一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

小説「運命の端歩」

2021-03-18 00:43:56 | 小説
昨年夏に将棋ペンクラブ幹事のA氏と飲むことになったとき、A氏から「大沢さんが過去に投稿した作品を、自ブログに転載したい」との申し出があった。
それはありがたいことで、私は作品名を聞き、ハードディスクを漁った。しかしなぜか目的の原稿がない。A氏には「そのうち送信するよ」と言ったが、怠惰な私は、そのままほっぽらかしにしてしまった。
ところが今年に入り、A氏のブログで今回のやりとりが書かれ、私は苦笑した。A氏はまだ、この転載を目論んでいたのだ(言うまでもないが、A氏のブログはブックマークしている)。
私は作品名を確認するべく、当時のメールを見る。だが、メールでやりとりをしたはずなのに、そのあたりの記述がなかった。
実は、A氏がどの作品を欲しているのか、忘れてしまったのだ。恥を忍んでA氏にメールで聞くと、「○○ですよ!」と教えてくれた。
ああこれか。これは大昔、将棋ペンクラブ関東交流会でA氏と近くの席になったとき、A氏が唐突に私の作品のあらすじを述べるので、「それはオレが書いたやつだ」と言った。
「ええ、本当ですか!?」
A氏は大いに驚き、そこからA氏と私は親しくなったのである。
私は頭をかきながら、再度ハードディスクを調べる。だけどやっぱりなかった。だが、我がブログを検索すると、何と2011年11月4日~11月6日に転載していた。私のほうが先に、ブログで紹介していたのだ。
私はこの文章をハードディスクに戻し、多少の加筆訂正を行った。作品は生き物だから、いつ読んでも修正箇所は見つかる。ただここが難しいのだが、この初出は2003年で、私は30代。その時期にしか書けなかった文体みたいなのがあり、過度な訂正は当時の雰囲気を壊すことにもなる。
修正はほどほどに留め、A氏に送信したのだった。
かくしてA氏は自ブログで拙作を紹介してくれたのだが、そんなに反響はなかったようである。ヒトの評価はまちまちなので、この結果はしょうがない。
さて今回はこの拙作を我がブログにも、再掲しようと思う。約10年前に載せたものを、同じブログに再掲するとは、前代未聞であろう。
この作品は分量的にも3日分が適当なのだが、どうせ分けても、熱心な読者は2011年のブログに飛ぶだろう。よって少々長いが、一気に載せることにする。
なお転載に関しては、幹事A氏の了承を得ています。なんだかあべこべだが。


「将棋ペン倶楽部」2003年春号(会報39号)掲載

運命の端歩    大沢一公

あれは私が黒縁から銀縁のメガネに替えたころだから、中学2年の夏だったと思う。
当時ウチの近所のマンションに、昭和44年に亡くなった祖父の、姉夫婦が住んでいた。当然ウチとの付き合いも深く、奥方はよく、家に遊びに来ていた。
旦那さんは、かつて区議会の議長も務めたほどの人物で、近所ではちょっとばかり名の知られた存在だった。家にある名刺を見たことがあるが、たいそうな肩書がいくつも並び、圧倒されたものだ。ただ父は、その「肩書羅列」を快く思っていなかった。
ご夫婦とも80歳近い高齢だったがいたって元気で、生年月日がわずか2日違いのおふたりが、揃って100歳を迎えることを、私は信じて疑わなかった。
そしてこの旦那さん――おじさんが無類の将棋好きで、父をときどき自宅に招いては、将棋を指していた。
いっぽうの私は、いよいよ将棋を本格的に趣味にしだしていて、駅前の将棋センターに通って腕を磨いてはいたが、300円という席料は中学生の身分では大きく、月に2度もお邪魔できればいいほうだった。
むろん「将棋は文化」なので、父が一緒に行くときは私の席料も負担してくれたが、所詮これは遊びである。小遣いが少ないのは弟も一緒なのに、私ばかりが優遇されるわけにはいかなかった。
父はおじさんとの将棋も続けていたが、帰宅すると父は決まって、おじさんのマナーが悪いとこぼした。曰く、立派な駒台があるにもかかわらず持駒を握る、平気で待ったを繰り返す、形勢が悪くなってくると暴言を吐く……などだった。たしかにそれは、ホメられた言動ではなかった。父はじっくり考えるタイプなので、早指しのおじさんは、イライラしていたのかもしれない。
「じゃあボクが代わってもいいよ」
父はあまり私と将棋を指したがらなかったので、おカネがかからず将棋を指せる手段を求めていた私は、ある日父にそう切り出した。
父は驚いたふうだったが、おじさんを持て余していた父には渡りに船の申し出だったらしく、私の希望は、簡単に受け容れられた。
ある日の日曜日、いつものように電話で呼び出された父は、私を伴い、おじさんのマンション宅に出向いた。
入室すると挨拶もそこそこに、父が私を後ろに控えて一局指し始める。
おじさんは、頭はすっかり禿げて、短い白髪がポツポツ生えている程度。腫れぼったい目をしていて唇が分厚く、頬がたっぷりとたるんでいた。耳が遠いこともあってか声がやたら大きく、棋士のイメージでいうと、最晩年の角田三男八段、という感じだった。
使用している将棋盤は、六寸は優にあり木目も美しく、桐箱の裏には木村義雄十四世名人の揮毫がしたためてあった。駒台は四本脚で飴色の光沢を放っており、盤と合わせて、相当な名品であることが見てとれた。
駒のほうも銘の入った掘り駒で、数十万はする逸品だと、一目で分かった。
その将棋が終わると、父が
「実はせがれも将棋が好きでして、今後はアタシの代わりにせがれを鍛えてやってもらえませんか」
とおじさんに言った。
おじさんはびっくりしたふうだったが、まあおじさんとしては、将棋を指せれば相手は誰でもいいわけで、父の申し出は即、快諾された。
やがて父が御役御免と退室し、いよいよおじさんと私の勝負が始まった。
父の長考にケチをつけるだけあって、さすがにおじさんは早指しだった。もっとも早指しだったら、私も負けてはいない。私も数秒でポンポン指した。
「おめえはオヤジと違って早指しでいいや。おめえのォ、オヤジさんはァ、考える時間がァ、長くていけねえや」
記念すべき1局目が終わると、おじさんが、べらんめえ調のカン高い声で言った。
この勝敗は忘れたが、おじさんは思っていたより強い、と感じた記憶があるので、恐らく私が負けたのだろう。
早指し戦なので、もちろんまだまだ指す。勝ったほうの傍らにマッチ棒を置き、負けたほうは次局で先番に回る。マッチ棒の数イコール勝数というわけだ。
こうして私たちは、どんどん将棋を指していった。
おじさんの将棋は単純明快で、戦法は原始中飛車と原始棒銀、このふたつだけだった。
昭和41年に池田書店から発行された大山康晴名人著「将棋の受け方」には、これらの戦法の撃破指南が真っ先に書かれていたから、当時はこれらがよく指されていたのだろう。
しかしいまから20年前の昭和50年代では、すでにアマ棋客の戦法は洗練されており、このような奇襲戦法の使い手はいなかった。
ところがおじさんは、かくのごとくである。しかも原始中飛車か原始棒銀のどちらかならまだしも、両方得意にしている人がいることに、私は強い関心を持った。
さらにこの二大奇襲戦法、最初はナメてかかっていたが、意外に奥が深い。原始中飛車の撃退法は先の本で勉強済だったが、やはり実戦は生き物だ。銀交換後の△5七銀の打ち込みに、▲6七金△6八銀成▲同金上△5七銀▲5八歩△6八銀成▲同玉と進めて、ここまでは本に書いてあるとおり、私が指し易くはなる。
ところがそこからおじさんの左桂がポンポン跳ねてきたり、端に角を覗かれたり、右銀が応援にきたりと、なかなかおじさんの攻めが振りほどけないのだ。
原始棒銀も然りで、当時私は四間飛車を愛用していたが、△8四銀から△7五歩の攻めが、分かっていても受けられなかった。
まあそれも当然で、当時の私は、「攻められた筋に飛車を回す」という受け方を知らず、飛車をずうっと6筋に据えて戦っていた。これでは攻め潰されても仕方がない。当時の私の棋力は、その程度だったのである。
それに考えてみれば、いくら奇襲戦法とはいえ、おじさんも目立った悪手を指しているわけではないので、そう簡単に優劣が決まるものでもなかったのだ。
同時に私は、奇妙な感慨に捉われてもいた。
将棋は子供からお年寄りまで、ハンデなしで戦いができる稀有な競技である。おじさんも、戦前から将棋を指していたはずだ。
そしてその将棋もいまのように、居玉のまま中飛車や棒銀で、バンバン攻める将棋だったに違いない。
その将棋が半世紀余の時を越え、60歳以上も年下の私を相手に、再現されている――。
まるでおじさんがタイムマシンで現代にやって来た感覚に陥り、私は何か、不思議な気持ちになった。
結局この日は夕方まで20局近く戦い、私の4割程度の勝率だったと記憶する。当時父の棋力が1級か初段、私がそれよりやや強い程度だったから、おじさんの棋力も、初段は十分にあったことになる。
だが私は、お年寄り相手なら勝ち越しは当然と考えていたから、この成績は正直言って不満だった。でも、とても楽しい時間を過ごすことができた。
帰り際、
「おめえはなかなか強えや。初段、初段の力はあるな」
と、おじさんが言った。「来週もまたやろう――」
とにもかくにも私はこの日、おじさんの新しい対局相手に、合格したようであった。
次の日曜日、おじさんから私に、将棋の電話があった。もちろん、NHK杯将棋トーナメント戦を観たあとのお誘いである。私は二つ返事でお邪魔した。
前回はしくじったが、今回は私も負け越すわけにはいかない。私も弱いなりに考え、棒銀のほうも対処法を見出していた。
△8四銀から△7五歩▲同歩△同銀▲7六歩に、△8六歩から8筋を破られてしまうわけで、それなら予め8筋に備えておけばいい。
そこで私は、四間飛車から向かい飛車に作戦を変更した。これなら前述の△8六歩にも、堂々と▲同歩と取れる。繰り返すが、△7五歩に▲7八飛と回る指し方を習得するのは、後のことになる。
素朴な▲8八飛作戦に窮したおじさんだったが、今度は△9五歩から攻めてきた。しかしそれこそ無理攻めで、私は堂々と▲同歩と応じる。以下△同香▲同香△同銀に、私は澄ました顔で▲同角と取ってしまう。と、おじさんが慌てて待ったをしたのが可笑しかった。
父が嫌悪していた「待った」が出たわけだが、私はそれほど憤りを感じなかった。待ったが終盤の一手違いという局面ならともかく、たいていが単純な見落としだったし、仮に終盤だったとしても、おじさんが待ったをしたときにはすでに筋に入っていて、1手や2手のプレイバックでは、とうてい形勢を覆すことはできなかったからだ。むしろおじさんの待ったが出ると、一本取ったようで愉快だった。
また、おじさんが常に持駒を握っている件も、盤面と自分の持駒を見ればおじさんの持駒も分かるわけで、とくに不便は感じなかった。
さらに言葉遣いのひどさも、おじさんのべらんめえ口調がしわがれ声で増幅されて下品に聞こえるだけで、これも痛痒を感じなかった。
このときは、指し分け程度の成績だったと記憶する。
こうして日曜日の午後になると、おじさんに将棋を呼ばれる生活が定着した。
昼過ぎから夕方まで、将棋、将棋、将棋。お互い早指しだから、何局も指す。感想戦も一切しないので、負けを悔しがる暇もなく、すぐに次の対局を始めるという按配である。それを奥方が黙って見ている、という構図だった。たまに遅い昼食をご馳走になることがあったが、ご夫婦といっしょはちょっと、居心地が悪かった。
とにかく、時間が経つのを忘れるほど、おじさんとの将棋は、楽しかった。
とはいえ日曜日になってもこちらからは畏れ多く将棋のお願いはできないので、おじさんからの電話を待つばかり。しかしおじさんだって毎週自宅に居るわけではないから、私も待ちぼうけを食わされるときがある。
だが私が不在のときに、もしおじさんからお誘いの電話が来たらと考えると、外出することもできなかった。私にはおじさんとの将棋が、生活の柱になっていたのだった。
ところでこの頃、私の棋力は上がったのか。
先が見えているお年寄りと、伸び盛りの中学生では、同じ将棋を指していても、吸収する力が違う。
おじさんは角筋を違えるなど指し間違いが多いのが玉に瑕だったが、実戦で鍛えた賜物か終盤は妙な力があり、一通りの寄せ形は体が覚えている感があった。ただ攻め将棋だけに、逆に攻められると案外受けが脆かった。高齢ゆえ読み抜けも多く、また私のほうも終盤には自信があったので、序中盤で劣勢でも、最終盤で私がうっちゃる、という展開が多かった。「逆襲喰らっちゃった逆襲喰らっちゃった」が、おじさんの常套句になっていた。
また、若き日の大山少年が、升田幸三青年の強烈な攻めを受け続けて受けの力を蓄積していったように、私もおじさんの攻めを受けることで、いつしか手厚い将棋を体得していった。
手こずっていた原始中飛車にも、定跡の受けには誘導せず、金銀を手厚く盛り上げ、おじさんの攻めをいなしていった。
さらに棒銀の△7五歩には、飛車で7筋を受けるということも学習したので、それなら最初から7筋に飛車を振ればいいと、三間飛車や石田流も採用してみた。
そうしたらこれが図に当たって、連投したら14連勝した。私の棋力と勝率は、確実に上向きを続けていたのである。
ある日の対局のことだった。私の▲7六歩、おじさんの△3四歩に、私がうっかり▲7八銀と上がってしまい、△8八角成と角をタダで取られたことがあった。一言「角がタダだ」と言ってくれればいいのに、おじさんはそんな甘いことは言わない。何で勝っても勝ちは勝ち。貴重な1勝として、マッチ棒を獲得できるからだ。
よしそれなら、と私も指し継いだ。ところが将棋というのは恐ろしい。このどうしようもない将棋が、おじさんの楽観と私の猛追で、何と私が勝ってしまったのである。
「信じられん…」
投了後、おじさんが呆然とつぶやいた。
そしてこの一局が、どうやらターニングポイントになったようである。
この次の日曜日におじさんと指し、はじめの数局を私が全勝したときのことだった。
「おめえ、ためしに角を落としてみるか」
と、おじさんが提案してきたのだ。「あまりにもこう負けが込んできちゃ、指してても面白くねえや」
プライドの高いおじさんには屈辱の言葉だったに違いないが、意地を張って中学生の若造に負け続けることは、それ以上に屈辱的なことだったのだ。
むろん私に拒否する理由はない。こうして、おじさんとの初対局のときには夢にも思わなかった、私の駒落ちが実現したのだった。
平手から角落ちの手合いはハンデが大きそうに思えたが、指してみると案外いい勝負になった。おじさんが棒銀で来ても、目標となる角がいないので、攻めが空振りに終わるのだ。
また、地位が人を作るというが、上手を持つと将棋が強くなった気がして、ゆったりと局面を見ることができた。中原誠名人になった気分で手つきを真似したりすると、不思議といい手が浮かぶのだった。
そしてこの後おじさんと将棋を指すときは、はじめの数局を平手、以後は私が角を引くというスタイルが定着したのだった。
早いもので、おじさんとの初対局から、1年余りが経過した。対戦成績は、私が角を引いても、勝ち越しをキープしていた。
ところがこの時期、ある問題が静かに進行していた。このとき私は中学3年生。当然高校受験を控えていたが、日曜になるたび私が将棋を指しに行くので、母がヤキモキし始めたのだ。そろそろ受験勉強に専念しなさい、というわけである。
だが私は学校の成績は悪くなかったし、平日には学習塾にも通っていた。日曜日ぐらいは羽を伸ばしたかったのだ。いや、本当は休みの日こそ受験勉強をしなければならないのだが、私は当時から、ちょっと異質な考えをするところがあった。
だけど親の意向には逆らえない。そこで両親との話し合いをした結果、私が高校に合格するまで、おじさんとの将棋は中断することにした。後日父がその旨をおじさんに告げに行くと、おじさんも了解してくれたようである。
これでコトが丸く収まりよかったが、私が受験勉強に励んでいる間、おじさんに新たな好敵手ができて、私がお払い箱になったらどうしよう――。そんなことを、当時は本気で心配した。
翌年春、私は運よく志望校に合格した。この間は父が代理で将棋を指しに行ったこともあったが、おじさんには新たな好敵手も定着しなかったようで、私は再び、おじさんと将棋を指せる運びとなった。
ところが……。
そんな矢先の、ある日曜日のことだった。例によっておじさんに電話で呼ばれ、私はマンション宅に出掛けた。この日が結果的に、マンションを訪れる最後の日になろうとは、このときは夢にも思わなかった。
おじさんと数局戦ったところで勝敗が偏り、定跡どおり私が角を引いて、対局が再開された。
その何局目かで、事件が起きた。
その将棋は、序盤早々おじさんに悪手が出て、早くも私の必勝形となった。しかしその後、私の楽観とおじさんの追い上げで、あれだけ良かった将棋を逆転されてしまったのだ。私はかなり、アツくなっていた。
ところがおじさんも寄せをグズり、将棋は一手違いの終盤戦となった。
私がおじさんの玉に必至を掛けると、おじさんの王手ラッシュが始まった。私は丁寧に応接し、玉を1四まで逃げのびる。
もうおじさんの持駒は歩だけで、後続はない。▲1五歩打は、打ち歩詰めだ。よし、何とか猛追を凌いだ……と、勝利を確信した、そのときだった。
何とおじさんは、▲1五歩と打ってきたのである。
「お、おじさんこれ、打ち歩詰めですよ!」
私は興奮して叫ぶ。ところがおじさんの次の言葉は、私を慄然とさせるものだった。
「端の歩はいいんだ!」
何ィ!? バカな! 何を言いだすんだ!?
「そ、そんなルールはありませんよ! 打ち歩詰めはどの筋も禁止です!!」
私は再び叫ぶ。しかしおじさんも負けてはいなかった。
「いやいいんだ、端の歩は詰みなんだ!!」
私の主張に耳を貸さず、おじさんは妙な理屈を持ち出して、自分の勝利を主張してきたのだ。
端の打ち歩詰めは有効――。
ローカルルールならそんな決まりもあるかもしれない。しかし、打ち歩詰めはどの筋も禁止である。「待った」ならいくらでも許すが、勝手なルール変更は許せない。ましてや自分が勝ちの将棋を、負けましたと頭を下げるわけにはいかない。
いやこの将棋が、序盤から私の敗勢で、打ち歩詰め以外でもこちらが負けだったなら、私も穏便に済ませていただろう。
しかし本局は、一手違いの終盤である。しかも必勝の将棋が二転三転し、私も相当頭に血が上っていた。冷静さを失っていたのだ。おじさんだって、似たような心理状態だったと思う。
しばらく同じやりとりをしたが、埒が明かない。いままで、おじさんのマナーはひどかった。私もこれまで冷静に対処はしていたが、本当は心のどこかに、不満を溜めこんでいたのかもしれない。いよいよ逆上した私は、言ってはいけない言葉を、おじさんに吐いた。
「何だよ!! こっちはただでさえ角落ちで指してやってるのに、ヘボ将棋!!」
私はそう叫んで立ち上がると、呆然としている奥方の脇を抜け、マンションを飛び出した。言ってしまった! 言ってしまった! しかし、吐いた言葉はいまさら回収できない。私は帰宅の道すがら、早くも後悔の念に苛まれたが、もう遅かった。
帰宅後、この一件を家族に話すと、父は「お前だってヘボ将棋じゃねえか」と苦笑した。また母は「たかだか将棋のことで……」と呆れた。
以後、おじさんから将棋の誘いはパッタリとなくなり、結果的にあの一局が、おじさんとの最後の将棋になったのだった。
それから数ヶ月が経ち、私は高校2年生になった。おじさんとの後味の悪い別れ方は、しこりとして常に私の頭に残っていた。しかし意地でも私から謝るわけにはいかない。暴言を吐いたことは悪かったが、打ち歩詰めの件は、こちらに非はないのだ。
しかし落ち着かない私は、翌年の正月、おじさんに年賀状を出した。年頭の挨拶のあと、高校では将棋部の部長として頑張っています、と当たり障りのないことを書いた。
するとしばらくして、おじさんから返事が来た。その豪放な性格からは想像もつかない、綺麗な字だった。あるいは、奥方の代筆だったかもしれない。
年賀状には、型どおりの挨拶が書かれていた。だがそれだけで、私は十分満足だった。これで私は、自分自身の心に、ひとつの整理をつけたのだった。
それから1、2ヶ月経ったころだった。私が高校から帰ってくると、机の上に、湿布薬のビニール袋が置いてあった。中を開けると、1969年の黒革の手帳と、米長邦雄棋王の将棋の本が2冊入っていた。
手帳を開くと、週刊誌に掲載されていた大山十五世名人の詰将棋が貼られていた。肩書が永世王将や十段だったので、昭和48年から49年にかけての発表であろう。数えてみると、計35題あった。
そして米長棋王の著書は、「角換わり」と「振り飛車」の、「必勝定跡集」だった。
祖母に聞くと、珍しくおじさんが訪れ、これを置いていったのだという。だがスクラップによるお手製の詰将棋本は、本人の愛着も強いはずで、こんな貴重品を貰っていいものかどうか、私も戸惑った。
しかしおじさんは、私から年賀状を貰って、とても喜んでいたと人伝に聞いた。これらは、その御礼の意味もこめられていたのかもしれない。私は、ありがたく頂戴した。
昭和61年10月、私の祖母が闘病の末、死去した。現在は葬儀場でお通夜や告別式をやるのがほとんどだが、むかしは自宅で行うことも多かった。ウチももちろん後者で、おじさんには葬儀委員長をお願いした。
おじさんがウチに来るのは久しぶりだった。そして私とは、あの一局以来の再会となった。おじさんが弔辞を読み、葬式が終わり一段落すると、おじさんは私を見つけて、将棋やってるか、と言った。
私が、はいと答えると、ウン、ウン、とおじさんは言った。
その目は、あのときのことは水に流そうや、と語っているように思えた。そしてこれがおじさんとの、最後の対面になった。
その数年後、おじさん夫婦は静かにマンションを引き払い、田舎に居を移した。
平成4年4月16日、おじさんが亡くなった。享年92歳。その5年後の平成9年2月、奥方も97歳の天寿を全うした。夫婦そろっての100歳は叶わなかったが、おふたりとも大往生だったと思う。
今でも考えるときがある。
あの最後の将棋、おじさんは本当に打ち歩詰めのルールを知らずに、歩を打ったのだろうか。
あの瞬間、早指しのおじさんが少し考えた。そして躊躇しながら、私の玉頭に歩を打ったように見えたのだ。
序盤早々必敗の将棋になったのを、必死の勝負手で盛り返し、最後は勝ちまであった。この将棋を再び負けにするのは納得できん――。
そう諦めきれなかったおじさんが、禁じ手を承知であえて歩を打ったことは、十分考えられたことだった。
だがそのおじさんも亡くなり、その真相は、永遠の謎になってしまった。
おじさんが愛用していた木村十四世名人揮毫の六寸盤は、今どこにあるのだろう。私が譲り受ける資格は十分にあったと思うのだが、全然声は掛からなかった。
最初は平手から始め、最後は私の角落ちまでいった将棋だが、おじさんの私への棋力認定は、最後まで「初段の力はあるな!」だった。
結果的におじさんの形見になってしまった、大山十五世名人の詰将棋集と米長永世棋聖の著書は、当時の湿布薬の袋に入ったまま、今も私の机の、抽斗の中にある。
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記憶は書き換えられる(第6話)「ブログの存在意義」

2020-08-11 00:26:40 | 小説
私は7月2日、3日と角館に行く決意をした。そして自身を奮い立たせるべく、6月24日、範子さんにその旨を伝えた。結果壮行会として、1日に飲むことになったのだろう。
その範子さんには、この日以外にも上野で会った記憶がある。
上野駅不忍口の、いまは「あゝ上野駅」の記念碑が建っているところが、昔は公衆電話コーナーだった。そこを待ち合わせ場所にし、私は時間ギリギリに行った。私は美形の彼女を待たせることで、「そのデートの相手はオレだ」と、周りに自慢したかったのだ。
範子さんに会うと、「さっきここでナンパされた」と言った。そのくらいの美形だから当時私は、彼女にミスコンテストに応募するよう提案したのだが、本人にその気がなかった。
範子さんとは、夜に2時間くらい電話をしたこともある。だが話しているうち私は欲情してしまい、収拾がつかなくなったこともあった。
話が脱線したが、1994年夏、私は郁子さんをダシに、夏子さんにも連絡をしたに違いない。
そして翌週の10日に、夏子さんと4年振りに再会することになった……。しかし、夏子さんがよく応じてくれたと思う。4年のブランクは、もう初対面に近いのに、だ。
「ヒトってね、無理を言う人のほうが好かれるってことあるんですよ」
とA氏。「ほら湯川(博士)さんなんか若いころメチャクチャやってたけど、妙な人望あったもんね。だから大沢さんの無理な頼みにも、みんなよろこんで出席したと思うよ」
「そうかー、オレなんか暇人だからさ、相手の時間のほうが貴重だと思っちゃうわけよ。だからいつも連絡を待つほうで、受け身になっちゃうわけよ」
だがこの時期は一瞬だけ、妙に積極的になっていたわけだ。
私は改めて手帳を見てみる。……あっ!
9月13日に、
「滝本スタンプラリー郵送 390+速達370」
とあった。私は88駅まで押したスタンプ帳を、いったんは速達で夏子さんに返送していたのだ。そのうえで、残りの1駅をいっしょに押せたらと提案したのだ。
夏子さんは、それが届いた14日の夜に、私に電話をした。つまりこの電話も、私の郵送が発端になっていたのだ。
「なんだ大沢さん……みんな大沢さんからのアプローチじゃない。最初に聞いた話から、だんだん話がつまらなくなってきてるよ。
あれから26年経ってさ、大沢さんが脳内で面白い話に脚色してたんだよ。
だから大沢さんは、根っからの作家なんだよ」
「いやまったくだ、こうまで次から次へと新事実が出てくると……。今回のブログのタイトルは『南足柄市の美女』くらいに思ってたけど、『記憶は書き換えられる』ってタイトルにしたくなるよ。
構成だって変えなきゃならない。オレが旅行ノートや1994年の手帳を見る前の記憶から、順繰りに書いてかなきゃならない」
A氏は呆れて、苦笑いするばかりだ。「だけど、スタンプラリーを依頼してきたのは夏子さんなんだよ」
私は一応、食い下がった。
「うん、だから大沢さんのことを悪くは思ってなかったことは確かだよね。イヤだと思ったらスタンプラリーをお願いしないから。ひょっとしたら、角館の経過を知りたかったのかもしれないよ」
「渋谷ではいい雰囲気だったんだよ。あそこで彼氏がいるかどうか聞きたかった。ここまで出かかってたけど、言えなかった。だって角館の美女を追っ駆けてるの話してたしさ、そこで夏子さんに興味を示したら、軽い男だと思われそうで、言えなかった。当時は無職だったしね、聞ける立場にもなかった。踏み込んで、いい雰囲気が壊れるのが怖かった」
「夏子さんの答えは分かるよ。彼氏がいなくたって、いた、って答えるよ」
「なんでAさんに分かる?」
「分かるよ。大沢さんが角館の女性を追っ駆けてるから、意地でも『いない』とは言わないよ」
「いやいや、いないんだったらいないって言うでしょ。そしたらオレは交際を申し込んだよ」
知らず大声になってしまったので、遠くの客がこちらを見ている。
「大沢さんは交際を申し込めないよ。
問題は、大沢さんが夏子さんと付き合いたい、といつから思ったかだよ。渋谷ではその場の雰囲気で、そのときたまたまそう思っただけじゃないの? そんな軽い想いじゃダメだよ」
「ううむ。……いや、ううむ」
「だから仮に聞けたとしてもサ、夏子さんは付き合ってくれないよ。それでも大沢さんが粘り強く迫って、OKが出るのは半年くらい後じゃないかな」
なぜ半年後だかは分からぬが、作家でもあり既婚者でもあるA氏に自信満々に言われると、そんな気もしてくるのであった。
「Aさんの言うことも一理ある。26年前の夏子さんの回答なんか、誰も答えられないと思ったのにね、確かにそう答えるかもしれん」
私は長時間おしゃべりするのが久し振りなので、やや喉が掠れてきた。
A氏は仕事で新企画を立ち上げる構想があるらしく、私も協力を求められた。A氏も才能があるから、人に使われるまま一生を終えるのはもったいないと思う、残りの人生、好きなことをやればいいと思う。人生、楽しんだ者勝ちだ。
夏子さんの話は一息つき、A氏はさらに、木村晋介将棋ペンクラブ会長の、若き日の弁護士時代の活躍を熱っぽく語った。私はうんうんと、適当に相槌を打った。
気が付けば、時刻は午後11時にならんとしていた。このまま夜通し飲み明かしたいが、あらゆる意味で不可能だ。そしてここが立川ゆえ、もうお開きに迫られていた。
会計をしてもらうと、9,600円だった。私が全額出すつもりだったが、A氏が首を縦に振らない。「2,000円でいい」というので、お言葉に甘えさせていただいた。

帰宅後、改めて考える。夏子さんとの結婚云々は、私の妄想の極致で、冷静に考えれば、うまくいかなかったのだろう。
だが私は、渋谷のあとで夏子さんが郵送してくれた、彼女自身の写真と、1995年手帳のことを考える。渋谷以降に夏子さんが私と会う気がなければ、あの手帳は買わなかったはずだ。
写真にしても、旅行好きの夏子さんのこと、旅先での写真がいくらでもあったと思う。しかしあの写真はスーツ姿で、お見合い写真に見えないこともなかった。まさかとは思うが、私のために、撮り下ろししてくれたのではないか?
当時デジカメは普及前だった。あの写真1枚撮るのに、どれだけ経費がかかったか。私は当時、そこまで思いが至らなかった。
とにかくこの写真と手帳で、ボールは私に戻ってきた。私は夏子さんと付き合うという固いことは考えずに、気軽に誘えばよかったのだ。

当ブログに私は存在意義を感じないが、かつては、範子さん、真知子さん、そして郁子さんのご友人からコメントをもらったことがある。私はそれだけで、このブログを立ち上げた甲斐があると思った。
いまはダメもとで、夏子さんからのコメントを願っている。そして
「あなたの申し出を受けるわけがないじゃないですか」
とでもバッサリ斬ってくれたら、私は明日を歩めそうな気がするのである。
(とりあえず、おわり)
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記憶は書き換えられる(第5話)「1994年の手帳」

2020-08-10 01:04:21 | 小説
「これ、ここは本当のことなの?」
A氏が大山康晴十五世名人の箇所を指していた。
「本当だよ、旅先で見た。オレはブログにウソは書かない」
少し経って、A氏が読み終えたようだ。「どうだった?」
「面白かったよ」
「うむ。夏子さんの胸を揉みたくなったとかの記述は大丈夫?」
「問題ないよ」
ここから先のストーリーは、口頭で話すしかない。私はその後2度、夏子さんと再会を果たしたのに、私がアプローチを怠った。その逡巡が26年後、大きな後悔となって私を苦しめている、というものだ。
「きのうまで、夏子さんと最初に会ったのは、1993年だと思ってたのよ。ところが旅行日誌を確かめてみたら、1990年だった。3年の違いは大きいからね。当時の状況も搦めて加筆したら、インパクトが弱くなった」
A氏はふむふむと頷き、つまみを頼んだ。この店は肉料理、とくに焼き鳥が押しのようだった。
「大沢さんのブログ面白いからなあ。ボクの友人も、毎日見てるよ。だけど将棋の記事は面白くないって。……ごめん、彼は将棋指さないんだよ」
「ああ分かる。こっちは将棋の記事を書いてるのにさあ、どうでもいい記事でアクセス数が増えることがあるよ。大野教室のレポートなんか反応悪いもんね。ふだんの3割減だよ」
「力抜いて書いたほうがいい記事が書けることあるよね」
出された焼き鳥は美味かった。肉はもちろんだが、タレが美味い。
A氏もブログの類に毎日小説をアップしているらしい。だがそれで収入はないという。それじゃつまらないと思うが、無収入は私のブログも同じだ。
だが私もこの11年以上で、4000本以上の記事をアップした。いろいろ手配して、我がブログにどのくらいの価値があるのか、見極めたくはなっている。
「だから本当は、Akutsuさんに来てもらいたかったんだ。女性の意見が聞きたかった」
と私は言う。
Akutsuさんは将棋ペンクラブ幹事で、聡明な女性だ。A氏を呼んだとき、Akutsuさんも呼べないか提案したが、このコロナ禍では無理、と一蹴されてしまった。まあ当然で、この状況の下、A氏が単身で付き合ってくれただけでも奇跡なのだ。
焼き鳥はよく分からない部位を食べたが、プリプリして美味い。私はもうビールは要らないが、A氏は焼酎を頼んだ。金の心配はいらないから、どんどん頼んでくれ。
A氏もここ数年、いろいろあったようだ。とくに昨年は体調が悪く、この激ヤセはその闘病の跡だった。だがそれを割引いても私の人生より充実しているはずで、A氏の話もそこそこに、私はまた夏子さんの話に戻す。
「だからさあ、26年前のその日に戻りたいわけよ。ボクと付き合ってくれませんか。この質問だけでいいから、夏子さんにしたいわけよ。それが叶うなら、以後26年間の記憶をすべて神に差し上げてもいい。こんな一公ブログだっていらない!」
私はスマホをひらひらさせた。「死んだらあの世に行くよねえ。そしたら神様がいるでしょ? 人生の感想戦とかしてくれるのかねえ。ほら、あのときあの選択をしていたらどうなってたか、教えてくれるのかねえ。
昔は角館だったよ。郁子さんにもっと早くアプローチしたらどうなってたか聞きたかった。
だけどいまじゃ、夏子さんだよね。だって、オレのすぐ横で、飲み食いしてたんだもん。何故あのとき踏み込まなかったか! 夏子さんの答えを聞きたかったよねえ」
私たちはテーブル席で飲んでいるが、カウンターのオッサンは常連で、私たちの会話に加わりたいふうだ。女性ならいいが男性はお呼びでないので、私は無視する。
私がこれだけ話すのは久し振りだが、弁舌はまずまず滑らかだ。A氏の積もる話も聞いていたら時が経つのが早く、時刻は午後9時30分を過ぎてしまった。東京では3日から飲み屋の就業時間が夜10時になるはずだが、1日はまだ大丈夫だ。
「ほれ、見てよ手帳。これ、1994年のものよ。このころに帰りたいよ」
私はリュックから取り出した手帳をパラパラと開く。「ここ、アドレス帳。夏子さんの名前が一番上に書いてあるでしょ。夏子さんのことを一番に思ってた証拠だよね」
私はダイアリー部分に移る。「東急スタンプラリーだって、3日もかけてやってんだよ。ほれここ、『28/89』って書いてある。初日は28駅分を押したんだろうね。……あれ?」
私は大変な勘違いをしていたことに気付いた。私はいままで、東急スタンプラリーをやったのは6月や7月と思っていた。だが日付を確認すると、9月5日だった。以下、9日、10日と3回に分けてやっている。
私は7月にネジの工場を辞め、この頃は就職活動中だった。だから平日にも拘わらず、スタンプラリーができたのだ。
一方就職活動だが戦績は芳しくなく、9月8日の時点で「2勝6敗」と記されていた。6敗はともかく、「2勝」とは、何が2勝だったのだろう。
問題はそこではない。夏子さんに再会した7月10日、私は角館の美女のことを話したはずだ。それでも後日、夏子さんはスタンプラリーの口実を作って?、私との再会を望んでくれたことになる。これはかなり重要なキーではあるまいか。
だが、そんな「飛んで火に入る夏の虫状態」になっても、私の心は角館に飛んでいたことになる。
……バカじゃないのか?
私は7月3日のページも見てみる。
「ああっ⁉」
そこには
「滝本Tel」
と書かれていた。3日は郁子さんのお母さんに会った日だ。その成果を夏子さんに知らせたということだろうか? それとも以前から、夏子さんに連絡する手筈になっていたのだろうか。そもそも、私のほうから女性宅に電話を掛ける?
いまの私にはあり得ない話だが、昔は電話攻勢をしたことがあったかもしれない。事実優子さんにはそれをやって、致命的に嫌われる要因になったのだ。
「これどう思う? Aさん」
「滝本『から』、って書いてないからね。やっぱり大沢さんから電話したんだろうね」
「ううむ。……ああっ!!」
7月1日(金)の欄に、
6/24中村、中澤(上野18:30~)
の朱書があった。2人に会ったのはこの日だったのか! 角館へ行く前日じゃないか! 何でこんなに女性との交流が密集してるんだ!?
私は頭が混乱し、しばらくそのページを眺めていた。
(つづく)
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南足柄市の美女「東北本線での出来事」

2020-08-09 00:05:22 | 小説
私は齢50をとうに過ぎて未婚で、まあそれは仕方ないが、最近は老化現象が著しくなったこともあり、もし自分に子供がいたら、それはどんな子だったのだろうと考えることが多くなった。
せめて結婚だけでもしていれば両親を安心させられたのだが、それすらできなかった。両親には期待を裏切ってしまったと、心から詫びたい気持ちである。
そんな私にも、かつては結婚したい人が何人かいた。望まれるなら、その場で婚姻届に判を捺してもいいくらいだった。だけど魅力的な彼女らを前にすると、私は急所の局面で怖気づき、すべてをご破算にした。
現在はコロナ禍のうえ私は求職中なので、無駄に時間がある。だが人間、時間があるとロクなことを考えない。私の場合は変えられない過去を思い返しては、あの時ああすればよかった、こうすればよかったと頭を抱えるのだ。そして最近では、旅先で知り合ったある女性のことが思い出され、私を苦しめている。いままで想起したことはなかったのに、封印された記憶が、何かの拍子に開かれてしまったのだ。
以下は、そんなダメ人間の情けない述懐である。

1990年7月7日~9日、私は「EEきっぷ」を利用して、東北地方を旅行した。「EEきっぷ」とは、JR東日本発足を記念して発売されたもので、新幹線や在来線特急が3日間乗り放題で、15,450円だった。
当時の宿泊地はもちろんユースホステルで、初日は青森県向山にあるカワヨグリーンYHに泊まった。そこに、魅力的な女性ホステラーがいた。その夜は多少会話をしたと思うが、よく憶えていない。
翌朝、将棋の偉い先生が近くに来ている、という話になった。表へ出ると、牧場の端にスーツ姿の団体がおり、その中に大山康晴十五世名人がいた。その後頭部は朝日に照らされ、文字通り輝いていた。私はその場でひれ伏したものだった。
私は出発することになったが、昨晩の彼女と、青年2人組の計4人が、東北本線下りの普通列車に乗ることになった。
ボックス席には2手に分かれて座ったと思う。私のナナメ向かいに、彼女が座った。
彼女はショートヘアで、癒し系の顔立ちだった。着ているTシャツはブルー地で、胸いっぱいに「愛」と、金色で大書されていた。首回りは意外に露出があり、鎖骨がくっきり見える。胸のあたりは優美な膨らみを見せ、私は生唾をゴクリと飲み込んだ。
私は当時24歳で、広告代理店1年目。だが頭の中の9割は、女性のことで占められていた。私は彼女とお近づきになりたかった。何とかして、住所を知りたかった。これを解決するには写真を撮らせてもらい、それを送るために住所を聞くのが一番である。実際2年前の角館では、それで成功したのだ。
だがこの場で写真は唐突すぎる。この日私は下北半島の脇野沢YHに泊まるので、野辺地で乗り換える予定だ。彼女はもっと先に行く。このまま、彼女とは別れるしかないのか。
だが発車してしばらく経つと、青年2人組が、「4人の写真を撮りましょう」と言った。地元の乗客にカメラマンになってもらい、4人一緒のところを1枚写す。そして青年が写真を送るために、私と彼女に住所と名前を書かせた。そこで彼らの配慮が見事だった。この機会に、それぞれの住所と氏名を書き合いましょう、と提案してくれたのだ。
私の旅行ノートに、彼女が住所と氏名を書く。
「神奈川県南足柄市……滝本夏子」
奇跡は起こった。これで糸が繋がったのだ。
青年2人組は小河原で下車し、私は夏子さんと2人きりになった。旅先の車中で2人きり、は初めての経験である。私のドキドキは最高潮に達していたが冷静を装い、
「その『愛』のTシャツが素晴らしいですね」
と言った。
「ありがとうございます。私もこのTシャツ、気に入ってるんです!」
夏子さんがにっこりと笑って言った。完全に私は、心を持っていかれていた。
私は彼女の胸をチラ見しながら、会話を繋げる。彼女も楽しそうで、私はムラムラした中にも、居心地のよさを感じていた。大袈裟にいえば、夫婦はこんな感慨を抱くのかと思った。
話に夢中になり、私は我に返る。……あれ? もう野辺地を過ぎちゃったんじゃないか?
確認すると、果たしてそうだった。
脇野沢へは、下北半島を横断するのと、青森から高速船で行く手、津軽半島の蟹田からフェリー行く手がある。
気のせいかもしれないが、夏子さんも(このまま乗っていけばいいじゃない)と訴えているように見えた。私は自分のうっかりに感謝し、そのまま夏子さんとのおしゃべりを楽しんだ。
列車は青森駅に着いた。私はこの先も夏子さんに同行したかったが、それをやったらストーカーである。私は爽やかな青年を演じつつ、夏子さんと別れたのだった。

旅先から帰ってしばらく経ったある日、青年氏からあの時の写真が送られてきた。しかしその写真は盛大にぶれ、全体が二重、三重になっていた。それでも夏子さんは胸元と鎖骨が映え、胸も綺麗に膨らんでいた。私はその胸を揉みしだきたい思いにかられた。
だが、私は何もアクションを起こさなかった。もちろん夏子さんに会いたい気持ちはあったが、誘う口実がなかった。電話番号は記されなかったから連絡手段は手紙になるが、ただ会いたいから、という理由は短絡すぎる。それに夏子さんだって、あの時は流れの中で住所を書いただけだ。それを目的外の理由で利用されるのは不本意だろう。
それに私が最も再会を望むのは、2年前に角館で会った、千葉郁子さんだった。もしアプローチするなら、郁子さんが先ではならなかった。

その後も私はアクションを起こさなかった。夏子さんにも、郁子さんにも、である。私はこのころ、同僚の優子さんに一目惚れし、みにくい粘着を続けていたのだ。
さらに大阪担当になった私は、月に2回大阪出張があり、やはり旅先で親しくなった寝屋川市の音田真知子さんと、出張のたびに逢っていた。
そんな1992年6月、会社はバブル崩壊の余波で、大幅なリストラを断行した。私の部署は消滅することになり、私の居場所はなくなった。これが私に大したショックでなかったのは、会社の状態は勤務していれば分かるし、国鉄がJRになったり不採算路線を廃止したりしていたので、どの企業も潰れることがある、と学習していたことが大きい。
むろん会社に残る者もいたが、私は辞表を提出し、ボーナスをもらう前の7月9日に、退職することになった。
私はけじめをつける意味で、退職日の前日、優子さんに最後の電話を掛けた。だが優子さんは
「私があなたを嫌っていることを、あなたは知っていると思ってた」
と呆れたように言った。これは私の50余年の人生を顧みても、最もきつい一撃だった。もう状況的にはだいぶ前に振られていたのに、私はそれを認めようとしなかった。そして再度突撃して自爆した。
私は自分のバカさ加減に呆れ、自分を嗤うしかなかった。
求職期間は束の間のモラトリアムでもある。私はその月に長期の北海道旅行をし、その最中、大山十五世名人の死去を知った。
10月、私は叔父の経営するネジ工場に就職した。この工場には女ッ気がまったくなく、若手ばかりで華やかな、「フジテレビ」と形容された前の職場とは、雰囲気を180度異にした。

そのまま時が過ぎた1994年夏、私あてに中判の封筒が届いた。差出人を見ると、「滝本夏子」とあった。
夏子さん……!? なんで??
私は息が荒くなるのを感じた。
(つづく)
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記憶は書き換えられる(第4話)「衝撃の事実」

2020-08-08 00:10:09 | 小説
私はアドレスリストを見てみる。2018年暮れ、夏子さんに年賀状を出した時、この住所を見たのだ。
リストには10名が記されていた。会社の元同僚(女性)や、元バイト先の上司、高校時代の文通相手(女子)などの名前があり、そのいちばん上に、夏子さんの住所、それに電話番号が記されていた。私は、彼女に電話番号を聞いていたのだ! まったく記憶にないが、何度か手紙のやりとりをして、教えてもらったのだろう。
ダイアリー部分を見ると、9月15日(木・祝)に
「滝本(渋谷17:00~)」
とあった。私が彼女に会ったのはこの日だったか?
すぐ上の14日には、
「滝本Telあり→折り返しTel(男が出るが、コワい)」
とあった。何と、夏子さんから電話が来ていた。私は不在で、折り返し電話を掛けたのだ。だが電話口に男性が出て、私は震えたのだろう。でも翌日、デートすることができた⁉
東急のスタンプラリーは、3日間も費やしていた。やはり89駅となると、1日では回れなかったらしい。夏子さんとは1駅いっしょに押しただけだったが、10駅くらい残しておけばよかったのか。彼女にとってのベストは何だったのだろう。
私は7月10日を見てみる。こちらは
「角館
滝本19:00(上野)」
と赤字で記されていた。赤字は、予定を意味する。そしてこの日に会ったのは間違いない。じゃあ夏子さんとは、2回会っていたのか⁉
7月10日は、上り新幹線の到着時刻に合わせたのだ。1年振りの再会を祝ったあと、私たちはどこかの店へ入ったのだろう。だがその記憶が全然ない。
もつ鍋を食べたのは渋谷だろう。秋の9月15日だから、そのメニューがあった。
1995年の手帳も、このとき戴いたのかもしれない。秋だから来年の手帳がすでに売られていたのだ。そして彼女が私を見て微笑んだあの角度の貌は、渋谷だ。私としたことが、2回の記憶を1回に凝縮してしまっていた。
いずれにしても夏子さんとは、フランクな関係になっていた。ゆえに渋谷で交際を申し込めば、私の妄想の数々が、現実になっていたかもしれないのだ。
ほかのページも繰ると、「中澤、中村」と赤字で記述があった。この2人は新卒の会社で同僚だった女子だ。私は退職後も、彼女らとも飲みに行っていたのだ。現在のニート状態に比べると、あまりにも我が行動が眩しすぎる。
ちなみに中澤範子さんはたいへんな美形で、スタイルと性格も抜群だった。あまりにも美しいので、私は逆に、ふつうに話せたのだ。
「安倍」の記述もある。安倍は高校の同級生(男)で、月に2回くらい会って街ブラをしていた。彼と話すことと言えば、一言に要約すると「彼女いない、彼女ほしい、彼女いるやつ、バカ野郎」だった。
つまり2人とも彼女がいないのを楽しんでいた?のだが、私には彼女ができるチャンスがあったのだ。だが私は9月16日以降、夏子さんに連絡をしなかった。そんなに郁子さんを求めていたのか?
私は喉がカラカラになり、台所で水を飲む。真夜中だが、当時の日記を見たくなった。
いろいろ漁ると、当時のそれが出てきた。見ると、どうしようもない記述ばかりである。街を歩いていたら綺麗な女の子を見た、とかイラスト入りで書いたりしている。
そして7月17日は、筆ペンで「千葉郁子さんに会いたい!!」と大書していた。しかし肝心の9月15日は、記述はなかった……。
当然ながら、郁子さんへの執着が大きい。7月3日に郁子さんのお母さんに会って、郁子さんと再会の可能性が出てきたからだ。しかし繰り返すが、当時私が狙うべきは幻の美女ではなく、現実に会っている夏子さんだったのだ。
当時、というかいまもだが、私は結婚までの過程で「ドラマ」を欲する。角館の美女とのそれは、私が旅先でたまたま声を掛けた女性と親しくなり、結婚まで進展するというストーリーになる。
私はそれに固執したのだが、南足柄市の夏子さんとのそれも、なかなかに劇的である。旅先でたまたま会い、同宿者の計らいで細い糸が繋がった。それから1年経って再会し、交際、結婚に発展する――。
どうして、後者の道を選ばなかったのだろう!
私より13年下のいとこは、職場のアルバイトの女性と結婚した。彼女が職場を辞める最終日、いとこが告白して付き合いが始まり、結婚に至ったものだ。
よって私の妄想も、ひどい飛躍とは思えないのである。
ともあれ新事実が明らかになり、私はさらに精神状態がガタガタになった。
もうこういうときは、過去の出来事を客観的に文章化して、ブログに発表するしかない。第三者に悩みをぶちまけて、心の負担を軽くするのだ。
とにかく私は1回目を書いた。第1話は、私と夏子さんが旅先で出会い、翌年夏子さんが中判の封筒を私に送ってくるまでだ。
読み返すと、ノンフィクションなのに、スピード感があって面白かった。これをA氏に読んでもらう。作家でもあるA氏のお墨付きを得れば、ブログにアップしやすくなる。

8月1日が来た。待ち合わせ時間は午後6時30分だから、昼は時間がある。あまり気が進まないが、私は夏子さんとの初対面の日を確定するべく、過去の旅行日誌を漁った。
だが1993年は、東北へ行っていなかった。徐々に遡っていくと、ようやくそれらしきノートを見つけた。最終ページに、夏子さんらホステラーの連絡先が、個々の自筆で書かれていたのだ。そしてその旅行日は、1990年7月だった!!
何と、再会まで4年を要していた! これでは夏子さんの雰囲気が変わるわけだ。そしてこの間私は、職場の優子さんに片思いしていたのだ。これでは夏子さんに食指が動かないはずだ。
ノートは日誌のテイをなしておらず、旅の感想が記されていなかった。だが4年のブランクの判明も大きく、私は「第1話」の修正を余儀なくされた。
修正稿を読み返してみると、面白味は薄れた。でもこれをプリントアウトし、リュックに詰めた。それと念のため、1994年の手帳もしのばせた。

A氏とは立川駅で待ち合わせとなった。A氏は作家だが、それだけでは食べていけないので、別の仕事を持っている。この日も仕事だったしく、私は申し訳ない気持ちである。
A氏が来た。私が夏子さんと結婚していたら、A氏とも知己にはならなかった。むろんそれで構わない。将棋関連の知己は、すべて清算でいい。夏子さんとの未来があれば、以降の記憶は要らないのだ。
A氏はずいぶん痩せていた。私は醜く太り、禿げてきたので、バツが悪い。
「今日は悪かったね。オレも50を過ぎて、こんなことで悩むとは思わなかったよ。オレのイメージしてた50代は立派な大人だったが、実際になってみると、子供だった」
「それはボクも同じさ」
私たちは、A氏オススメの居酒屋に入った。このパターン、9年前と同じだ。すなわち、私がファンだった女流棋士が電撃結婚したときに私はショックを受け、A氏夫婦を呼んで、愚痴を聞いてもらったのだ。
当時はリアルタイムだったが、今回は26年前の逸機だ。ショックの質が違い、今回のほうがはるかにキツい。私が愚痴をこぼしたところで、何も解決しないのだ。
生ビールを頼み、とりあえず乾杯する。だが、何を乾杯するのか。
「今回オレが話す内容をブログに上げようと思って、とりあえず発端の部分を書いてきた」
と私。
「ああ、ありがとう。帰宅して読むよ」
「おいおい、いま読んでくれ」
「そうなの? ……そんなこともあるかと思って、老眼鏡を持ってきたよ」
A氏はそう言って、読み始めた。
(つづく)
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