AKB48の旅

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「人の好みなんかはね いろいろなんだ」

2013年09月02日 | AKB
http://realsound.jp/2013/08/post-68.html

こうやって取り上げない方が良いんだろうし、「どうせサイゾーソースだし」とかスカしても良いんだろうけど、そして、いつも言うだけ只の「批判的なポジはとらない性分」なんだけど。

「物語性」のレイヤとか、もっと重要な論点があるかも知れないし、なのにそこかよ、と思われるかも知れないけど、いちばん気になったとこなんで、「かくあるべき」について一言。

「かくあるべき」と思ったら、ただ語るのではなくて、実行動に打って出るのが吉じゃないかなあ。ここで語られてるのが「恋するフォーチュンクッキー」についてであり、その歌詞論であるという理解で良いなら、その思うところの「かくあるべき」を実現していく努力、否定ではなく肯定を指向する方が、より建設的だと思うし、トータルでの幸福度が上がるんじゃないか。

例えば、「かくあるべき」歌詞を実現するにはどうすれば良いか。自ら書く、あるいは歌うというのが無理ならば、中で紹介されてるように、「渚のシンドバッド」をリバイバルさせる努力をしてみる、あるいは阿久悠氏の他の歌詞でも良いから、「かくあるべき」なのを紹介してみる、発信してみる、同調者を増やす努力をするというのはどうだろう。

もちろん、残念ながら、少なくとも私はその見立て、考え方には同調しないけど、「人の好みなんかはね いろいろなんだ」というのは至言だと思うし、多様性というのは、豊かと言うこととほぼ同義だろうとも思う。そして、「かくあるべき」という考え方というのは、方向性としては、この「多様性」に逆行する可能性を帯びてる。だからこそ、「かくあるべき」という主張は、それが生産的なものでなければ、むしろ有害なものと言い放っても良いのかも知れない。

目の前の現実を無批判に受け入れろとか、そういうことを言ってるのではない。ただ現実は現実なのであり、事実は事実。冷静かつ正確に現実を理解した上で、そこから未来を産み出して行く。自ら作り出して行く。まあ、実際にはまったくのムリゲーだけど、それでも「かくあるべし」とあがいてみる。そういうのは悪くないんじゃないかな。

秋元康氏の思想というか方法論については、ずいぶんと妄想たくましくも考察したけど、目の前の現実を真摯に受け止めた上で、一歩先のリスクを取りに行く、1ミリ先の未来を探るということで、首尾一貫してたと理解してる。そこには「かくあるべし」は欠片もない。オモシロイと思ったからやってみた。一切、失敗というものを恐れなかった。秋元氏が成功者であるという事実を含め、そこには学ぶべきものが少なからずあると思う。

「かくあるべし」が先行して、それ故に目の前の現実を否定する、そういう朱子学のDNAは、残念ながら現在の日本人の中にも、こっそりと(それとも凜然と?)残存してるのかもしれない。そういう現実にこそ自覚的になって、そろそろ完全な「朱子学の埋葬」へとあがいてみるなんてのはどうだろう。