木村家べんご志(木村晋介)が高座に上がった。べんご志の本業は弁護士で、かつ将棋ペンクラブの会長でもある。しかし私にはもはや、べんご志が将棋好きの落語家にしか見えない。
「皆様ようこそお越しくださいました。(だいぶ時間も経ちましたが)もう少しの辛抱でございます」
と、早くも笑いを取る。べんご志といえば前回の「片棒」が抱腹絶倒の名演だったが、観客はあれ以上の笑いを求めるわけで、今回のハードルは高い。
べんご志は何気ないマクラから義太夫を唄う。
「ところが専門家に言わせると、『アンタのは義太夫じゃない』らしいですナ」
また私たちがクスリと笑う。この辺の誘導はさすがである。今回の演目は「寝床」。
ある大家の旦那は義太夫が好きで、すぐヒトに語りたかるが、下手クソで人気がない。旦那はある日義太夫の会を催し、丁稚の定吉に、ほうぼうに呼びに行かせた。
ところが長屋の店子は何やかやと理屈をつけて、義太夫行きを断る。その他知り合いも同様である。
話はまだまだ続くのだが、べんご志の落語では、多くの客が来て当然とする旦那と、店子連中の意を察し苦悩する定吉とのやりとりにフォーカスを当てる。
途中、長照寺の若住職も登場する。昨年もやったが、これが「長照寺バージョン」で、観客もよろこぶわけだ。
べんご志は声が力強く通る。落語家の玄人と素人の違いはいろいろあるが、私は声の出し方だと思う。同じ声量でも、玄人のそれは腹に響くように力強い。べんご志にはそれに近いものがある。今回も身振り手振りを交えて、熱演である。
25分ほど演ったあと、後続のあらすじをサラッと述べて、終わりとなった。今回も前回に劣らぬ出来で、私は大いに感心した。ここまで上り詰めるのに、相当稽古を積んだのであろう。改めて思う。べんご志の本業は、なんなのだろう。
時刻は16時を過ぎた。ここからは別室で懇親会である。さらに長照寺の前の家では芋煮を振る舞われるそうで、これは私も昨年いただいたが、品のよい味で美味かった。こちらは無料だから、ケチな私としては、懇親会をパスして芋煮だけいただく手もあった。
と思ったのも、懇親会場は、知己がひとりもいなかったからである。まあこれは将棋ペンクラブとは何の関係もないので、当然そうなる。
部屋の隅でチョコンと待っていると、徐々にヒトが集まってきた。その入りは定員の七分くらいだろうか。その一隅に木村会長、美馬和夫氏を認めたので、そちらに移らせていただいた。
すると美馬氏の前に、どこかで見たような人がいた。
「ひょっとして、武者野先生ですか?」
昼に美馬氏から、昨年、武者野七段が来席していたことを教えられていたのだ。
私が言うと、白髪の男性がチョコンと頭を下げた。まさに、武者野勝巳七段だった。
「あ、大沢さんは初めて……」
と美馬氏。
「はい、私はまだお会いしたことがなくて」
「ああそう。……先生、こちらが大沢さん、将棋が強い人で」
そんな紹介のされ方は、ちょっと恥ずかしい。
湯川博士氏も合流し、私の周りは豪華なメンバーとなった。将棋の集まりに顔を出す時、周りが有名人ばかりで圧倒されることがある。私が将棋を知らなければおよそ会えなかった方々で、自分がここにいていいのかと困惑することもある。
乾杯。前にいるのは木村氏である。
「先生、お疲れ様でした。昨年にも増して、いい出来でした。あの噺はどこかで演られたんですか」
「うん、おととい演った。来月の3日も演る。あと12月もひとつ入ってるよ」
「……」
先生、それじゃマジで、落語家が本業じゃねぇスか。「でも今年の噺は最後で唐突に終わった感じがするんですけど……」
「あれは大家が義太夫を開くことになって、そこでまたいろいろあるんだけど、長くなるよね。私たちアマチュアは25分前後で終わらせたいところがあって、要はどこの部分を話すか、だよね。それで、今回は大家と定吉とのやりとりを取り上げた、というわけ」
なるほど、と思う。
「武者野先生は、千日手規約を変えた方ですもんね」
私は武者野七段に話を振る。
将棋の千日手は現在「同一局面4回出現」だが、昔は「同一手順3回」だった。だが後者のルールだと、例えば途中に「銀成」と「銀不成」を混ぜることで、半永久的に別手順が出来上がってしまう。
実際1983年のA級順位戦・▲米長邦雄二冠VS△谷川浩司八段戦は、終盤で9回も同一局面が現れたが、手順の相違で千日手にはならなかった。
また1979年の十段戦、▲大山康晴十五世名人と△加藤一二三九段との一戦でも、終盤で似た局面が延々と進行した。これら2局は結着が着いたのだが、負けた谷川八段はプレーオフを戦う羽目になり、大山十五世名人は最終的に十段リーグを陥落した。
これらの不備を一掃したのが武者野七段の提案だったわけだ。
「あの提案はね、理事会を1ヶ月半くらいで通過しました」
それくらいのスピード可決ということは、理事会も改良案の良さを認めたのだ。
武者野七段は美馬氏と語り合っている。しかし私の耳では、武者野七段の声が聞えない。私の長年の聴力検査では、人の話し声程度は聞こえるはずなのだが、おかしい。私の耳鳴りが大きいのと、武者野七段のポソポソしゃべりが、それを阻害しているのだろうか。
「先生は、どういう経緯で観戦記者になられたんですか?」
自分で聞いときながら、私は武者野七段の声がほとんど聞き取れない。で、私はかねてからの禁断の質問をしてみた。
「以前、(読売新聞文化部の)山田(史生)さんに、武者野先生の原稿が遅いって聞いたんですけど……」
すると武者野七段がコクリと頷いたので、私は大笑いしてしまった。
バトルロイヤル風間氏が来る。
「いやバトルさん、今回もお見事でした。あれは素晴らしい企画でしたねえ」
「あれは老人ホームで、50年前の似顔絵を描いたら好評で、湯川さんに勧められて始めたんだ」
「そうですか。とくに2人目の人、スリムにしたアゴのあたりなんか、私は見たことないけど、そっくりだと思いましたよ。天才ですねぇ……天才」
そう褒められて、バトル氏も満更ではないふうだった。
その向かいに和光市市長が来て、ふつうの「似顔絵描き」が始まった。
私はバトル氏の横にいるから、浦沢直樹の「漫勉」じゃないけれど、その「制作過程」が手に取るように見えた。現在、眉毛と目と鼻が出来上がっている。ここだけでもう、市長とそっくりなのだ。バトル氏は「勝った」と思っているはずだ。
「眉毛から描くなんて、さいとう・たかをみたいじゃないですか!」
ちなみに私の場合は、鼻筋を描き、右目、左目、左眉、右眉……と描いていく。
市長の似顔絵が出来上がった。もちろんそっくりだった。
私は東京在住なので、一足早く失礼させていただく。表へ出ると、真っ暗だった。昨年は帰ろうとしたところでどなたから芋煮に誘われたのだが、今年はいない。私も早く帰宅したかったので、そのまま駅に向かった。
さてこの大いちょう寄席、来年に第3回もあるのだろうが、そこに行くようでは、私も本当にヤバい。
「皆様ようこそお越しくださいました。(だいぶ時間も経ちましたが)もう少しの辛抱でございます」
と、早くも笑いを取る。べんご志といえば前回の「片棒」が抱腹絶倒の名演だったが、観客はあれ以上の笑いを求めるわけで、今回のハードルは高い。
べんご志は何気ないマクラから義太夫を唄う。
「ところが専門家に言わせると、『アンタのは義太夫じゃない』らしいですナ」
また私たちがクスリと笑う。この辺の誘導はさすがである。今回の演目は「寝床」。
ある大家の旦那は義太夫が好きで、すぐヒトに語りたかるが、下手クソで人気がない。旦那はある日義太夫の会を催し、丁稚の定吉に、ほうぼうに呼びに行かせた。
ところが長屋の店子は何やかやと理屈をつけて、義太夫行きを断る。その他知り合いも同様である。
話はまだまだ続くのだが、べんご志の落語では、多くの客が来て当然とする旦那と、店子連中の意を察し苦悩する定吉とのやりとりにフォーカスを当てる。
途中、長照寺の若住職も登場する。昨年もやったが、これが「長照寺バージョン」で、観客もよろこぶわけだ。
べんご志は声が力強く通る。落語家の玄人と素人の違いはいろいろあるが、私は声の出し方だと思う。同じ声量でも、玄人のそれは腹に響くように力強い。べんご志にはそれに近いものがある。今回も身振り手振りを交えて、熱演である。
25分ほど演ったあと、後続のあらすじをサラッと述べて、終わりとなった。今回も前回に劣らぬ出来で、私は大いに感心した。ここまで上り詰めるのに、相当稽古を積んだのであろう。改めて思う。べんご志の本業は、なんなのだろう。
時刻は16時を過ぎた。ここからは別室で懇親会である。さらに長照寺の前の家では芋煮を振る舞われるそうで、これは私も昨年いただいたが、品のよい味で美味かった。こちらは無料だから、ケチな私としては、懇親会をパスして芋煮だけいただく手もあった。
と思ったのも、懇親会場は、知己がひとりもいなかったからである。まあこれは将棋ペンクラブとは何の関係もないので、当然そうなる。
部屋の隅でチョコンと待っていると、徐々にヒトが集まってきた。その入りは定員の七分くらいだろうか。その一隅に木村会長、美馬和夫氏を認めたので、そちらに移らせていただいた。
すると美馬氏の前に、どこかで見たような人がいた。
「ひょっとして、武者野先生ですか?」
昼に美馬氏から、昨年、武者野七段が来席していたことを教えられていたのだ。
私が言うと、白髪の男性がチョコンと頭を下げた。まさに、武者野勝巳七段だった。
「あ、大沢さんは初めて……」
と美馬氏。
「はい、私はまだお会いしたことがなくて」
「ああそう。……先生、こちらが大沢さん、将棋が強い人で」
そんな紹介のされ方は、ちょっと恥ずかしい。
湯川博士氏も合流し、私の周りは豪華なメンバーとなった。将棋の集まりに顔を出す時、周りが有名人ばかりで圧倒されることがある。私が将棋を知らなければおよそ会えなかった方々で、自分がここにいていいのかと困惑することもある。
乾杯。前にいるのは木村氏である。
「先生、お疲れ様でした。昨年にも増して、いい出来でした。あの噺はどこかで演られたんですか」
「うん、おととい演った。来月の3日も演る。あと12月もひとつ入ってるよ」
「……」
先生、それじゃマジで、落語家が本業じゃねぇスか。「でも今年の噺は最後で唐突に終わった感じがするんですけど……」
「あれは大家が義太夫を開くことになって、そこでまたいろいろあるんだけど、長くなるよね。私たちアマチュアは25分前後で終わらせたいところがあって、要はどこの部分を話すか、だよね。それで、今回は大家と定吉とのやりとりを取り上げた、というわけ」
なるほど、と思う。
「武者野先生は、千日手規約を変えた方ですもんね」
私は武者野七段に話を振る。
将棋の千日手は現在「同一局面4回出現」だが、昔は「同一手順3回」だった。だが後者のルールだと、例えば途中に「銀成」と「銀不成」を混ぜることで、半永久的に別手順が出来上がってしまう。
実際1983年のA級順位戦・▲米長邦雄二冠VS△谷川浩司八段戦は、終盤で9回も同一局面が現れたが、手順の相違で千日手にはならなかった。
また1979年の十段戦、▲大山康晴十五世名人と△加藤一二三九段との一戦でも、終盤で似た局面が延々と進行した。これら2局は結着が着いたのだが、負けた谷川八段はプレーオフを戦う羽目になり、大山十五世名人は最終的に十段リーグを陥落した。
これらの不備を一掃したのが武者野七段の提案だったわけだ。
「あの提案はね、理事会を1ヶ月半くらいで通過しました」
それくらいのスピード可決ということは、理事会も改良案の良さを認めたのだ。
武者野七段は美馬氏と語り合っている。しかし私の耳では、武者野七段の声が聞えない。私の長年の聴力検査では、人の話し声程度は聞こえるはずなのだが、おかしい。私の耳鳴りが大きいのと、武者野七段のポソポソしゃべりが、それを阻害しているのだろうか。
「先生は、どういう経緯で観戦記者になられたんですか?」
自分で聞いときながら、私は武者野七段の声がほとんど聞き取れない。で、私はかねてからの禁断の質問をしてみた。
「以前、(読売新聞文化部の)山田(史生)さんに、武者野先生の原稿が遅いって聞いたんですけど……」
すると武者野七段がコクリと頷いたので、私は大笑いしてしまった。
バトルロイヤル風間氏が来る。
「いやバトルさん、今回もお見事でした。あれは素晴らしい企画でしたねえ」
「あれは老人ホームで、50年前の似顔絵を描いたら好評で、湯川さんに勧められて始めたんだ」
「そうですか。とくに2人目の人、スリムにしたアゴのあたりなんか、私は見たことないけど、そっくりだと思いましたよ。天才ですねぇ……天才」
そう褒められて、バトル氏も満更ではないふうだった。
その向かいに和光市市長が来て、ふつうの「似顔絵描き」が始まった。
私はバトル氏の横にいるから、浦沢直樹の「漫勉」じゃないけれど、その「制作過程」が手に取るように見えた。現在、眉毛と目と鼻が出来上がっている。ここだけでもう、市長とそっくりなのだ。バトル氏は「勝った」と思っているはずだ。
「眉毛から描くなんて、さいとう・たかをみたいじゃないですか!」
ちなみに私の場合は、鼻筋を描き、右目、左目、左眉、右眉……と描いていく。
市長の似顔絵が出来上がった。もちろんそっくりだった。
私は東京在住なので、一足早く失礼させていただく。表へ出ると、真っ暗だった。昨年は帰ろうとしたところでどなたから芋煮に誘われたのだが、今年はいない。私も早く帰宅したかったので、そのまま駅に向かった。
さてこの大いちょう寄席、来年に第3回もあるのだろうが、そこに行くようでは、私も本当にヤバい。