一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

記憶は書き換えられる(第3話)「妄想」

2020-08-07 00:05:04 | 小説
それからしばらく経って、夏子さんから、自身の写真と1995年の大判手帳が送られてきた。写真は私がリクエストしたもので、手帳は今回のスタンプラリーの御礼であろう。
写真はスーツ姿で、全身が映っていた。ただ、やや下方から撮っているせいか、アゴのあたりがふくよかに見えた。笑顔も多少ひきつっていて、夏子さんの魅力が表れているとは思えなかった。それにしてもたった1年で、ずいぶん印象が変わったと思う。
その後私はネジ工場を辞め、再び就職活動に勤しんだ。就職はすぐにでも決まると思ったが、意外に難航した。
この間、夏子さんへの想いはあったが、アプローチするかは微妙なところだった。
私の高校は男女共学だったが、男女比が4:1で、男子クラスと共学クラスがあった。私は1年、2年とも男子クラスで、将棋部に入部した私は、まったく女子と交流を持てなかった。
3年生のとき、やっと共学クラスになれたが、クラスは受験一色で、女子と楽しめる雰囲気ではなかった。でも私は、クラスに女子がいるだけで幸せだった。
そして1994年の時点でも、私にはそのスタンスが残っていた。夏子さんの住所を知っただけで、私は満足していたのだ。あの胸を揉みしだきたいと熱望していたものの、野獣剥きだしで交際を申し込み、断られたら元も子もない。どうせ夏子さんとはまた会える。自然に任せてふたりの仲が進展すればいい、と構えていた。
そしてこれが重要なのだが、当時の私には、まだ角館の美女のことが頭にあったのだ。心の隅で、郁子さんからの連絡を待っていた。これでは夏子さんにアプローチできるわけもなかった。
私は1994年10月に、ある広告代理店に入社した。この会社は社長のワンマンで雰囲気は最悪だったが、私はまだ若かったから、仕事に精を出した。
そして気が付くと、6年半が経ってしまった。この間、夏子さんへ連絡は一度もせず、彼女からも来なかった。角館の美女の消息も掴めず、2001年4月、私は家の工場の仕事を手伝うため、また転職した。この時私は35歳。もう夏子さんは過去の人になってしまっていた。
いまではこの6年半の沈黙がどうにももどかしいが、当時の私が、結婚に対して積極的でなかった。同年代に比して収入は低いし、人間的に問題があるのもよく分かっていた。アピールポイントもなく、結婚できる器にないと悲観していたのだ。
工場では内勤になり、他者との交流は皆無になり、完全に結婚から遠のいた。
この数年間、私はあるエロ雑誌に、エロイラストを投稿していた。私は絵に自信があったから、採用率は100%に近かった。その2回目だか3回目だったろうか。イラストの女の子が夏子さんそっくりになってしまい、驚いたことがある。夏子さんのことが、まだ頭のどこかに残っていたのだ。
その後、弟が結婚し子供を設けたときは、ギリギリ跡継ぎができたと、胸をなでおろしたものだった。
姪と甥の成長は早く、私は複雑な気分で、彼らの成長を見守った。
その後私はLPSA駒込サロンにいりびたり、ある女流棋士に入れ込むことになる。しかしその女流棋士の結婚により、私はまたも郁子さんや夏子さんに回帰するのであった。
ラジオの文化放送では、2016年10月から、「ミスDJリクエストパレード」が始まった。これは女子大生ブーム真っ只中だった1981年に、女子大生による深夜DJとして始まったのが嚆矢で、当時高校生だった私は、勉強そっちのけで番組を聴いたものだ。
今回は、当時のDJだった千倉真理が再登板し、土曜昼(現在は日曜)に復活したものだった。
リスナーも当時のリスナーが多く、当然ながら既婚者が大勢を占めていた。私は自分が蚊帳の外に置かれた気分で、ここに至って、我が未婚を後悔した。
2017年、工場が廃業することになり、私は自営の仕事を辞めた。
私はまたも職探しの毎日になったが、今度は20代のころと違い、全然うまくいかなかった。2018年3月、交通広告を主業務にしている広告代理店の面接を、やっと受けることができた。面接は快活に進んだが、最後の質問が
「あなたのいままでの人生は、運がよかったですか? 悪かったですか?」
だった。
対して、脳裏に夏子さんがあった私は、妙な回答をする。
「面接上、運がいい、と言ったほうがいいとは思うんです。だけど夏子さんの件もあるし……いえすみません、運が悪いほうだと思います。自分の心に嘘はつけません――」
結果を書けば、私はその会社を落ちた。そりゃそうだ。会社は、運が悪い男と一緒に働きたくはない。
2019年正月、私は夏子さんへ年賀状を出した。遅すぎるアプローチである。夏子さんは結婚して家を出ているだろうし、引っ越している可能性もある。だが、何かアクションを起こさないと、やってられなかった。
年賀状には、ほかの知人に出したのと同じように、「私の10大ニュース」を書いたから、「家業を廃業して求職中」がトップニュースに来てしまった。
仮にこの年賀状を夏子さんが見たとしても、何も心に響かない。当然、夏子さんから返事はなかった。
2020年、世界的にコロナ禍になり、職安訪問以外にほとんど外出がなくなった私は、ますます夏子さんのことを考え始めた。我が半生を顧みて、夏子さんとの交流が結婚のラストチャンスだったことが分かった。
もちろん夏子さんの後も、ユースホステルなどで、何人かの女性と住所交換をすることはできた。そのうちのひとりとは、2020年の現在も、年賀状のやり取りは続いている。
だが再会を果たしたのは、夏子さんが最後だった。あの時私はまだ20代。結婚など全く視野に入れていなかったが、もう焦るべき時期だったのだ。
問題は夏子さんが交際を受け入れてくれたかどうかだが、最初は彼女が私に連絡をしてきたのだから、こちらが押せばうまくいった気がする。南足柄市は遠いが、角館に比べれば隣町みたいなものだ。毎日でも南足柄市に行ってやる。
そして、夢にまで見た夏子さんの胸を揉みしだく。その後は同棲するのだろうか。それはどこだったんだろう。狭いアパートでも、楽しく過ごすのだろう。
そして私はプロポーズする。これもうまくいくに違いない。
結婚生活も、順風満帆になるのだろう。元来私はモデル美人系がタイプで、郁子さんや寝屋川市の真知子さんがそれにあたる。夏子さんはかわいい系なのだが、結婚生活を考えた場合、夏子さんが隣にいてくれたほうが、心が休まるのではないか?
私たちの子供は、どんな顔になったのだろう。たぶんかわいいんだろうな。両親にも孫の顔が見せられて、私は長子としての顔が立つ。
ただしこの人生を歩んでいたら、間違いなくこのブログはない。「将棋ペン倶楽部」にも投稿していない。LPSA駒込サロンにも行っていないし、LPSAも応援していない。植山悦行七段、大野八一雄七段らとも、ジョナ研メンバーとの交流もない。仕事も、父の工場は手伝わなかったかもしれない。だけどそれでいい。夏子さんとの生活があるなら、以降の人生がすべて変わっても構わない。
ただ、姪と甥の運命は変わったと思う。私が早く結婚すれば、弟も、当時付き合っていた女性と結婚していたかもしれない。そうしたら姪と甥は……。
そこまで考えて、私はハッと我に返る。そこには、負け犬の独身中年がいるだけだった。
昼の妄想は断続的だが、寝床ではそれが長時間続く。7月28日の夜(29日)などは、それで一睡もできなかった。29日昼、私はたまらず、将棋ペンクラブのA氏に、飲み会を申し込んだ。こんなご時世だから自粛したいが、そうも言っていられなかった。このままでは、私が憔悴して死んでしまうと思った。
A氏は8月1日を指定してくれた。しかしその日までが長かった。29日(30日)も、一睡もできなかった。30日(31日)も、夜中の2時過ぎにウトウトしたが、ヘンな夢を見て、すぐに起きてしまった。
傍らのカゴには、奇跡的に1994年の手帳が置かれていた。私が夏子さんに再会した年のものだ。いままで何度か大掃除をやったのに、この手帳だけは捨てられなかった。
私は恐る恐る手を伸ばす。
中を開くと、驚くべき記述があった。
(つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする