか似通っている」ということは、似ているが、別種のものであるということである。しかし、別種だが、両者に共通するものがあるのだ。それは何か。どちらも、三四郎という青年が過去に経験したことがないもの、即ち、未知のものである。そういうものに不意に出会ったときの恐れである。

 それまでの三四郎の人生の中に、このように意志的にはっきりと自分を見た若い女はいなかった。

 『本郷界隈』の次の一節はヒントになる。

 「『三四郎』という小説は、(主人公の青年が) 配電盤にむかってお上りをし、配電盤の周囲をうろつきつつ、眩惑されたり、自分をうしないかけたりする物語である。明治時代、東京が文明の配電盤だったという設定が理解できなければ、なんのことだかわからない。主題は青春というものではなく、東京(もしくは本郷)というものの幻妙さなのである。 …… その意味で、明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない」。

 その「東京(もしくは本郷)」を、ヒロインの「美禰子」に置き換えてみたら良いのではないか。

 明治の日本は、「東京(或いは本郷)」を配電盤として、西洋化、近代化しようと、「坂の上の雲」を目指して驀進している。

 その先に何があるのか?? それが、官の道を捨て、文学の道へ入った漱石の生涯のテーマであった。もちろん、漱石の関心は政治や経済そのものではなく、近代というものが生み出す新しい人間像、即ち近代人である。それは、どういう存在なのだろうか。前近代よりも、近代人は幸せになるのだろうか??

  これまで三四郎が知っていた女子は故郷のお光さんである。田舎の母は、「家」の継承と家格のつり合いを考え、丁度好い年頃のお光さんを嫁に迎えたいと考えている。息子の意思は二の次である。この母の思考は、いわば前近代である。

 一方、三四郎は、「頭の中は日本より広い」と自覚する近代人として羽ばたこうとしている。

 その前に現れたのが美禰子である。

 美禰子は、三四郎が今までに出会ったことのない女性だった。

 これまでの三四郎の頭の中にあった女性は、男に遠慮し、伏し目がちに、慎み深く、或いは楚々として歩く女性であった。

 だが、美禰子ははっきりと自分を見返してくる。

 この場面、美禰子が何を感じ、どう思ったかは書かれていない。『三四郎』は美禰子の側からは、書かれていない。

 しかし、美禰子の側に立ってこのシーンを振り返れば、池の端にしゃがんだ青年がずっと自分に眼差しを向けていたのである。女の側からすれば、当然、意識し、気になる。それは不躾(ブシツケ)であり、無礼でもある。

 そういうとき、美禰子という女性はひるまない。自分を見続けた男の目を、一瞬、見返して、どういう青年かを見定めようとする。

 落として行った花一輪は、自分を凝視し続けた青年の不躾に対する「お返し」

 美禰子は、そういう女性として登場したと、私は考える。

 彼女は、前近代に対して、あえて言えば、自我に目覚めた女性である。

 もちろん、漱石にとって、前近代が古くて遅れており、近代が新しくて立派であるということではない。

     ★

  今回、読み返して、この池のほとりの出会いのシーンを二人が回想する場面が、このあと3回もあることに気づいた。そこから、少しは美禰子の心理も読みとれるかもしれない。

 (続く)

 

 

 

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三四郎の池 (本郷②) … 東京を歩く5

2023年07月17日 | 東京を歩く

      (赤  門)

<「嗚呼玉杯に花うけて」>

 根津神社に沿って権現坂を上がって行くと、本郷通りに出る。

 権現坂通りの北側は根津神社のある文京区根津。南側は文京区弥生。

 江戸時代、南側は水戸家の中屋敷だった。大名屋敷だから、町の名はなかった。

 明治の初めに「向ヶ岡弥生町」という町名が付けられた。

 その後、3人の学生がこの付近で土器を発見した。町の名を取って弥生式土器と名が付けられた。

 以下、『本郷界隈』から。

 「弥生は、いうまでもなく3月の異称である。奈良時代には、すでにあった。弥(ヤ)は、「いや」である。弥栄(イヤサカ)というようにますますという、プラスに向かう形容で、生(オイ)は「生ひ」で、生育のこと。草木がますます生ふるということである。弥生という稲作文化の象徴のようなことばをもつ町名から、稲作初期の土器が出て、弥生式土器となづけられた。まことにめでたいといわねばならない」。

 こうして弥生町は、日本列島史の中に「弥生時代」と呼ばれる大きな時代区分をつくることになった。

 その向ケ丘弥生の地に、東京大学の予備門として、第一高等学校がつくられた。

 昭和10年に、一高は駒場に移転し、代わりに駒場にあった東大農学部がこちらへ移転してきた。

 今、東大の弥生地区には、グランド、地震研究所のほか、東大農学部がある。

 向ケ丘の名も、文京区向丘として、文京区弥生の西側にある。

 一高の寮歌「嗚呼玉杯に花うけて」に、「向ケ丘にそそり立つ五寮の健児意気高し」と歌われている。

 私の高校時代、 ── もちろん、戦後の学制改革による高等学校で、旧制中学校と高等女学校を母体にしている ── 所属したクラブでは皆でよく歌を歌った。自分たちの歌詞集があって、その中に世界の民謡(フォークソング)などとともに、旧制高等学校の寮歌や応援歌も入っていた。「紅萌ゆる丘の上」(三高)や「都の西北」(早稲田)などは、今でも歌うことができそうだ。

 私は高校を卒業するまで城下町の岡山に生まれ育った。その頃、市民の中にまだ旧制第六高等学校(六高)の風韻が残っていた。私の高校の制帽は、全国でも珍しい角帽だった。

 文化祭が終わった夜、仲間と白緒の高下駄 (町の人は「六高下駄」と言っていた) を履いて、旭川のたもとを、放歌高吟して歩いたこともあった。学校に見つかれば、当時でも、停学処分は免れなかっただろう。

 東京では新宿に歌声喫茶「ともしび」ができた。地方都市にも、そういうことは伝わってきていた。ラジオが媒体だった。東京の大学に行ってみようかと思うようになる、ごく小さなきっかけの一つだったかもしれない。

 農学部の正門前を通り、言問い通りを渡ると、弥生から本郷に地名が変わる。そして、東大の大部分の学部や東大病院は、言問い通りをはさんだ本郷の側にある。

 (本郷通り)

       ★

<加賀藩の名残りを留める赤門>

   東大の正門前を一旦、素通りして、赤門までやって来た。

  (赤 門)

 『本郷界隈』から ── 「本郷の東大敷地が、江戸時代の加賀前田家の上屋敷だったことは、よく知られている」。

 「前田家は百万石といわれているだけに、本郷台の上屋敷はじつに広大だった。金沢を本拠とし、越中富山10万石の前田氏を分家とし、さらに……大聖寺7万石の前田氏をも分家にしている。江戸のこの本郷の加賀藩邸は、富山藩邸や大聖寺藩邸を隣接させて、3つの前田氏が一つ地域にいた」。

 ただ、江戸末期の安政地震(1854~55)によって、加賀藩の上屋敷も壊滅した状態で、そのまま維新を迎えたらしい。

 「それを明治初年、文部省が一括買い上げた」。

 この屋敷跡に、明治9(1876)年、まず現在の医学部が移ってきて、以後、順次、西洋風に構内が整備されていった。

 今、加賀前田藩の名残りを留めるのは、赤門と、三四郎の池を中心とした庭園跡ぐらいである。

 文政10(1827)年、11代将軍徳川家斉の息女溶姫(ヤスヒメ)が前田家に嫁いできた。

 『本郷界隈』から ── 「将軍家から降嫁した奥方の場合、奥には住まず、御守殿(ゴシュデン)とよばれる独立した一郭に住むのである。門も建造される。慣例として丹(ニ)に塗られた。現在、東京大学に遺っている赤門である」。

   「赤門」は東京大学の代名詞になっているが、将軍家からやって来た奥方のために建てられた御殿の門だった。それで、あでやかな朱なのだ。

 今は重要文化財で、正門は別にある。

 赤門のそばの塀から、桜があでやかにのぞいていた。「ああ、玉杯に花受けて … 」。

 (赤門の横の桜) 

      ★

<東大構内へ>

 赤門は閉ざされていたので、正門まで引き返した。

 正門の中に、警備員の制服を着た人が3、4人立っているのが見えた。近くにいた人に、「三四郎の池を見学したいのですが、入ってよいでしょうか??」と聞いてみた。

 「建物の中に入らなければ、構内は自由に歩いていいですよ」。こちらの年恰好を見てか、笑顔で「ご近所の方でも、散歩コースにして、毎夕、歩いている方もいますよ」と付け加えた。

   (芽吹いたばかりの本郷構内)

 三四郎の池を見に来るのは、2度目である。

 学生時代、東京見物はしなかったが、三四郎の池だけは見に来た。多分、そのときに湯島天神も訪ねた。

 今回は、時代が時代だから、一応、警備員に入ってよいか尋ねた。国立大学とはいえ、私の私有地ではないのだから断るのは当然だ。

 学生の頃は、東大の構内に入るのに何のためらいもなかった。そもそも制服を着ているわけではないから、他校の学生と区別のしようがない。

 あのときは、三四郎の池だけ見て、こんなものかと思って、帰った。私の大学にも似た池があった。構内の建物の印象はほとんど残っていない。

 年を経て、こうして落ち着いて構内を歩いてみると、私が卒業した大学の校舎や、子どもの頃から見慣れた岡山大学の木造、一部、コンクリート打ちの校舎と比べて、さすがに立派なものである。並木の樹齢にも年輪を感じた。

 以下、『本郷界隈』から。

 「江戸時代の本郷は、このあたりをいくつかの大名屋敷が占拠しているだけで、神田や日本橋、深川といったような街区の文化は、本郷にはなかった。

 それが、明治初年に一変する。

 ここに日本唯一の大学が置かれ、政府のカネがそそぎこまれたのである。勅任官の教授から雇員の門衛にいたるまですべてその給料は国庫から出る。そうした人たちが数千人もいたのである。その上、多額な研究費や営繕費、また医学部附属病院の設備費やら消耗品の費用などがこの構内にそそぎこまれた」。

 「明治後、東京そのものが、欧米の文明を受容する装置になった。同時に、下部(地方や下級学校)にそれを配るという配電盤の役割を果たした。いわば東京そのものが、"文明"の一大機関だった。

 大学に限っていえば、『大学令』による大学は、明治末年に京都大学の各学部が逐次開設されてゆくまで、30余年間、東京にただ一つ存在しただけで、そういうことでいえば、配電装置をさらに限っていえば、本郷がそうだった。

 文明受容の方法は、政府と大学に多数の外国人を"お雇い"としてやとうというやり方でおこなわれた。同時に留学生を欧米に派遣し、やがては外国人教師と交代させるというやり方をとった」。

  「明治政府が雇った外国人の俸給は欧州で評判になるほど高いものだったようで、このため争って優秀な人材が日本に来た。というより、東京に集まった。さらにいえば、本郷に集中した。その高額過ぎる俸給は、当然ながら国家予算を圧迫した。当時の日本は江戸時代に引き続いてコメ農業を主とする国で、外貨の獲得に役立つものといえば、生糸ぐらいのものであり、まことに貧しかった」。

 例えば、明治36(1903)年、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)に代わって、英国留学から帰国した夏目漱石が一高と東京大学の英文学講師に採用されている。このとき、学生たちは小泉八雲の留任運動を起こした。小泉八雲の講義は学生たちを魅了する名講義だったようだ。

 この時代の東大の威厳というものは、朝ドラの『らんまん』を見ていてもわかる。矢田部良吉教授は、幕府の蘭学者の父の下で子供の頃から西洋の教育を受けた。明治に入って、アメリカに留学し、コーネル大学に合格した。

 彼は、東大の植物学教授として、創造的な研究業績には乏しかったかもしれないが、「配電盤」としての役割は十分に果たしたに違いない。

     ★

<三四郎の池> 

 三四郎の池へ向かった。

  (三四郎の池)

 前田家が本格的に園地を大築造し始めたのは、寛永15(1638)年からといわれている。池のほとりに説明パネルが設置されていた。以下、その概略。

 当時、江戸諸藩邸の庭園中第一と称せられた。育徳園と命名され、園中に八景、八境の勝があって、その泉水、築山、小亭等は数奇を極めたとも言われる。池の正式名称は「育徳園 心字池」だが、夏目漱石の『三四郎』以来、三四郎池で親しまれている。

 『本郷界隈』には、「池はあらためて掘られたのか、それともすでにそこに生活用の泉があったのが広げられたのか、おそらく後者にちがいない」。

 「拡張した池の土をまわりに盛り上げて山々が造られ、数百年を経た。池畔に立つと、実に幽邃(ユウスイ)な趣がある。踏み石がいくつか、池心にむかっている」。

 当時 (三四郎が上京した明治40年頃) の東大は、欧米と同じように9月始まりだったようだ。上京したばかりの三四郎は、夏休み中の人気のない東大を訪れ、同郷の先輩で物理の研究をしている野々宮さんを訪ねる。野々宮さんは、地下室のような暗い所で、一人、光の圧力に関する実験をしていた。(のちに、三四郎は、研究者としての彼は日本でほとんど知られていないが、むしろ欧米で評価されていることを知る)。野々宮さんの地下室を出た後、三四郎はこの池のほとりまで歩いてきて、そこにしゃがんで自分の生き方について漠と考える。野々宮さんのように浮世を超絶して、学問・真理の世界に生きる生き方もある … 。すると、池の向こうの丘の上に女性が二人立った。一人は看護婦だが、もう一人は色鮮やかな和服姿。団扇と一輪の花を手にしている。二人は話しながら三四郎のいる方へ降りてきて、三四郎のそばを通って行く。通り過ぎる時、女は手していた花を落としていった。美禰子との最初の出会いである。

 以来、「三四郎の池」と呼ばれるようになった。いい名である。

<司馬遼太郎の『三四郎』論>

 司馬遼太郎は『本郷界隈』の中で、『三四郎』について以下のように言う。

 「当時、大学は東京の本郷に一つしかなかった (厳密には、2番目の大学である京都帝大がこの時期発足早々だった)。高校は全国に8つしかなく、それぞれ東京帝大の予科的な存在になっていた (※旧制高校は、今の四年制大学の教養課程に当たる)。三四郎は熊本におけるその予科段階(第5高等学校)を卒業し、大学課程に入るべく汽車に乗っている」。

 「『三四郎』という小説は、配電盤にむかってお上りをし、配電盤の周囲をうろつきつつ、眩惑されたり、自分をうしないかけたりする物語である。明治時代、東京が文明の配電盤だったという設定が理解できなければ、なんのことだかわからない。主題は青春というものではなく、東京(もしくは本郷)というものの幻妙さなのである。 …… その意味で、明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない」。

 漱石の『こころ』は、明らかに文明論である。激しい勢いで近代化(西洋化)していく日本社会のその奥で、人はどのようになっていくのだろう?? 漱石はそれを、最後に「先生」が自殺するというかたちで具象化した。

 漱石という作家が、例えば自然主義の作家たちと違う点は、そういう現代文明の奥にあるものを凝視しようとする目を持っていたことだろう。

 それでも、『三四郎』は、『坊ちゃん』から出発して、『こころ』に到る前の段階の、やはり青春小説だと思う。

 だが、初めて『三四郎』を読んだ10代の終わりの私は、三四郎がその青春の中で出会った「東京(もしくは本郷)というものの幻妙さ」 ── 近代というもの ── を読みとろうとはしていなかった。

 その近代文明の幻妙さを具象化したヒロインが、美禰子なのだろうと、今は思う。

 

      

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薮下(ヤブシタ)の道 (本郷①) … 東京を歩く4

2023年07月09日 | 東京を歩く

  (しろへび坂)

 石段の上の手すりに、文京区作成のパネルが掛けられていた。「ふるさと景観賞─ しろへび坂」。ちょっと気色の悪い名だ。

 「上中下の三段から成る階段状の坂道は、区内に残る急峻な地形を今に伝えています」とある。

 なるほど、特に急な個所に石段を敷設した坂道が、建物の間を細く蛇行して下っている。

  ★   ★   ★

<鷗外記念館>

 武蔵野台地の東の端が、湯島台や本郷台である。

 江戸時代の村の名が残って、今の住所表示は「文京区湯島〇丁目」とか「文京区本郷△丁目」となっている。

 遥かに遠く遡って ── 縄文海進の頃、この辺りの台地の東側には海が入り込んでいた。縄文人にとって、この台地は、近くの海で魚や貝がとれる一等地だった。文京区だけでも、縄文遺跡が28カ所も発見されているそうだ。

 奈良に住む私は、古代に遡れば、わが大和こそ「国のまほろば」だと思っていたが、湯島台地や本郷台地に残る日本列島人の足跡は遥かに遠くて古い。

 その後の気候変動で、海は後退して湿地になった。

 江戸時代、湿地は埋め立てられていき、不忍池だけが取り残される。

      ★ 

 ── さて、司馬遼太郎の『街道をゆく 本郷界隈』である。

 「本郷台の東の縁辺の台地を歩いてみた。このあたりも、"海"に向かって、急勾配をなしている。その坂の上に、森鷗外が住んでいた」。   

 「その坂」とは、団子坂である。

 東京メトロ千代田線の「千駄木」駅から地上に出ると、「団子坂下」の道路標識があった。

 『本郷界隈』を片手に、団子坂のゆるやかな坂道を上っていく。

 (団子坂の道路)

 鷗外が散歩した明治の風情はどこにもない。車の行き交う車道と、それに沿う歩道と、ビルと、商店や事務所。日本国中のどこにでもある町の風景である。

 しばらく歩くと、信号機の横に「団子坂上」の標識があった。

  (団子坂上の標識)

 もう少し坂を上ると、道路の反対側にちょっと風変わりな建物があった。設置されたパネルから、ああ、これが鷗外記念館だ

  (鷗外記念館)

 鷗外の旧居の跡地は文京区の所有で、この記念館も文京区立である。

 この辺りの地図を示したパネルがあった。

 (文京区設置のマップ)

 名にし負う文京の区であるから、この近くには、鷗外旧居跡の他にも、夏目漱石の旧居跡があり、ほんの少し範囲を広げれば坪内逍遥、正岡子規、樋口一葉らの旧居跡もある。もちろん、旧居そのものが残っているわけではない。

 鷗外記念館の入り口は、団子坂の車道に面していない。玄関は、記念館の角を南へ入った小道に面してあった。パネルに「根津神社➡」と記されている小道である。

 この小道を根津神社へたどり、さらに東大構内の三四郎の池へと歩くのが、今回のウォーキングの目的である。

 (鷗外記念館の表門)

 記念館と同じように、鷗外の旧居も東向の、人通りの少ない小道に面していた。その時代には、谷中から上野の方を望むことができたに違いない。

 旧居は当初、平屋だったが、のち2階を建て増しした。その2階から、何と品川の海が見えたそうだ。それで、鷗外はわが家に『観潮楼』という名を付けた。(団子坂も、別名、潮見坂という。海が見えたのだ)。

 『本郷界隈』に曰く、「鷗外にとって潮というのは、海外という意味もこめていたかもしれない。彼は明治17年以来、4年間ドイツに留学し、この引越しの4年前に帰ってきた。その後も、"西洋"をのどもとまで浸すという濃密な日々を送った。いうまでもなく、ドイツ医学の日本化と、西洋から渡来した美学と文学を自己のものにするための日々である。観潮楼という語感は、単なる漢詩文趣味を超えたものであったろう」。

 近代文学史に「観潮楼歌会」という言葉が出てくる。鷗外がこの2階で開いた歌会の名称である。アララギ派の伊藤佐千夫、明星派の与謝野鉄幹、それに佐々木信綱、後には石川啄木や斎藤茂吉らの新進気鋭も参加した。 

      ★

<しろへび坂>

 『本郷界隈』には、この辺りの地形を説明した鷗外自身の文章も紹介されている。

 「団子坂上から南して、根津権現の裏門に出る岨道(ソワミチ)に似た小径がある。これを薮下の道という」(森鷗外)。

 岨道(ソワミチ)とは山の険しい道。旧居の前は、当時、岨道を思わせるような素朴な小径だったのだろう。

 「(薮下の道の)崖の上は向ケ丘から王子に連なる丘陵である。そして、崖の下の畠や水田を隔てて、上野の山と相対している」(森鷗外)。

 『本郷界隈』は言う。「要するに、薮下の道は、…… 武蔵野台地が尽き果てる崖に添う道である。左側が、ときに谷になっておちこんでいる」。

 鷗外記念館の玄関前の細い道が、「薮下の道」である。

 そこに立つ令和の時代の私の眼下には、鷗外が書いたような「畑や水田」はなく、また、その向こうに「上野の山」も見えない。

 ただ、『本郷界隈』が「ときに谷になっておちこんでいる」と言う光景はあった。

 現在の「崖の下」の景色が、冒頭の写真の「しろへび坂」である。

  (しろへび坂)

 「武蔵野台地が尽き果てる崖に添う道」であることは実感できる。あちこちを、地形、地学的視点で見て回る『ブラタモリ』みたいだ。

 冒頭に紹介した文京区のパネル「ふるさと景観賞─ しろへび坂」には、「坂の上から望むと、建物の狭間にスカイツリーが姿を現します」という一文も添えてあった。

 この説明を読まなければ、なかなか気づかないだろう。

 カメラのズームを望遠にして撮ってみた。ビルの間にスカイツリーがあった

(ビルの狭間のスカイツリー)

     ★

<三四郎と美禰子の道>

 鷗外記念館には入らない。

 『街道をゆく 本郷界隈』の中で私が一番興味深く読んだのは、「薮下の道」の章である。今回のウォーキングの目的は、この小径をたどってみることにある。

 『本郷界隈』によると、鷗外に『団子坂』という短編があるそうだ。

 若い男女が人気のない小道を話しながら歩いていく。話は二人の会話だけで成り立っている。若い男は大学生で、若い女はヴァイオリンケースを持っているからお稽古返りのお嬢さん。

 ここでは二人の話の内容は省略するが、その中で、若い男が「三四郎が何とかいう、綺麗なお嬢さんとここから曲がったのです」と言うのである。

 鷗外の作品の中の登場人物が、漱石の作品の中の登場人物のことを話題に出す。司馬さんも面白がっているが、私も愉快に感じた。なにしろ、明治を代表する二人の文豪である。

 森鷗外が『団子坂』という小品を書いたのは明治42年。その前年に夏目漱石の『三四郎』が『朝日新聞』に連載された。『団子坂』の主人公は『三四郎』を読んでいて、三四郎と美禰子が歩いた道を歩いているのだ。

 そこで、司馬遼太郎の『本郷界隈』も、この小道をたどる。

 心ひかれて、私も歩く。

  (薮下の道)

 団子坂の自動車道路から一本中に入っただけなのだが、人気のない静かな小道である。

 ただ、鷗外が書いているような田舎の小径ではなく、今はすっきりと舗装されて歩きやすい。

 まだ花びらを少しばかり残した桜の木や新緑がみずみずしい静かな住宅街の道だ。だが、高級住宅街のような所ではなく、ごくふつうの東京の庶民の家々が並んでいる。歩いてゆくと、区立の中学校もあった。

 通りから右手の丘に上がる脇道もあったが、その先で住宅は切れて、藪になってい

た。

 歩いて行っても、三四郎と美禰子が歩いたような野の広がりや小川が流れる風景はなかった。

 (薮下の道)

 それでも歩いて、感じることが大切なのである。

 『三四郎』を読んだのは18~19歳ごろだったか??

 じっくりと読んだわけではない。さっとストーリーを追っただけだった。あの年齢の頃、何かを探し、やみくもに求め、いろんなものにぶつかっていた

 もう少しゆっくりと歩いたほうがいい、と、今の私は当時の私に呼びかける。人より先に行こうとか、あせって結論を求めるとか、そんなことより、時々立ち止まって周りの景色を楽しみながら、ゆったりと歩いて行けばいいんだよ。

 主人公の三四郎は23歳。満年齢なら22歳。熊本の第五高等学校を卒業して上京し、東京帝大に入る。上京する途中、宿で1泊し、2日間列車に揺られてやっと東京に到るような明治40年頃の話である。九州の眠ったような田舎から出てきた青年は、西洋に追いつこうと激しく動く東京の中で、大学やその周辺にいる人々と出会い、とまどい、生き方を模索する。出会いの中には女性もいる。ヒロインの名は美禰子(ミネコ)。三四郎と同年齢ぐらいの魅力的な東京の女性である。

 『三四郎』を読んだ頃の私には、三四郎のとまどいや模索がピンとこなかった。読みながら退屈した。

 ただ、美禰子という女性は魅力的だと思った。「コケティッシュ」という言葉が頭に浮かんだのを覚えている。とても魅力的だが、しかし、好きにはなれなかった。

 それから後、学生時代に『こころ』をはじめとする漱石作品を読んだ。特に『こころ』は強いインパクトがあった。そのテーマ性の強さに比べ、『三四郎』という作品は、『吾輩は猫である』などと同列の淡々とした作品だと思い、長く忘れてしまった。

 『本郷界隈』で語られる「美禰子」像も、若い日の私が思い描いた美禰子像と大差ないように思う。こういう美禰子像が一般的な見方なのだろう。

 「漱石の『三四郎』についてふれておく。主人公たちが、団子坂に菊人形を見物にゆくくだりが出てくる。迷子が出るほどの雑踏であった。… 雑踏で気分がわるくなった女主人公の美禰子が、三四郎を人気のない小道へ誘う」。

 「小川が、流れている。やがて根津にぬける石橋のあたりまできた」。

 「美禰子は、人目のない道に入ってから、『迷子の英訳を知っていらしって』と問う。『教えてあげましょうか』と言って、ストレイ・シープという言葉を、三四郎の胸のなかに投げこむのである」。

 ストレイ・シープ(迷える羊)は、新約聖書に出てくるイエスの言葉である。もし1匹の羊が迷い出たとき、羊飼いは99匹を山に残して、迷える1匹を探しに行かないであろうか。神の愛とは、そのようなものである。

 (その頃の私は、福音書の話は知っていた)。

 美しく、教養もある美禰子は、自分を「迷える羊」だと言って、初心な三四郎の心をひきつける。

 コケティッシュな女だと、若い日の私は思った。魅力的だが、好きにはなれない。

 だが、読んだのは遠い日のこと。そういう理解でよいのだろうか?? というわずかな引っ掛かりが、当時の若い私の心にあったような気もする。

 上に引用した『本郷界隈』のアンダーラインは私が施したのだが、この司馬さんの言い方では美禰子は「悪女」になってしまう。美禰子に対してちょっときびしすぎるのではないかと感じた。美禰子が悪女なら、三四郎は被害者になってしまう。それでは、三四郎の青春まで侮辱することにならないか??

 私自身、著者の漱石よりも相当に年上になった。今、読み直したら、美禰子という若い女性は私にどのように映るのだろうか??

 『三四郎』を読んだ若い日もなつかしく思われ、この道を歩いてみたかった。

 ほどなく、日本医科大のそばを通り、根津権現の裏門に出た。

      ★

<根津神社(根津権現)>

   神仏習合の江戸時代には、根津権現と呼ばれた。その境内は、のちに6代将軍になる家宣の邸があった所。家宣は叔父である5代将軍綱吉の養嗣子となり、江戸城に移る。その邸跡に、綱吉の命で、団子坂上に鎮座していた根津権現が移された。

 権現造りの社殿7棟はその頃のもので、今は重要文化財。

 ご近所に住んだ森鷗外は、根津神社の氏子だったそう。

 裏門から入ると、新緑のみずみずしい丘の上に摂社の乙女稲荷神社があった。結婚式の前か後のようで、新郎新婦らしい男女も見えた。朱の美しい雅やかな神社である。

  (乙女稲荷神社)

 西門のあたりも、透塀が通って瀟洒で、時代劇に出てきそうな景観である。

  (西門と透塀)

 根津神社はつつじの名所らしい。一つの丘がつつじの木で埋まっていた。今は4月初旬だから、満開にはほど遠い。 

  (池のつつじ)

  (楼 門)

 裏門から入って、朱と緑の美しい境内を歩き、表門から出た。

 楼門も堂々としている。

 『本郷界隈』は言う。

 「根津権現の社殿その他は、権現造り優等生のようなつくりである。桃山文化が生んだ神社建築で、ほどよく重々しい」。

 「境内に、池がある。根津権現の池は東大構内の三四郎池と同様、本郷台地の地下水脈が湧きだしたものであるらしい」。

 関東地方の台地では、「井戸を掘りぬく(筒状に掘削する)技術は中世末期までみられなかったといわれる」。

 「平安時代の武蔵の国では、地表をひろく掘りはじめてスリバチ状にし、底に湧いた水を汲むというふうだったそうである。掘りかねるということから、『ほりかねの井』といわれた」。

 「根津の池や三四郎池は、ひょっとするとほりかねの井が、たまたま豊富な水脈にあたって大きく湧出したものかもしれない」。

 「いずれにしても、中世以前の武蔵人にとって、いのちの水である」。

 「この地が、江戸時代に甲府中納言(6代将軍家斉のこと)の屋敷になったり、そのあとが神社になったりする以前から池を中心に神聖な場所だったのではないか」。

 司馬さんは文献的な根拠はないと断っているが、私もこの考えにとても共感する。

 初め、鬱蒼とした木陰に小さな社と、神を祀るために水を汲む泉があった。その後の屋敷も、神社も、それらを取り込みながらつくられたのであろう。

 それでは、三四郎の池に行ってみよう。

 

 

 

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湯島の白梅(湯島②)…東京を歩く3

2023年06月26日 | 東京を歩く

  (湯島天神の境内)

 湯島天神は、湯島の聖堂のすぐ北にある。湯島聖堂を見学したついでに、湯島天神へと歩いた。

 遠い昔、学生の頃、この天神社を一度訪ねたことがある。

<「湯島の白梅」>

 私の少年時代はまだテレビがなく、ラジオからよく流行歌が流れていた。聞くともなく耳にしているうちに、いつの間にか覚えてしまった歌もある。

 そういう一つが「湯島の白梅」。

 どんな歌詞だったかとネットで検索してみた。すると、ちゃんと出てきた。まだカラオケで歌う人がいるようだ

 歌の題もなかなか粋(イキ)である。

 歌手は小畑実と藤原亮子。その1番と3番の歌詞。

1 湯島通れば 想い出す/お蔦主税(チカラ)の 心意気/知るや白梅 玉垣に/残る二人の 影法師

3 青い瓦斯(ガス)燈 境内を/出れば本郷 切り通し/あかぬ別れの 中空に/鐘は墨絵の 上野山

  (境内の瓦斯灯)

 歌詞から、境内に瓦斯灯があったことがわかる。

 歌の当時のものではないだろうが、今も瓦斯灯はあった。

 司馬遼太郎『街道をゆく』から、

 「木々のなかに、瓦斯(ガス)灯もあった。瓦斯灯は、明治の文明開化の象徴というべきもので、街路や公園の夜をあかるくしていた。説明によると、湯島天神の境内にも何基かあったそうである。瓦斯灯があればこそ主税(チカラ)はお蔦をここへよび出せるのである」。

      ★

<湯島天神の境内で>

 もう一つ、遠い日の記憶がある。

 学生の頃、文京区の大塚にあった大学の教室で、近代文学史の講義を聴いていた。少壮気鋭の先生の話は活力があって面白く、話が明治の文学者・泉鏡花に及んで、少々脱線して、婦(オンナ)系図』の有名なシーンにふれられた。

 有名な、と書いたが、「湯島の白梅」の有名なシーンを、大学生の私はそのとき初めて知ったのだ。

 泉鏡花の『婦系図』が発表されたのは明治40(1907)年。翌年には、新派劇として演じられ、大いに評判を呼んだらしい。

 新派劇は歌舞伎に対する「新派」で、題材を現代に取り、人々の哀歓や情緒を描いた大衆的な演劇である。

 『婦系図』の主人公は、新進のドイツ文学者の早瀬主税(チカラ)。柳橋の芸妓お蔦と2世を契る仲になっていた。ところが、大恩ある大学教授酒井に知れ、別れろと言われる。孤児であった主税は酒井教授にひろわれ、今日まで息子のように育ててもらった。酒井教授は主税の将来を思い、また、主税と兄妹のようにして育った娘が主税を慕っているのを知っていたのだ。主税は先生の命に抗しがたく、お蔦に別れ話をする。

 新派劇では、お蔦をよび出した場所が、湯島天神の境内ということになっている。もちろん菅原道真を祀る神社だから梅の木がある。特に白梅の名所だった。

 別れ話を切り出したとき、初めお蔦はこう言う。「別れろの、切れろのは、芸者のときに言うものよ」。

 大学の講義の中で先生の話がお蔦のセリフに及んだ時、私の頭の中には、講義の本筋よりもこのシーンが鮮やかに残ってしまった。

 湯島天神、早春に咲く清楚な白梅、「別れろの、切れろのは、芸者のときに言うものよ」 …… 江戸文化の「粋(イキ)」とは、こういうのを言うのだろうか。

   そして、別の日に、大学からそう遠くないこの神社に行ってみた。行ってみると、当たり前のふつうの神社だった。主税とお蔦をわずかに想像して帰った。

 今回初めて訪ねた湯島聖堂のついでに、湯島天神を再訪した。

 境内に泉鏡花の筆塚があった。

 筆塚とは、寺小屋や家塾の師匠の死後、弟子たちがその遺徳をしのんで建てた記念碑のことだそうだ。碑の作成にかかわった文学者らの名も刻まれていた。

 (境内にある鏡花の筆塚)

      ★

<日本人の心の中の美>

 『婦系図』(湯島の白梅)は、戦前、戦中、戦後、5回も映画化されている。

 初回は昭和9(1934)年で、女優は田中絹代。 

 2回目は、太平洋戦争が始まってまだ戦勝気分の昭和17(1942)年。主演は長谷川一夫と山田五十鈴。大作だったようだ。このときに、主題歌「湯島の白梅」も作られた。

 3回目は戦後の昭和30(1955)年。主演は鶴田浩二と山本富士子。美男美女である。

 昭和37(1962)年の市川雷蔵主演を最後に、映画化はされていない。さすがに、話の筋が時代遅れになり、人々を映画館に呼び寄せられなくなったのだろう。

 実は私も泉鏡花の『婦系図』を読んでいないし、映画も観ていない。私の世代では、話の筋にちょっとついていけない。

 あらすじを読むと、このあと、二人はきっぱりと別れる

 そういう二人の心の芯にあるものは何だろう?? 「義理」を大切にする心。或いは、「(江戸っ子の)心意気」??

 作者の泉鏡花には、当時の結婚制度に対する怒りがあったのかもしれない。

 ただ、主人公がお蔦と別れた後の展開は相当に奇想天外で、最後は悲劇的な大団円を迎える。あまりリアリティはない。

 だが、それでも湯島天神、白梅、お蔦と主税は、粋である

 別れるか、別れないか、どちらが正しいかという「正しさ」のことではない。それは時代によって変わってくる。現代を基準にして、彼らの選択を非難してもあまり意味はない。

 ただ、このシーンを美しいと感じる美的感覚は今もなお日本人の心の中に緒を引いて残っているようにも思われる。

      ★ 

<神名を問うなど>

 「いうまでもなく湯島の社(ヤシロ)は、菅原道真をまつる天神の社である。文和4(1355)年、郷民によって建立されたという。文和4年といえば室町幕府初代の足利尊氏のころで、南北の争乱のさなかだった」。

 司馬遼太郎はこう書いているが、社伝によれば創建は遥かに古い雄略天皇の2年で、天之手力雄命(アメノタヂカラヲノミコト)を祀った神社だったそうだ。その後、1355年に菅原道真を合祀したとする。ゆえに、祭神は、天之手力雄命と菅原道真の2柱である。

 武蔵の国は鎌倉武士団の国だから、高天原(タカマガハラ)の一番の力持ちであるタヂカラヲノミコトの方がふさわしいかもしれないと、勝手なことを考えた。

 祭神については、以前も当ブログに引用したが、司馬遼太郎のエッセイ集『この国のかたち』の第5巻に「神道1~7」がある。

 「神道に、教祖も教義もない。たとえばこの島々にいた古代人たちは、地面に顔を出した岩の露頭ひとつにも底つ磐根(イワネ)の大きさをおもい、奇異に感じた。畏れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。それが、神道だった。むろん、社殿は必要としない。社殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、それを見習ってできた風である」。

 また、伊勢神宮について書いた項に、次のような1節がある。

 「何事の おはしますかは 知らねども 辱(カタジケナ)さの 涙こぼるる 

という彼 (注:西行) の歌は、いかにも古神道の風韻をつたえている。その空間が清浄にされ、よく斎(イツ)かれていれば、すでに神がおわすということである。神名を問うなど、余計なことであった」。

 そのように考えれば、タヂカラヲノミコトとか菅原道真という人格神よりも、「昔からこの地におわす神様」とか、「湯島の神様」と言って手を合わせた方が清々しいように思う。

 ただし、これは私の感性であって、信心はそれぞれの心のままにである。

      ★

<歴史の中の菅原道真のこと> 

 湯島天満宮、通称湯島天神は、江戸、そして東京における代表的な天神社である。

 醍醐天皇の御代の901年、右大臣菅原道真は左大臣の藤原時平らの讒訴によって、太宰府に左遷されたという。(→現代の歴史学では、誰の意図で、なぜ左遷されたかについて、時平或いは藤原氏の謀略説には疑問が出されている)。そして、903年、道真はその地で没した。

 909年、左大臣の藤原時平が39歳の若さで病死。

 その後から、時平の死は、讒訴された道真の怨霊のせいだという噂が、どこからか広がった。(→もちろん、現代の歴史学は怨霊のせいにはしない。病死である。時平家をつぶすために意図的に流されたという説もある)。

 923年、醍醐天皇の東宮・保明親王が薨去し、これも道真の怨霊のせいではないかと人々は恐れた。(→もちろん、怨霊のせいではない)。そのため、朝廷は、死せる菅原道真を右大臣に復して、彼の名誉を回復した。

 だが、930年、宮中の清涼殿に雷鳴とともに落雷があり、死傷者も出た。人々は道真の怒れる怨霊のせいだとし、それを気に病んでか、醍醐天皇までも薨去した。(→もちろん、落雷は自然現象であって、怨霊のせいではない)。

 947年、朝廷は菅原道真を北野天満宮に神として祀った。また、その後、正一位太政大臣の位を贈って、道真の神格化を一層進めた。天の神、天神の誕生である。

 私たちの世代は、「894年、菅原道真、遣唐使廃止。その結果、国風文化が興る」とならった。しかし、現代の歴史学では、遣唐大使に任じられていた道真が、唐に内乱が勃発したことを知り、遣唐使の「延期」を奏上しただけだとする。その後、唐は滅亡し(907年)、遣唐使はなし崩し的に廃止された。そもそも、遣唐使を廃止したから国風文化が興ったという因果関係も疑問視されている。

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<変遷する神様> 

 太古の昔から、日本人は自然の中に神々を感じ、祀ってきた。川には水の神様、田を守り、豊作を願う神様、海には海人の神様、航海の目印になる岬や無人島にも神は祀られた。

 台風をもたらす風の神や水害を起こす雷の神も、これを鎮めるために全国津々浦々に祀られていた。

 そこへ、都から「天神」という人格神的な、皇室も恐れる神の話が伝わってきた。

 そこで、今まで風の神や雷の神を祀っていた神社は、祭神を天神に変えて北野天満宮の傘下に入っていった。「このことが天神信仰を全国化させた」(武光誠『知っておきたい日本の神様』)のである。

 初め、天神は祟る神、怒る神、雷の神として全国に広がった。天災を起こす神であり、また、鎮めて五穀豊穣を願う神であった。

 ところが、江戸時代になり平和が続くと、学問が盛んになる。すると、菅原道真が学者の家系であったことが思い出され、学問の神様として尊崇されるようになっていった。

 特に湯島天満宮は湯島聖堂のお膝元。多くの学者や文人、学問を志す若者が参拝するようになった。

 江戸時代は商業も盛んになった。都市部では近くの天神社に商人・町人の参拝者が増えていき、次第に商売の神様になっていった。天神祭りで有名な大坂の天満宮などは、町人たちの手で発展した神社である。

 そして、今、学問の神様は、学問成就よりも前に、受験の神様となった。湯島天神の参拝者は子どもから受験生の親まで、全体に平均年齢が若いように思う。修学旅行生も参拝に来るそうだ。

 もともと温厚な人柄の菅原道真は、祟(タタ)る神、怒る神、雷の神とされていたとき、ずいぶん迷惑であり、不本意であったろうと思う。 

 今は学問の神様となり、受験の神様になって、喜んでいらっしゃるに違いない。

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<湯島天満宮に参拝する> 

  (湯島天神の門前)

 『街道をゆく』によると、江戸時代、門前には岡場所があったそうだ。

 鳥居は銅製で、江戸時代前期の造り。

   (銅の鳥居と拝殿)

 「この神社は幕府から社領をもらわず、そのかわり"富くじの興行をゆるされ、経費をそれでまかなっていた」。

 「岡場所といい、富くじといい、いわば江戸の大衆性が反映して、社殿につややかさを加えているのかもしれない」。

    (右が拝殿、左奥が本殿)

 今回、何十年ぶりに参拝していちばん驚いたのは、合格祈願の絵馬の数の多さである。

 

 (おびただしい合格祈願の絵馬)

 全国のどこの神社でも、たとえば我が家の近くの龍田大社でも、秋口からだんだんと合格祈願の絵馬が増えていくが、これほどの圧倒的な数は見たことがない。高校、大学の合格祈願だけでなく、中学校や小学校の合格祈願もある。

 神様、どうか寄り添ってあげてください。

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<旧岩崎邸のこと>

 湯島天神のすぐ北に旧岩崎邸がある。

   (旧岩崎邸)

 本郷台の東縁で、東京大学のすぐ南に隣接する。

 建てたのは、岩崎弥太郎の嫡男の久弥(1865~1955)。

 戦後、米占領軍に接収され、その後、財産税の物納により国の財産になった。

 「設計は、神田のニコライ堂を設計した英国人ジョサイア・コンドルである」。木造2階建ての上にドームが載っている。「浮薄でなくてぜんたいに華やいでいるあたり、コンドルにとって会心の作だったにちがいない」。

 「"和館"とよばれている書院造りの建物もあり、… 明治の記念建造物であるにふさわしい」。

 なお、この地には幕末まで榊原家の江戸藩邸があった。大河ドラマ『どうする家康』に登場する徳川四天王の一人、榊原康政の子孫である。

 

 

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