一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

南足柄市の美女「東北本線での出来事」

2020-08-09 00:05:22 | 小説
私は齢50をとうに過ぎて未婚で、まあそれは仕方ないが、最近は老化現象が著しくなったこともあり、もし自分に子供がいたら、それはどんな子だったのだろうと考えることが多くなった。
せめて結婚だけでもしていれば両親を安心させられたのだが、それすらできなかった。両親には期待を裏切ってしまったと、心から詫びたい気持ちである。
そんな私にも、かつては結婚したい人が何人かいた。望まれるなら、その場で婚姻届に判を捺してもいいくらいだった。だけど魅力的な彼女らを前にすると、私は急所の局面で怖気づき、すべてをご破算にした。
現在はコロナ禍のうえ私は求職中なので、無駄に時間がある。だが人間、時間があるとロクなことを考えない。私の場合は変えられない過去を思い返しては、あの時ああすればよかった、こうすればよかったと頭を抱えるのだ。そして最近では、旅先で知り合ったある女性のことが思い出され、私を苦しめている。いままで想起したことはなかったのに、封印された記憶が、何かの拍子に開かれてしまったのだ。
以下は、そんなダメ人間の情けない述懐である。

1990年7月7日~9日、私は「EEきっぷ」を利用して、東北地方を旅行した。「EEきっぷ」とは、JR東日本発足を記念して発売されたもので、新幹線や在来線特急が3日間乗り放題で、15,450円だった。
当時の宿泊地はもちろんユースホステルで、初日は青森県向山にあるカワヨグリーンYHに泊まった。そこに、魅力的な女性ホステラーがいた。その夜は多少会話をしたと思うが、よく憶えていない。
翌朝、将棋の偉い先生が近くに来ている、という話になった。表へ出ると、牧場の端にスーツ姿の団体がおり、その中に大山康晴十五世名人がいた。その後頭部は朝日に照らされ、文字通り輝いていた。私はその場でひれ伏したものだった。
私は出発することになったが、昨晩の彼女と、青年2人組の計4人が、東北本線下りの普通列車に乗ることになった。
ボックス席には2手に分かれて座ったと思う。私のナナメ向かいに、彼女が座った。
彼女はショートヘアで、癒し系の顔立ちだった。着ているTシャツはブルー地で、胸いっぱいに「愛」と、金色で大書されていた。首回りは意外に露出があり、鎖骨がくっきり見える。胸のあたりは優美な膨らみを見せ、私は生唾をゴクリと飲み込んだ。
私は当時24歳で、広告代理店1年目。だが頭の中の9割は、女性のことで占められていた。私は彼女とお近づきになりたかった。何とかして、住所を知りたかった。これを解決するには写真を撮らせてもらい、それを送るために住所を聞くのが一番である。実際2年前の角館では、それで成功したのだ。
だがこの場で写真は唐突すぎる。この日私は下北半島の脇野沢YHに泊まるので、野辺地で乗り換える予定だ。彼女はもっと先に行く。このまま、彼女とは別れるしかないのか。
だが発車してしばらく経つと、青年2人組が、「4人の写真を撮りましょう」と言った。地元の乗客にカメラマンになってもらい、4人一緒のところを1枚写す。そして青年が写真を送るために、私と彼女に住所と名前を書かせた。そこで彼らの配慮が見事だった。この機会に、それぞれの住所と氏名を書き合いましょう、と提案してくれたのだ。
私の旅行ノートに、彼女が住所と氏名を書く。
「神奈川県南足柄市……滝本夏子」
奇跡は起こった。これで糸が繋がったのだ。
青年2人組は小河原で下車し、私は夏子さんと2人きりになった。旅先の車中で2人きり、は初めての経験である。私のドキドキは最高潮に達していたが冷静を装い、
「その『愛』のTシャツが素晴らしいですね」
と言った。
「ありがとうございます。私もこのTシャツ、気に入ってるんです!」
夏子さんがにっこりと笑って言った。完全に私は、心を持っていかれていた。
私は彼女の胸をチラ見しながら、会話を繋げる。彼女も楽しそうで、私はムラムラした中にも、居心地のよさを感じていた。大袈裟にいえば、夫婦はこんな感慨を抱くのかと思った。
話に夢中になり、私は我に返る。……あれ? もう野辺地を過ぎちゃったんじゃないか?
確認すると、果たしてそうだった。
脇野沢へは、下北半島を横断するのと、青森から高速船で行く手、津軽半島の蟹田からフェリー行く手がある。
気のせいかもしれないが、夏子さんも(このまま乗っていけばいいじゃない)と訴えているように見えた。私は自分のうっかりに感謝し、そのまま夏子さんとのおしゃべりを楽しんだ。
列車は青森駅に着いた。私はこの先も夏子さんに同行したかったが、それをやったらストーカーである。私は爽やかな青年を演じつつ、夏子さんと別れたのだった。

旅先から帰ってしばらく経ったある日、青年氏からあの時の写真が送られてきた。しかしその写真は盛大にぶれ、全体が二重、三重になっていた。それでも夏子さんは胸元と鎖骨が映え、胸も綺麗に膨らんでいた。私はその胸を揉みしだきたい思いにかられた。
だが、私は何もアクションを起こさなかった。もちろん夏子さんに会いたい気持ちはあったが、誘う口実がなかった。電話番号は記されなかったから連絡手段は手紙になるが、ただ会いたいから、という理由は短絡すぎる。それに夏子さんだって、あの時は流れの中で住所を書いただけだ。それを目的外の理由で利用されるのは不本意だろう。
それに私が最も再会を望むのは、2年前に角館で会った、千葉郁子さんだった。もしアプローチするなら、郁子さんが先ではならなかった。

その後も私はアクションを起こさなかった。夏子さんにも、郁子さんにも、である。私はこのころ、同僚の優子さんに一目惚れし、みにくい粘着を続けていたのだ。
さらに大阪担当になった私は、月に2回大阪出張があり、やはり旅先で親しくなった寝屋川市の音田真知子さんと、出張のたびに逢っていた。
そんな1992年6月、会社はバブル崩壊の余波で、大幅なリストラを断行した。私の部署は消滅することになり、私の居場所はなくなった。これが私に大したショックでなかったのは、会社の状態は勤務していれば分かるし、国鉄がJRになったり不採算路線を廃止したりしていたので、どの企業も潰れることがある、と学習していたことが大きい。
むろん会社に残る者もいたが、私は辞表を提出し、ボーナスをもらう前の7月9日に、退職することになった。
私はけじめをつける意味で、退職日の前日、優子さんに最後の電話を掛けた。だが優子さんは
「私があなたを嫌っていることを、あなたは知っていると思ってた」
と呆れたように言った。これは私の50余年の人生を顧みても、最もきつい一撃だった。もう状況的にはだいぶ前に振られていたのに、私はそれを認めようとしなかった。そして再度突撃して自爆した。
私は自分のバカさ加減に呆れ、自分を嗤うしかなかった。
求職期間は束の間のモラトリアムでもある。私はその月に長期の北海道旅行をし、その最中、大山十五世名人の死去を知った。
10月、私は叔父の経営するネジ工場に就職した。この工場には女ッ気がまったくなく、若手ばかりで華やかな、「フジテレビ」と形容された前の職場とは、雰囲気を180度異にした。

そのまま時が過ぎた1994年夏、私あてに中判の封筒が届いた。差出人を見ると、「滝本夏子」とあった。
夏子さん……!? なんで??
私は息が荒くなるのを感じた。
(つづく)
コメント (2)
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