一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

南足柄市の美女「東北本線での出来事」

2020-08-09 00:05:22 | 小説
私は齢50をとうに過ぎて未婚で、まあそれは仕方ないが、最近は老化現象が著しくなったこともあり、もし自分に子供がいたら、それはどんな子だったのだろうと考えることが多くなった。
せめて結婚だけでもしていれば両親を安心させられたのだが、それすらできなかった。両親には期待を裏切ってしまったと、心から詫びたい気持ちである。
そんな私にも、かつては結婚したい人が何人かいた。望まれるなら、その場で婚姻届に判を捺してもいいくらいだった。だけど魅力的な彼女らを前にすると、私は急所の局面で怖気づき、すべてをご破算にした。
現在はコロナ禍のうえ私は求職中なので、無駄に時間がある。だが人間、時間があるとロクなことを考えない。私の場合は変えられない過去を思い返しては、あの時ああすればよかった、こうすればよかったと頭を抱えるのだ。そして最近では、旅先で知り合ったある女性のことが思い出され、私を苦しめている。いままで想起したことはなかったのに、封印された記憶が、何かの拍子に開かれてしまったのだ。
以下は、そんなダメ人間の情けない述懐である。

1990年7月7日~9日、私は「EEきっぷ」を利用して、東北地方を旅行した。「EEきっぷ」とは、JR東日本発足を記念して発売されたもので、新幹線や在来線特急が3日間乗り放題で、15,450円だった。
当時の宿泊地はもちろんユースホステルで、初日は青森県向山にあるカワヨグリーンYHに泊まった。そこに、魅力的な女性ホステラーがいた。その夜は多少会話をしたと思うが、よく憶えていない。
翌朝、将棋の偉い先生が近くに来ている、という話になった。表へ出ると、牧場の端にスーツ姿の団体がおり、その中に大山康晴十五世名人がいた。その後頭部は朝日に照らされ、文字通り輝いていた。私はその場でひれ伏したものだった。
私は出発することになったが、昨晩の彼女と、青年2人組の計4人が、東北本線下りの普通列車に乗ることになった。
ボックス席には2手に分かれて座ったと思う。私のナナメ向かいに、彼女が座った。
彼女はショートヘアで、癒し系の顔立ちだった。着ているTシャツはブルー地で、胸いっぱいに「愛」と、金色で大書されていた。首回りは意外に露出があり、鎖骨がくっきり見える。胸のあたりは優美な膨らみを見せ、私は生唾をゴクリと飲み込んだ。
私は当時24歳で、広告代理店1年目。だが頭の中の9割は、女性のことで占められていた。私は彼女とお近づきになりたかった。何とかして、住所を知りたかった。これを解決するには写真を撮らせてもらい、それを送るために住所を聞くのが一番である。実際2年前の角館では、それで成功したのだ。
だがこの場で写真は唐突すぎる。この日私は下北半島の脇野沢YHに泊まるので、野辺地で乗り換える予定だ。彼女はもっと先に行く。このまま、彼女とは別れるしかないのか。
だが発車してしばらく経つと、青年2人組が、「4人の写真を撮りましょう」と言った。地元の乗客にカメラマンになってもらい、4人一緒のところを1枚写す。そして青年が写真を送るために、私と彼女に住所と名前を書かせた。そこで彼らの配慮が見事だった。この機会に、それぞれの住所と氏名を書き合いましょう、と提案してくれたのだ。
私の旅行ノートに、彼女が住所と氏名を書く。
「神奈川県南足柄市……滝本夏子」
奇跡は起こった。これで糸が繋がったのだ。
青年2人組は小河原で下車し、私は夏子さんと2人きりになった。旅先の車中で2人きり、は初めての経験である。私のドキドキは最高潮に達していたが冷静を装い、
「その『愛』のTシャツが素晴らしいですね」
と言った。
「ありがとうございます。私もこのTシャツ、気に入ってるんです!」
夏子さんがにっこりと笑って言った。完全に私は、心を持っていかれていた。
私は彼女の胸をチラ見しながら、会話を繋げる。彼女も楽しそうで、私はムラムラした中にも、居心地のよさを感じていた。大袈裟にいえば、夫婦はこんな感慨を抱くのかと思った。
話に夢中になり、私は我に返る。……あれ? もう野辺地を過ぎちゃったんじゃないか?
確認すると、果たしてそうだった。
脇野沢へは、下北半島を横断するのと、青森から高速船で行く手、津軽半島の蟹田からフェリー行く手がある。
気のせいかもしれないが、夏子さんも(このまま乗っていけばいいじゃない)と訴えているように見えた。私は自分のうっかりに感謝し、そのまま夏子さんとのおしゃべりを楽しんだ。
列車は青森駅に着いた。私はこの先も夏子さんに同行したかったが、それをやったらストーカーである。私は爽やかな青年を演じつつ、夏子さんと別れたのだった。

旅先から帰ってしばらく経ったある日、青年氏からあの時の写真が送られてきた。しかしその写真は盛大にぶれ、全体が二重、三重になっていた。それでも夏子さんは胸元と鎖骨が映え、胸も綺麗に膨らんでいた。私はその胸を揉みしだきたい思いにかられた。
だが、私は何もアクションを起こさなかった。もちろん夏子さんに会いたい気持ちはあったが、誘う口実がなかった。電話番号は記されなかったから連絡手段は手紙になるが、ただ会いたいから、という理由は短絡すぎる。それに夏子さんだって、あの時は流れの中で住所を書いただけだ。それを目的外の理由で利用されるのは不本意だろう。
それに私が最も再会を望むのは、2年前に角館で会った、千葉郁子さんだった。もしアプローチするなら、郁子さんが先ではならなかった。

その後も私はアクションを起こさなかった。夏子さんにも、郁子さんにも、である。私はこのころ、同僚の優子さんに一目惚れし、みにくい粘着を続けていたのだ。
さらに大阪担当になった私は、月に2回大阪出張があり、やはり旅先で親しくなった寝屋川市の音田真知子さんと、出張のたびに逢っていた。
そんな1992年6月、会社はバブル崩壊の余波で、大幅なリストラを断行した。私の部署は消滅することになり、私の居場所はなくなった。これが私に大したショックでなかったのは、会社の状態は勤務していれば分かるし、国鉄がJRになったり不採算路線を廃止したりしていたので、どの企業も潰れることがある、と学習していたことが大きい。
むろん会社に残る者もいたが、私は辞表を提出し、ボーナスをもらう前の7月9日に、退職することになった。
私はけじめをつける意味で、退職日の前日、優子さんに最後の電話を掛けた。だが優子さんは
「私があなたを嫌っていることを、あなたは知っていると思ってた」
と呆れたように言った。これは私の50余年の人生を顧みても、最もきつい一撃だった。もう状況的にはだいぶ前に振られていたのに、私はそれを認めようとしなかった。そして再度突撃して自爆した。
私は自分のバカさ加減に呆れ、自分を嗤うしかなかった。
求職期間は束の間のモラトリアムでもある。私はその月に長期の北海道旅行をし、その最中、大山十五世名人の死去を知った。
10月、私は叔父の経営するネジ工場に就職した。この工場には女ッ気がまったくなく、若手ばかりで華やかな、「フジテレビ」と形容された前の職場とは、雰囲気を180度異にした。

そのまま時が過ぎた1994年夏、私あてに中判の封筒が届いた。差出人を見ると、「滝本夏子」とあった。
夏子さん……!? なんで??
私は息が荒くなるのを感じた。
(つづく)
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記憶は書き換えられる(第4話)「衝撃の事実」

2020-08-08 00:10:09 | 小説
私はアドレスリストを見てみる。2018年暮れ、夏子さんに年賀状を出した時、この住所を見たのだ。
リストには10名が記されていた。会社の元同僚(女性)や、元バイト先の上司、高校時代の文通相手(女子)などの名前があり、そのいちばん上に、夏子さんの住所、それに電話番号が記されていた。私は、彼女に電話番号を聞いていたのだ! まったく記憶にないが、何度か手紙のやりとりをして、教えてもらったのだろう。
ダイアリー部分を見ると、9月15日(木・祝)に
「滝本(渋谷17:00~)」
とあった。私が彼女に会ったのはこの日だったか?
すぐ上の14日には、
「滝本Telあり→折り返しTel(男が出るが、コワい)」
とあった。何と、夏子さんから電話が来ていた。私は不在で、折り返し電話を掛けたのだ。だが電話口に男性が出て、私は震えたのだろう。でも翌日、デートすることができた⁉
東急のスタンプラリーは、3日間も費やしていた。やはり89駅となると、1日では回れなかったらしい。夏子さんとは1駅いっしょに押しただけだったが、10駅くらい残しておけばよかったのか。彼女にとってのベストは何だったのだろう。
私は7月10日を見てみる。こちらは
「角館
滝本19:00(上野)」
と赤字で記されていた。赤字は、予定を意味する。そしてこの日に会ったのは間違いない。じゃあ夏子さんとは、2回会っていたのか⁉
7月10日は、上り新幹線の到着時刻に合わせたのだ。1年振りの再会を祝ったあと、私たちはどこかの店へ入ったのだろう。だがその記憶が全然ない。
もつ鍋を食べたのは渋谷だろう。秋の9月15日だから、そのメニューがあった。
1995年の手帳も、このとき戴いたのかもしれない。秋だから来年の手帳がすでに売られていたのだ。そして彼女が私を見て微笑んだあの角度の貌は、渋谷だ。私としたことが、2回の記憶を1回に凝縮してしまっていた。
いずれにしても夏子さんとは、フランクな関係になっていた。ゆえに渋谷で交際を申し込めば、私の妄想の数々が、現実になっていたかもしれないのだ。
ほかのページも繰ると、「中澤、中村」と赤字で記述があった。この2人は新卒の会社で同僚だった女子だ。私は退職後も、彼女らとも飲みに行っていたのだ。現在のニート状態に比べると、あまりにも我が行動が眩しすぎる。
ちなみに中澤範子さんはたいへんな美形で、スタイルと性格も抜群だった。あまりにも美しいので、私は逆に、ふつうに話せたのだ。
「安倍」の記述もある。安倍は高校の同級生(男)で、月に2回くらい会って街ブラをしていた。彼と話すことと言えば、一言に要約すると「彼女いない、彼女ほしい、彼女いるやつ、バカ野郎」だった。
つまり2人とも彼女がいないのを楽しんでいた?のだが、私には彼女ができるチャンスがあったのだ。だが私は9月16日以降、夏子さんに連絡をしなかった。そんなに郁子さんを求めていたのか?
私は喉がカラカラになり、台所で水を飲む。真夜中だが、当時の日記を見たくなった。
いろいろ漁ると、当時のそれが出てきた。見ると、どうしようもない記述ばかりである。街を歩いていたら綺麗な女の子を見た、とかイラスト入りで書いたりしている。
そして7月17日は、筆ペンで「千葉郁子さんに会いたい!!」と大書していた。しかし肝心の9月15日は、記述はなかった……。
当然ながら、郁子さんへの執着が大きい。7月3日に郁子さんのお母さんに会って、郁子さんと再会の可能性が出てきたからだ。しかし繰り返すが、当時私が狙うべきは幻の美女ではなく、現実に会っている夏子さんだったのだ。
当時、というかいまもだが、私は結婚までの過程で「ドラマ」を欲する。角館の美女とのそれは、私が旅先でたまたま声を掛けた女性と親しくなり、結婚まで進展するというストーリーになる。
私はそれに固執したのだが、南足柄市の夏子さんとのそれも、なかなかに劇的である。旅先でたまたま会い、同宿者の計らいで細い糸が繋がった。それから1年経って再会し、交際、結婚に発展する――。
どうして、後者の道を選ばなかったのだろう!
私より13年下のいとこは、職場のアルバイトの女性と結婚した。彼女が職場を辞める最終日、いとこが告白して付き合いが始まり、結婚に至ったものだ。
よって私の妄想も、ひどい飛躍とは思えないのである。
ともあれ新事実が明らかになり、私はさらに精神状態がガタガタになった。
もうこういうときは、過去の出来事を客観的に文章化して、ブログに発表するしかない。第三者に悩みをぶちまけて、心の負担を軽くするのだ。
とにかく私は1回目を書いた。第1話は、私と夏子さんが旅先で出会い、翌年夏子さんが中判の封筒を私に送ってくるまでだ。
読み返すと、ノンフィクションなのに、スピード感があって面白かった。これをA氏に読んでもらう。作家でもあるA氏のお墨付きを得れば、ブログにアップしやすくなる。

8月1日が来た。待ち合わせ時間は午後6時30分だから、昼は時間がある。あまり気が進まないが、私は夏子さんとの初対面の日を確定するべく、過去の旅行日誌を漁った。
だが1993年は、東北へ行っていなかった。徐々に遡っていくと、ようやくそれらしきノートを見つけた。最終ページに、夏子さんらホステラーの連絡先が、個々の自筆で書かれていたのだ。そしてその旅行日は、1990年7月だった!!
何と、再会まで4年を要していた! これでは夏子さんの雰囲気が変わるわけだ。そしてこの間私は、職場の優子さんに片思いしていたのだ。これでは夏子さんに食指が動かないはずだ。
ノートは日誌のテイをなしておらず、旅の感想が記されていなかった。だが4年のブランクの判明も大きく、私は「第1話」の修正を余儀なくされた。
修正稿を読み返してみると、面白味は薄れた。でもこれをプリントアウトし、リュックに詰めた。それと念のため、1994年の手帳もしのばせた。

A氏とは立川駅で待ち合わせとなった。A氏は作家だが、それだけでは食べていけないので、別の仕事を持っている。この日も仕事だったしく、私は申し訳ない気持ちである。
A氏が来た。私が夏子さんと結婚していたら、A氏とも知己にはならなかった。むろんそれで構わない。将棋関連の知己は、すべて清算でいい。夏子さんとの未来があれば、以降の記憶は要らないのだ。
A氏はずいぶん痩せていた。私は醜く太り、禿げてきたので、バツが悪い。
「今日は悪かったね。オレも50を過ぎて、こんなことで悩むとは思わなかったよ。オレのイメージしてた50代は立派な大人だったが、実際になってみると、子供だった」
「それはボクも同じさ」
私たちは、A氏オススメの居酒屋に入った。このパターン、9年前と同じだ。すなわち、私がファンだった女流棋士が電撃結婚したときに私はショックを受け、A氏夫婦を呼んで、愚痴を聞いてもらったのだ。
当時はリアルタイムだったが、今回は26年前の逸機だ。ショックの質が違い、今回のほうがはるかにキツい。私が愚痴をこぼしたところで、何も解決しないのだ。
生ビールを頼み、とりあえず乾杯する。だが、何を乾杯するのか。
「今回オレが話す内容をブログに上げようと思って、とりあえず発端の部分を書いてきた」
と私。
「ああ、ありがとう。帰宅して読むよ」
「おいおい、いま読んでくれ」
「そうなの? ……そんなこともあるかと思って、老眼鏡を持ってきたよ」
A氏はそう言って、読み始めた。
(つづく)
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記憶は書き換えられる(第3話)「妄想」

2020-08-07 00:05:04 | 小説
それからしばらく経って、夏子さんから、自身の写真と1995年の大判手帳が送られてきた。写真は私がリクエストしたもので、手帳は今回のスタンプラリーの御礼であろう。
写真はスーツ姿で、全身が映っていた。ただ、やや下方から撮っているせいか、アゴのあたりがふくよかに見えた。笑顔も多少ひきつっていて、夏子さんの魅力が表れているとは思えなかった。それにしてもたった1年で、ずいぶん印象が変わったと思う。
その後私はネジ工場を辞め、再び就職活動に勤しんだ。就職はすぐにでも決まると思ったが、意外に難航した。
この間、夏子さんへの想いはあったが、アプローチするかは微妙なところだった。
私の高校は男女共学だったが、男女比が4:1で、男子クラスと共学クラスがあった。私は1年、2年とも男子クラスで、将棋部に入部した私は、まったく女子と交流を持てなかった。
3年生のとき、やっと共学クラスになれたが、クラスは受験一色で、女子と楽しめる雰囲気ではなかった。でも私は、クラスに女子がいるだけで幸せだった。
そして1994年の時点でも、私にはそのスタンスが残っていた。夏子さんの住所を知っただけで、私は満足していたのだ。あの胸を揉みしだきたいと熱望していたものの、野獣剥きだしで交際を申し込み、断られたら元も子もない。どうせ夏子さんとはまた会える。自然に任せてふたりの仲が進展すればいい、と構えていた。
そしてこれが重要なのだが、当時の私には、まだ角館の美女のことが頭にあったのだ。心の隅で、郁子さんからの連絡を待っていた。これでは夏子さんにアプローチできるわけもなかった。
私は1994年10月に、ある広告代理店に入社した。この会社は社長のワンマンで雰囲気は最悪だったが、私はまだ若かったから、仕事に精を出した。
そして気が付くと、6年半が経ってしまった。この間、夏子さんへ連絡は一度もせず、彼女からも来なかった。角館の美女の消息も掴めず、2001年4月、私は家の工場の仕事を手伝うため、また転職した。この時私は35歳。もう夏子さんは過去の人になってしまっていた。
いまではこの6年半の沈黙がどうにももどかしいが、当時の私が、結婚に対して積極的でなかった。同年代に比して収入は低いし、人間的に問題があるのもよく分かっていた。アピールポイントもなく、結婚できる器にないと悲観していたのだ。
工場では内勤になり、他者との交流は皆無になり、完全に結婚から遠のいた。
この数年間、私はあるエロ雑誌に、エロイラストを投稿していた。私は絵に自信があったから、採用率は100%に近かった。その2回目だか3回目だったろうか。イラストの女の子が夏子さんそっくりになってしまい、驚いたことがある。夏子さんのことが、まだ頭のどこかに残っていたのだ。
その後、弟が結婚し子供を設けたときは、ギリギリ跡継ぎができたと、胸をなでおろしたものだった。
姪と甥の成長は早く、私は複雑な気分で、彼らの成長を見守った。
その後私はLPSA駒込サロンにいりびたり、ある女流棋士に入れ込むことになる。しかしその女流棋士の結婚により、私はまたも郁子さんや夏子さんに回帰するのであった。
ラジオの文化放送では、2016年10月から、「ミスDJリクエストパレード」が始まった。これは女子大生ブーム真っ只中だった1981年に、女子大生による深夜DJとして始まったのが嚆矢で、当時高校生だった私は、勉強そっちのけで番組を聴いたものだ。
今回は、当時のDJだった千倉真理が再登板し、土曜昼(現在は日曜)に復活したものだった。
リスナーも当時のリスナーが多く、当然ながら既婚者が大勢を占めていた。私は自分が蚊帳の外に置かれた気分で、ここに至って、我が未婚を後悔した。
2017年、工場が廃業することになり、私は自営の仕事を辞めた。
私はまたも職探しの毎日になったが、今度は20代のころと違い、全然うまくいかなかった。2018年3月、交通広告を主業務にしている広告代理店の面接を、やっと受けることができた。面接は快活に進んだが、最後の質問が
「あなたのいままでの人生は、運がよかったですか? 悪かったですか?」
だった。
対して、脳裏に夏子さんがあった私は、妙な回答をする。
「面接上、運がいい、と言ったほうがいいとは思うんです。だけど夏子さんの件もあるし……いえすみません、運が悪いほうだと思います。自分の心に嘘はつけません――」
結果を書けば、私はその会社を落ちた。そりゃそうだ。会社は、運が悪い男と一緒に働きたくはない。
2019年正月、私は夏子さんへ年賀状を出した。遅すぎるアプローチである。夏子さんは結婚して家を出ているだろうし、引っ越している可能性もある。だが、何かアクションを起こさないと、やってられなかった。
年賀状には、ほかの知人に出したのと同じように、「私の10大ニュース」を書いたから、「家業を廃業して求職中」がトップニュースに来てしまった。
仮にこの年賀状を夏子さんが見たとしても、何も心に響かない。当然、夏子さんから返事はなかった。
2020年、世界的にコロナ禍になり、職安訪問以外にほとんど外出がなくなった私は、ますます夏子さんのことを考え始めた。我が半生を顧みて、夏子さんとの交流が結婚のラストチャンスだったことが分かった。
もちろん夏子さんの後も、ユースホステルなどで、何人かの女性と住所交換をすることはできた。そのうちのひとりとは、2020年の現在も、年賀状のやり取りは続いている。
だが再会を果たしたのは、夏子さんが最後だった。あの時私はまだ20代。結婚など全く視野に入れていなかったが、もう焦るべき時期だったのだ。
問題は夏子さんが交際を受け入れてくれたかどうかだが、最初は彼女が私に連絡をしてきたのだから、こちらが押せばうまくいった気がする。南足柄市は遠いが、角館に比べれば隣町みたいなものだ。毎日でも南足柄市に行ってやる。
そして、夢にまで見た夏子さんの胸を揉みしだく。その後は同棲するのだろうか。それはどこだったんだろう。狭いアパートでも、楽しく過ごすのだろう。
そして私はプロポーズする。これもうまくいくに違いない。
結婚生活も、順風満帆になるのだろう。元来私はモデル美人系がタイプで、郁子さんや寝屋川市の真知子さんがそれにあたる。夏子さんはかわいい系なのだが、結婚生活を考えた場合、夏子さんが隣にいてくれたほうが、心が休まるのではないか?
私たちの子供は、どんな顔になったのだろう。たぶんかわいいんだろうな。両親にも孫の顔が見せられて、私は長子としての顔が立つ。
ただしこの人生を歩んでいたら、間違いなくこのブログはない。「将棋ペン倶楽部」にも投稿していない。LPSA駒込サロンにも行っていないし、LPSAも応援していない。植山悦行七段、大野八一雄七段らとも、ジョナ研メンバーとの交流もない。仕事も、父の工場は手伝わなかったかもしれない。だけどそれでいい。夏子さんとの生活があるなら、以降の人生がすべて変わっても構わない。
ただ、姪と甥の運命は変わったと思う。私が早く結婚すれば、弟も、当時付き合っていた女性と結婚していたかもしれない。そうしたら姪と甥は……。
そこまで考えて、私はハッと我に返る。そこには、負け犬の独身中年がいるだけだった。
昼の妄想は断続的だが、寝床ではそれが長時間続く。7月28日の夜(29日)などは、それで一睡もできなかった。29日昼、私はたまらず、将棋ペンクラブのA氏に、飲み会を申し込んだ。こんなご時世だから自粛したいが、そうも言っていられなかった。このままでは、私が憔悴して死んでしまうと思った。
A氏は8月1日を指定してくれた。しかしその日までが長かった。29日(30日)も、一睡もできなかった。30日(31日)も、夜中の2時過ぎにウトウトしたが、ヘンな夢を見て、すぐに起きてしまった。
傍らのカゴには、奇跡的に1994年の手帳が置かれていた。私が夏子さんに再会した年のものだ。いままで何度か大掃除をやったのに、この手帳だけは捨てられなかった。
私は恐る恐る手を伸ばす。
中を開くと、驚くべき記述があった。
(つづく)
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記憶は書き換えられる(第2話)「再会」

2020-08-06 00:56:22 | 小説
封を開けると、「東急89駅小さな旅すたんぷポン!」というスタンプ帳が入っていた。同封されていた手紙を読むと、それは奇妙な内容だった。
要約すると、夏子さんの友人が東急89駅のスタンプラリーをやりたくなったのだが、本人は遠くに住んでいて、それができない。そこで夏子さんが「代押し」を頼まれたのだが、彼女も南足柄市住まいでやはり遠い。
それで夏子さんが私に、代わりにやってくれませんか? と依頼してきたのだ。
「東急89駅小さな旅すたんぷポン!」はもちろん東急グループの企画で、期間中、駅に設置された記念スタンプを全部押すと、認定証と記念プレートがもらえるというものだった。しかしこのスタンプ帳、イラストが子供向けで、とてもいいオトナがやるものではない。
私はやや肩透かしを食ったが、夏子さんから連絡があったことはうれしかった。私の脳裏に、夏子さんの胸が浮かぶ。いや、すべてが浮かぶ。私は夏子さんが好きだったから、一も二もなく引き受けたいと思った。
でも……と思う。この類の企画は、自分がその場に行って押すから記念になるのであって、代押しで記念品を入手しても、何の価値もないのではないか?
だが私もほれた弱みである。私は東急沿線へいそいそと出掛けると乗降を繰り返し、子供たちの列に交じり、各駅でスタンプを押した。
ただ、1駅だけは残しておいた。私は夏子さんに手紙を書き、「これは夏子さんと私で押しませんか?」と提案した。これで夏子さんが東京に出てきてくれれば、デートすることもできる。
夏子さんも快諾し、それは7月10日(日)の夜と決まった。だがこの日は、私にとって別の意味で、勝負の1日だった。
すなわち、私は「角館の美女」が忘れられず、あれから6年近く経って、ついに郁子さんの実家に出向くことにしたのだ。それが7月3日(日)だった。私は彼女の実家にたどり着き、お母さんに会えた。お母さんとはじっくり話ができ、私は郁子さんの生年月日や、ここの電話番号を教えてもらったのだ。
だが肝心の郁子さんはすでに家を出ていて、親子の仲もうまくいっていなかった。彼女の現住所も、教えてもらえなかった。ただ、「あなたから何か送りたいものがあれば、それを転送します」とは言われた。
私は彼女をモデルにした小説を執筆していたので、彼女への熱意を表すため、その小説を直接届けることにした。それが翌週の7月10日だったのである。
だが10日は散々だった。今度はお父さんが出てきたが、お父さんは目が不自由でサングラスを掛けており、私は不審者扱いされ、どやされた。まったく聞く耳を持ってもらえなかった。前週のお母さんとは180度対応が違い、私は落胆した。
その帰途、私は夏子さんと会う羽目になったのである。当日、彼女とはどこで会ったか憶えていない。ただ、新幹線から降りて10分もしないうちに会った記憶がある。上野だったのだろうか。
1年振りに会う夏子さんはかわいらしかった。紺のスーツ姿も似合っていたが、胸が強調されていないのが残念だった。
そんな夏子さんは開口一番
「大沢さん、怖い顔してる」
と言った。
私は、これから女性に会うからといって鼻の下を伸ばす男ではないと、硬派を気取ったのだ。だが半分は、郁子さんのお父さんに叱責されたことで、不貞腐れていたのかもしれない。
私たちは東急の駅で、最後のスタンプを押した。
次は、事務所に行って手続きである。スタンプラリー帳を見せると、記念プレートと、認定証をくれた。認定証は割としっかりしたもので、B5版くらいあった。氏名の欄には、「大沢夏子」と書いてもらった。ふたりで最後のスタンプを押したからだが、私は、夏子さんがこの名字になりますように、との祈りを込めたものだった。
だが夏子さんは、そのスタンプラリー帳と記念プレートを、私にくれると言った。
いやいや、これを最初の依頼人に渡すのが目的だろう? あれ?
……もしやこのスタンプラリーは、夏子さんが私に会うための口実だったのか? そういえば、この認定証も、別人の名前を書いてしまった。これじゃあ友人に差し上げるものがない。
仮に口実だったとしても、私が苦労して集めたスタンプである。そこはやはり記念として、彼女に収めてもらいたかった。
私たちは居酒屋へ行った。ずいぶん解放感のある店で、室内が明るかったことは憶えている。
夏子さんは私の左に座り、私たちはもつ鍋を頼んだ。当時はこのメニューが流行っていたのである。私たちは生ビールで改めて再会を祝し、乾杯した。
ここで話した内容はほとんど憶えていない。ただ行きがかり上、私が「角館の美女」のことを話した可能性は高い。いまここで生身の女性と逢っているのに、幻の美女を求めて、2週連続で角館に出向いた……。これでは夏子さんも、いい気持ちはしなかっただろう。
だが私は、寝屋川市の音田真知子さんと会った時も、この話をした気がする。私はこの辺の女性心理が全然読めなかった。
夏子さんは現在どこかの会社の営業部員で、ふだんはクルマに乗っているとのことだった。昼食は、大学の食堂で摂ることが多い、と言った。
ちなみに私はといえば、1994年7月当時は叔父のネジ工場に勤めていたが、会社の経営不振が顕在化し、私はこの月をもって辞めることになっていた。まさか私は、無職になることまでしゃべったのだろうか……?
夏子さんがこちらを見ては、にっこり笑う。それは本当に、かわいらしかった。それは26年経ったいまでも、はっきりと私の脳裏に残っている。
(夏子さんは、付き合っている男性はいるんですか?)
この言葉が本当に、喉のここまで出かかった。だが、「Yes」の答えが怖かった。
また「No」と返ってきたら、私は次の言葉を言えるのか?
「僕と正式に付き合ってください」
と。そしてそこで「No」と言われたらどうするのか。せっかくここまでいい雰囲気で来たのに、私がこの先の発展を求めることで、ふたりの仲がギクシャクしたら、それは早まったことになる。
私はこの2年前、職場の同僚に告白し、バッサリと振られていた。あの屈辱を味わうのは、もうイヤだった。
さらに書けば、このとき私の脳裏には「角館の美女」が支配していた。私のキャパシティでは、同時に2人の女性を追いかけることはできなかった。それに私は今月、無職になる。「無職」と「デキル営業部員」とでは、立場が違う。私は告白できるステージに登っていなかったのだ。
そもそも、私が夏子さんの住所を知れたのは、旅先での青年の配慮によるものだった。それを私が別件で利用していいのかという、妙な逡巡もあった。
焦ることはない。私が夏子さんに交際を申し込むのは、あと1、2回デートしてからでいいと思った。
彼女が帰る時間になった。南足柄市は、御殿場線だろうか。小田急で行っても、かなりかかる。私は夏子さんの切符を買おうとしたが、彼女は断り、自分で買った。
電車に乗る夏子さんを見送りながら、次はいつ会えるだろうと思った。
だが結果的に、私が夏子さんに会うのは、これが最後になった。
(つづく)
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記憶は書き換えられる(第1話)「南足柄市・滝本夏子」

2020-08-05 00:20:30 | 小説
私は齢50をとうに過ぎて未婚で、まあそれは仕方ないが、最近は老化現象が著しくなったこともあり、もし自分に子供がいたら、それはどんな子だったのだろうと考えることが多くなった。
せめて結婚だけでもしていれば両親を安心させられたのだが、それすらできなかった。両親には期待を裏切ってしまったと、心から詫びたい気持ちである。
そんな私にも、かつては結婚したい人が何人かいた。望まれるなら、その場で婚姻届けに判を捺してもいいくらいだった。だけど魅力的な彼女らを前にすると、私は急所の局面で怖気づき、すべてをご破算にした。
現在はコロナ禍のうえ私は求職中なので、無駄に時間がある。だが人間、時間があるとロクなことを考えない。私の場合は変えられない過去を思い返しては、あの時ああすればよかった、こうすればよかったと頭を抱えるのだ。そして最近では、旅先で知り合ったある女性のことが思い出され、私を苦しめている。いままで想起したことはなかったのに、封印された記憶が、何かの拍子に開かれてしまったのだ。
以下は、そんなダメ人間の情けない述懐である。

あれは1993年の夏だったと思う。私は2泊3日の東北旅行に出かけた。
当時の宿泊地はもちろんユースホステルで、初日は青森県某所のYHに泊まった。すると、そこに魅力的な女性ホステラーがいた。その夜は多少会話をしたと思うが、よく憶えていない。
翌朝出発することになったが、昨晩の彼女と、青年2人組の計4人が、東北本線下りの普通列車に乗ることになった。
ボックス席には2手に分かれて座ったと思う。私のナナメ向かいに、彼女が座った。
彼女はショートヘアで、癒し系の顔立ちだった。着ているTシャツはブルー地で、金色で「愛」と大書されていた。首回りは意外に露出があり、鎖骨がくっきり見える。胸のあたりは優美な膨らみを見せ、私は生唾をゴクリと飲み込んだ。
当時私は27歳。頭の中の9割は、女性への妄想で占められていた。私は彼女とお近づきになりたかった。何とかして、住所を知りたかった。これを解決するには写真を撮らせてもらい、それを送るために住所を聞くのが一番である。実際1988年の「角館の美女」の時は、それで成功したのだ。
だがこの場で写真は唐突すぎる。この日私は下北半島の「脇野沢YH」に泊まるので、野辺地で乗り換える予定だ。彼女はもっと先に行く。このまま、彼女とは別れるしかないのか。
だが発車してしばらく経つと、青年2人組が、「4人の写真を撮りましょう」と言った。地元の乗客にカメラマンになってもらい、4人一緒のところを1枚写す。そして青年が写真を送るために、私と彼女に住所と名前を書かせた。そこで彼らの配慮が見事だった。彼らは私たち4人のそれを教え合うよう、指示してくれたのだ。
彼女は神奈川県南足柄市在住の、滝本夏子といった。奇跡は起こった。これで彼女との糸が繋がったのだ。
青年2人組はすぐに下車し、私は夏子さんと2人きりになった。旅先の車中で2人きり、は初めての経験だった。私のドキドキは最高潮に達していたが冷静を装い、
「その『愛』のTシャツが素晴らしいですね」
と言った。
「ありがとうございます。私もこのTシャツ、気に入ってるんです!」
夏子さんがにっこりと笑って言った。完全に私は、心を持っていかれていた。
私は彼女の胸をチラ見しながら、会話を繋げる。彼女も楽しそうで、私はムラムラした中にも、居心地のよさを感じていた。大袈裟にいえば、夫婦はこんな感慨を抱くのかと思った。
話に夢中になり、私は我に返る。……あれ? もう野辺地を過ぎちゃったんじゃないか?
確認すると、果たしてそうだった。
脇野沢へは、下北半島を横断するのと、青森から高速船で行く手、津軽半島の蟹田からフェリー行く手がある。いまの私だったら、そのまま夏子さんにひっついて、青森までは行くだろう。
だが当時の私は最悪の選択をした。時刻表で上り列車の時刻を調べ、最も待ち時間の少ない駅で折り返すことにしたのだった。
目的の駅に着き、私は後ろ髪を引かれる思いで下車した。夏子さんとの、束の間の楽しい時間はあっけなく終わったのである。

帰京してしばらく経ったある日、例の青年からあの時の写真が送られてきた。しかしその写真は盛大にブレ、全体が二重、三重になっていた。夏子さんは胸元と鎖骨が映え、胸も綺麗に膨らんでいた。私はその胸を揉みしだきたい思いにかられた。
だが、私は何もアクションを起こさなかった。もちろん夏子さんに会いたい気持ちはあったが、誘う口実がなかった。電話番号は知らされなかったから連絡手段は手紙になるが、ただ会いたいから、という理由は短絡すぎる。それに夏子さんだってあの時は、流れの中で住所を書いただけだ。それを目的外の理由で利用されるのは不本意だろう。
それに私の頭の中には、5年前に角館で会った、千葉郁子さんがあった。もしアプローチするなら、郁子さんが先ではならなかった。

そんな1994年夏、私あてに中判の封筒が届いた。差出人を見ると、「滝本夏子」とあった。
夏子さん……!? なんで??
私は息が荒くなるのを感じた。
(つづく)
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