一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

記憶は書き換えられる(第2話)「再会」

2020-08-06 00:56:22 | 小説
封を開けると、「東急89駅小さな旅すたんぷポン!」というスタンプ帳が入っていた。同封されていた手紙を読むと、それは奇妙な内容だった。
要約すると、夏子さんの友人が東急89駅のスタンプラリーをやりたくなったのだが、本人は遠くに住んでいて、それができない。そこで夏子さんが「代押し」を頼まれたのだが、彼女も南足柄市住まいでやはり遠い。
それで夏子さんが私に、代わりにやってくれませんか? と依頼してきたのだ。
「東急89駅小さな旅すたんぷポン!」はもちろん東急グループの企画で、期間中、駅に設置された記念スタンプを全部押すと、認定証と記念プレートがもらえるというものだった。しかしこのスタンプ帳、イラストが子供向けで、とてもいいオトナがやるものではない。
私はやや肩透かしを食ったが、夏子さんから連絡があったことはうれしかった。私の脳裏に、夏子さんの胸が浮かぶ。いや、すべてが浮かぶ。私は夏子さんが好きだったから、一も二もなく引き受けたいと思った。
でも……と思う。この類の企画は、自分がその場に行って押すから記念になるのであって、代押しで記念品を入手しても、何の価値もないのではないか?
だが私もほれた弱みである。私は東急沿線へいそいそと出掛けると乗降を繰り返し、子供たちの列に交じり、各駅でスタンプを押した。
ただ、1駅だけは残しておいた。私は夏子さんに手紙を書き、「これは夏子さんと私で押しませんか?」と提案した。これで夏子さんが東京に出てきてくれれば、デートすることもできる。
夏子さんも快諾し、それは7月10日(日)の夜と決まった。だがこの日は、私にとって別の意味で、勝負の1日だった。
すなわち、私は「角館の美女」が忘れられず、あれから6年近く経って、ついに郁子さんの実家に出向くことにしたのだ。それが7月3日(日)だった。私は彼女の実家にたどり着き、お母さんに会えた。お母さんとはじっくり話ができ、私は郁子さんの生年月日や、ここの電話番号を教えてもらったのだ。
だが肝心の郁子さんはすでに家を出ていて、親子の仲もうまくいっていなかった。彼女の現住所も、教えてもらえなかった。ただ、「あなたから何か送りたいものがあれば、それを転送します」とは言われた。
私は彼女をモデルにした小説を執筆していたので、彼女への熱意を表すため、その小説を直接届けることにした。それが翌週の7月10日だったのである。
だが10日は散々だった。今度はお父さんが出てきたが、お父さんは目が不自由でサングラスを掛けており、私は不審者扱いされ、どやされた。まったく聞く耳を持ってもらえなかった。前週のお母さんとは180度対応が違い、私は落胆した。
その帰途、私は夏子さんと会う羽目になったのである。当日、彼女とはどこで会ったか憶えていない。ただ、新幹線から降りて10分もしないうちに会った記憶がある。上野だったのだろうか。
1年振りに会う夏子さんはかわいらしかった。紺のスーツ姿も似合っていたが、胸が強調されていないのが残念だった。
そんな夏子さんは開口一番
「大沢さん、怖い顔してる」
と言った。
私は、これから女性に会うからといって鼻の下を伸ばす男ではないと、硬派を気取ったのだ。だが半分は、郁子さんのお父さんに叱責されたことで、不貞腐れていたのかもしれない。
私たちは東急の駅で、最後のスタンプを押した。
次は、事務所に行って手続きである。スタンプラリー帳を見せると、記念プレートと、認定証をくれた。認定証は割としっかりしたもので、B5版くらいあった。氏名の欄には、「大沢夏子」と書いてもらった。ふたりで最後のスタンプを押したからだが、私は、夏子さんがこの名字になりますように、との祈りを込めたものだった。
だが夏子さんは、そのスタンプラリー帳と記念プレートを、私にくれると言った。
いやいや、これを最初の依頼人に渡すのが目的だろう? あれ?
……もしやこのスタンプラリーは、夏子さんが私に会うための口実だったのか? そういえば、この認定証も、別人の名前を書いてしまった。これじゃあ友人に差し上げるものがない。
仮に口実だったとしても、私が苦労して集めたスタンプである。そこはやはり記念として、彼女に収めてもらいたかった。
私たちは居酒屋へ行った。ずいぶん解放感のある店で、室内が明るかったことは憶えている。
夏子さんは私の左に座り、私たちはもつ鍋を頼んだ。当時はこのメニューが流行っていたのである。私たちは生ビールで改めて再会を祝し、乾杯した。
ここで話した内容はほとんど憶えていない。ただ行きがかり上、私が「角館の美女」のことを話した可能性は高い。いまここで生身の女性と逢っているのに、幻の美女を求めて、2週連続で角館に出向いた……。これでは夏子さんも、いい気持ちはしなかっただろう。
だが私は、寝屋川市の音田真知子さんと会った時も、この話をした気がする。私はこの辺の女性心理が全然読めなかった。
夏子さんは現在どこかの会社の営業部員で、ふだんはクルマに乗っているとのことだった。昼食は、大学の食堂で摂ることが多い、と言った。
ちなみに私はといえば、1994年7月当時は叔父のネジ工場に勤めていたが、会社の経営不振が顕在化し、私はこの月をもって辞めることになっていた。まさか私は、無職になることまでしゃべったのだろうか……?
夏子さんがこちらを見ては、にっこり笑う。それは本当に、かわいらしかった。それは26年経ったいまでも、はっきりと私の脳裏に残っている。
(夏子さんは、付き合っている男性はいるんですか?)
この言葉が本当に、喉のここまで出かかった。だが、「Yes」の答えが怖かった。
また「No」と返ってきたら、私は次の言葉を言えるのか?
「僕と正式に付き合ってください」
と。そしてそこで「No」と言われたらどうするのか。せっかくここまでいい雰囲気で来たのに、私がこの先の発展を求めることで、ふたりの仲がギクシャクしたら、それは早まったことになる。
私はこの2年前、職場の同僚に告白し、バッサリと振られていた。あの屈辱を味わうのは、もうイヤだった。
さらに書けば、このとき私の脳裏には「角館の美女」が支配していた。私のキャパシティでは、同時に2人の女性を追いかけることはできなかった。それに私は今月、無職になる。「無職」と「デキル営業部員」とでは、立場が違う。私は告白できるステージに登っていなかったのだ。
そもそも、私が夏子さんの住所を知れたのは、旅先での青年の配慮によるものだった。それを私が別件で利用していいのかという、妙な逡巡もあった。
焦ることはない。私が夏子さんに交際を申し込むのは、あと1、2回デートしてからでいいと思った。
彼女が帰る時間になった。南足柄市は、御殿場線だろうか。小田急で行っても、かなりかかる。私は夏子さんの切符を買おうとしたが、彼女は断り、自分で買った。
電車に乗る夏子さんを見送りながら、次はいつ会えるだろうと思った。
だが結果的に、私が夏子さんに会うのは、これが最後になった。
(つづく)
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