一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

大山の名局・13

2024-07-26 22:04:03 | 名局

きょう7月26日は、大山康晴十五世名人の命日である。1992年の逝去だから、もう32年も経ってしまった。
32年前、私は新卒の会社をリストラされ、モラトリアムを北海道旅行に充てていた。その日私は旭川におり、夜、オヤジに電話すると、どうでもいい会話のあと、「あと、大山が死んだ」と、オヤジが散文的に言った。私は、ひとつの時代が終わったと思った。
さて、今年も恒例の「大山の名局」をお送りしたいが、昨今は自由に記譜を掲載できないので、規定に則り、10手だけ抜粋する。
今回の相手は、のちに永世棋聖となる米長邦雄七段である。当時は新進気鋭の若手で、将来を嘱望されていた。
題材は、1970年8月24日・25日に指された第11期王位戦第3局(主催:新聞三社連合、日本将棋連盟)。ここまで大山王位の2連勝で、米長七段にはあとのない一番。大山王位は向かい飛車に構え、米長七段は急戦からうまく捌き、優勢を築いた。
そして迎えたのが第1図である。

第1図以下の指し手。▲4六歩△4八金▲4七金△3八金▲同玉△4九銀▲3九玉△2四香▲3七金打(第2図)

米長七段が△7七の馬を△5九馬と入ったところ。これが手順前後のミスで、ここは△4八金と張り付いておけば、米長七段が優位を持続できた。
大山王位の▲4六歩が巧妙な受けで、△4八金に▲4七金と活用できた。このあたり、6年前の「大山の名局」で紹介した、塚田泰明八段とのA級順位戦に雰囲気が似ている。ちなみにこのときの記事で、本局の一場面を紹介している。やはり、6年前も同じことを考えたわけだ。
本譜△3八金▲同玉△4九銀に、▲3九玉が意表の逃げ方。ここ▲2八玉は△8六馬▲同歩△3八飛で寄る。米長七段もこの順を読んでいたに違いないが、▲3九玉に思考を乱したか、△2四香と指した。が、大山王位の▲3七金打が大山流の頑強な受け。これで逆転した。

戻って△2四香では△5五香が最善だった。これなら米長七段の優位が続いていた。
けっきょく、121手まで大山王位の勝ち。これで大山王位の3勝となったが、続く第4局では米長七段が一矢を報いる。最終的には第5局に大山王位が勝ち、盤石の防衛となった。
しかし米長七段も第4局に勝ったことで大きな自信になり、スター街道を歩んでいく。このカードが100対局を越えるとは、当の2人はまったく考えていなかったことだろう。
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谷川の名手

2024-04-06 23:02:12 | 名局
きょう4月6日は、谷川浩司十七世名人62歳の誕生日。おめでとうございます。
谷川十七世名人が14歳で棋士になって、48年近く。まったく月日の経つのは早く、これじゃあ私も歳を取るわけである。
さてきょうは谷川十七世名人の名局を紹介したいが、最近はコンプライアンスが厳しいので、「名手」を紹介するに留めよう。
それは1991年2月12日に指された、第49期A級順位戦(主催:毎日新聞社、日本将棋連盟)8回戦、VS塚田泰明八段(当時)戦である。
将棋は塚田八段の先手で、「塚田スペシャル」が現れた。
「塚田スペシャル」は、若干説明を要する。1986年、塚田現九段が連採した相掛かり急戦は猛威を振るい、「塚田スペシャル」と名付けられた。塚田九段は当時の新記録となる22連勝を記録し、向かうところ敵なしだった。
その後いくつか対応策が現れたが塚田九段もよく研究し、1990年に入って、「塚田スペシャル」を指すのは塚田九段だけになっていた。そんな状況の中、この将棋が指されたのである。
将棋はほぼ定跡形に進行する。谷川竜王(当時)は飛車角交換に出て王手飛車を狙うと、塚田八段は「その手は食らうか」と、その飛車を金と交換(王手)する。まさにチャンチャンバラバラで一段落となり、谷川竜王の手番。
ここで谷川竜王が放った△8二飛の自陣飛車が名手。先手からの8筋の飛車打ちに備えた手だが、将来の8筋からの攻めも見て、これで後手が十分になっている。

もっともこの局面、アマ同士ならまだこれからだが、微差でも形勢がはっきりした局面をプロが採用するわけがなく、これで「塚田スペシャル」の命運が尽きた。
谷川十七世名人の名手といえば攻めの手が多いが、今回は受けの名手で、珍しいと思う。

なお、対局が行われた同じ日、別室では、大山康晴十五世名人VS青野照市八段(当時)の一戦も行われていた。この将棋も有名で、当ブログでもどこかで紹介しているはずだ。
このころの将棋界はAIもなく、本当に面白かった。
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木村名人の名手

2024-02-21 14:45:44 | 名局
きょう2月21日は、木村義雄十四世名人の生誕日。1905年生まれだから。生きていれば今年で119歳になる。
木村十四世名人は名人8期の伝説的人物である。日本将棋連盟のHPを見ると、「将棋連盟100周年特設サイト」に、木村十四世名人と塚田正夫名誉十段の対局姿が確認できる。木村十四世名人もご満悦ではないだろうか。
木村十四世名人は第1期の名人。木村名人の恐ろしいところは、木村名人があまりにも強すぎて、第4期と第5期は、番勝負なしの木村名人防衛の措置が取られたことであった。
第6期は塚田八段に名人位を奪われたが、第8期にリベンジ。この期は1日制五番勝負という変則日程だったが、木村八段はよく戦い、第4局を終えて2勝2敗。最終決戦は1949年5月24日、皇居内の済寧館で行われた(主催:朝日新聞社、日本将棋連盟)。世に言う「済寧館の決戦」である。
将棋は木村八段の先手で、正調角換わり相腰掛け銀となった。木村八段は巧みな攻めから駒得を拡げる。
終盤、塚田名人は△4六歩と伸ばし、次に△4七歩成がある。しかしそこで▲4八歩と受けるのはアマチュアの手だ。

木村八段は▲2四歩(図)と打った。これが名手で、△2四同歩なら▲同飛△2三歩▲3四飛△3七金▲同飛で、次に▲3四桂を見て先手勝勢。
とはいえ▲2四歩の局面、アマから見ればまだまだ逆転の余地はある。ところが塚田名人はここで投了してしまった。木村八段の名人復位も見事だったが、塚田名人の散り際もあっぱれだった。
その後、木村名人は大山康晴八段、升田幸三八段に勝ち名人位を8期に伸ばした。
そして1952年、木村名人は大山九段に敗れ現役を引退、「良き後継者を得た」の名台詞を残し、十四世名人を襲位したのであった。
コメント (2)
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中原の名局(名手)・4

2023-09-02 14:34:10 | 名局
きょう9月2日は、中原誠十六世名人の76歳の誕生日。おめでとうございます。
そこできょうは、「中原の名局」を4年ぶりにアップしようと思う。
といっても、昨今は著作権の関係で、全記譜をアップできない。そこで、「名局」ならぬ「名手」をアップしたい。
将棋は1981年10月1日、2日に行われた、第22期王位戦(新聞三社連合、日本将棋連盟主催)第7局・中原王位VS大山康晴王将戦である。ここまで中原王位側から見て、○●○○●●で、最終決戦となった。
ちなみに当時のタイトルの分布は、加藤一二三十段、二上達也棋聖、米長邦雄棋王。王座はまだ準タイトルで、大山王座だった。つまりここで大山王将が王位を奪取すると58歳にして二冠となり、タイトル数のトップが移動する。将棋界注目の大一番だった。
将棋は大山王将の三間飛車に、中原王位は天守閣美濃。中盤は例によってごちゃごちゃした戦いになり、抜群に面白い。藤井猛九段の解説で聞いてみたいところだがそれはともかく、将棋は大山王将がわずかに駒得ながら、中原王位も厚みを築き、やや先手よしの局面で第1図を迎えた。

ここで中原王位の期待手は△3六歩。以下▲同桂△同桂▲同玉△4四桂と進めば、後手十分の形勢になる。
しかし現実は歩切れで、ここで中原王位に名手が出た。

第1図から△9八と!(第2図) 歩を取りに行ったのだ。これに▲9六歩は△9七とでやがて取られる。よって大山王将は▲6四歩と垂らしたが、中原王位は△3三桂と跳ねて全軍躍動。
さらに中原王位は予定通り歩を入手し△3六歩を実現。以下も手厚い攻めで薄氷の防衛を果たしたのだった。
中原十六世名人の将棋は攻めに手厚く、アマが勉強するには格好の教材である。将棋が強くなりたかったら、中原十六世名人の将棋を並べるとよい。
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大山の名局・12

2023-07-26 23:46:04 | 名局
きょう7月26日は、大山康晴十五世名人の命日である。1992年(平成4年)のことだから、もう31年も経ってしまった。
当時私は、新卒で入った会社をリストラされ、つかの間のモラトリアムを北海道旅行に充てていた。7月26日、旭川の地からオヤジに定時電話をかけると、オヤジが話の最後に「あと、大山が死んだ」と、散文的に言った。いまだったらスマホで一発だが、当時はこんな感じで最新ニュースを入手したのだ。
私は、とうとうこの日が来てしまった、と思った。6月に棋聖戦60期のパーティーがあり、棋聖16期の大山十五世名人も参加したが、げっそりと頬がこけていた。その後しばらくして、大山十五世名人入院。もう、何があってもおかしくないと、覚悟を決めていたのだ。

さて、命日恒例の「大山の名局」だが、昨今はほとんどの棋戦が、記譜の全譜掲載をNGにしている。そこで、終了した棋戦から選んでみた。
これでクレームがつくようなら、来年からは「大山の名手」に改題するしかない。いや、それまでこのブログが続いているかどうか……。

1978年(昭和53年)8月18日
第5期名将戦 本戦2回戦
▲八段 米長邦雄
△十五世名人 大山康晴

▲7六歩△3四歩▲2六歩△4四歩▲4八銀△3二銀▲6八玉△4二飛▲7八玉△6二玉▲5六歩△7二玉▲9六歩△9四歩▲5八金右△8二玉▲7七角△4三銀▲8八玉△7二銀▲5七銀△5二金左▲2五歩△3三角▲9八香△6四歩▲9九玉△7四歩▲6六銀△6三金▲6八角△2二飛▲8八銀△8四歩▲3六歩△5四歩▲7九金△7三桂▲4六角△4五歩▲3七角△4四銀▲7五歩△8三銀▲6八金寄△7二金▲7四歩△同銀▲7七金△5五歩▲7六金△8三銀▲5五歩△4六歩▲同歩△6五歩▲同銀△5五銀▲4五歩△4六歩▲5四歩△4七歩成▲2六角△5二歩▲7四歩△6五桂▲同金△6四銀打▲7五桂△6五銀▲6三桂成△同金▲7三金△同金▲7一角成△同玉▲7三歩成△8二金▲7八飛△7六桂▲6三金△7四金▲7六飛△同銀▲8三と△同金▲8六桂△7三飛(図)▲6二銀△8二玉▲7三金△同金引▲6一飛△7二金打▲7三銀成△同金寄▲7四歩△6三金寄▲9五歩△6二銀▲9四歩△9二歩▲7五金△6七銀成▲6八歩△5七角▲6五金△5六銀▲6七歩△6五銀▲6六銀△同銀▲同歩△同角上▲7八金△8五歩▲9三銀△同歩▲同歩成△同角▲同香成△同角成▲5五角△6四歩▲9四歩△9五香▲9七桂△7五馬▲2二角成△7一金打▲2一飛成△8六歩▲1一馬△6六桂▲8五香△同馬▲6六馬△7五銀▲7七桂△7四馬▲7五馬△同馬▲8五飛△8四角▲9三銀△同香▲同歩成△同玉▲9五飛△同角▲9六香△9四香▲8五桂右△8三玉▲6七桂△6六馬▲7七香△6九飛▲7九歩△8七歩成
まで、160手で大山十五世名人の勝ち。

「名将戦」は週刊文春主催で、1973年から1987年まで開催された。記譜は当然「週刊文春」に載り、見開き2ページで1局が完結していた。
当時大山十五世名人は55歳。この年の2月に虎の子の棋聖を失い再度の無冠になったが、まだまだトップグループに君臨していた。
対する米長八段はA級8期目の35歳。途中名人挑戦もあり、中原誠名人をあと一歩まで追い詰めたが、ここまで棋聖1期のみに甘んじていた。
将棋は米長八段の居飛車に、大山十五世名人の四間飛車。と、米長八段は穴熊に潜る。
5~7筋からごちゃごちゃした戦いになり、米長八段の攻め、大山十五世名人の受け、という展開になった。
米長八段は飛車を切り飛ばし、返す刀で▲8六桂。この金取りが厳しく、米長八段は優勢を意識した。
ところが大山十五世名人は涼しい顔で△7三飛!(図)

このあたりの状況を、米長八段の著書「米長の将棋2 居飛車対振飛車・下」(MYCOM 将棋文庫DX)182ページから引用しよう。
「私の攻めが決まったかに見える局面である。
ところが、平然と△7三飛と打たれた。
これは夢想だにしなかった。▲6二銀が見えているだけに気がつかない筋である。しかも飛車を受けだけに手放すのだからなおさらだ。
大山十五世名人に受けの妙手は数多いが、△7三飛も歴史に残る手であろう。」
以下も難しい将棋は続くのだが、160手まで大山十五世名人が勝った。両雄らしいごちゃごちゃした戦いで、これぞ将棋と思う。
令和の現在、こうした将棋が見られなくなったのは寂しい。
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