三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「ジュラシックワールド 炎の王国」

2018年07月24日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「ジュラシックワールド 炎の王国」を観た。
 http://www.jurassicworld.jp/

 動物園や水族館で動物を飼うのは見世物にするために他ならない。人間のエゴだから、様々な問題を生じさせる。
 例えばアフリカの平原で生きている動物を日本の環境に持ってくることは、是なのか非なのか。夏バテしているように見えるホッキョクグマを生ぬるいプールで泳がせるのはホッキョクグマにとって快適なのか。そもそも人間は食物連鎖の頂点にいるというだけで、他の動植物の生態系を乱し、絶滅させる。その上で必ずしも必要ではない動物園や水族館で動植物を飼育することが人間にとって必要なのかどうか。
 連れてきたのがジュラ紀の動物であっても、同様の問題は常に孕んでいるはずだが、この映画ではそういった問題には一切触れようとしない。それよりも動物を無辜の象徴みたいな扱いに奉り、悪事に利用しようとする悪者たちを懲らしめるという、驚くべき勧善懲悪のストーリーに堕してしまっている。途中から、なんじゃこりゃと思ってしまった。こういう単純な勧善懲悪なら水戸黄門で十分だ。

 もしジュラ紀の動物が現代に生きることができるなら、その圧倒的な大きさと、人間には計り知れない無慈悲な行動をするはずだ。シリーズの最初の作品「ジュラシックパーク」はまさにそういう作品で、そもそもジュラシックパークを作ろうとした動機が金儲けという、金のためなら何でもやる時代に相応しいものだった。色々な思惑が縦横に交錯した立体的な世界観の作品で、今でも見ごたえがある。
 しかし本作品は世界観も薄っぺらで、主人公とその仲間たちは何があっても絶対死なず、恐竜は微妙に擬人化されてペットみたいな立ち位置になっている。ご都合主義の極みと言っていい。恐竜のリアリティとCGの精密さだけを追求した作品で、恐竜が暴れているのを3Dで見ることができるのが唯一の取り柄と言っていい。それにしては恐竜がどれも迫力に欠けているところがあって、怖くもないし驚きもしない。高い代金を払ってIMAXで観るにはあまりにも期待外れな駄作であった。


映画「未来のミライ」

2018年07月24日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「未来のミライ」を観た。
 http://mirai-no-mirai.jp/

 アニメの表情はラインのスタンプとは違って、前後の脈絡から観客がそれぞれに想像する幅がある。どんな受け取り方をするかは観客それぞれの感性や経験、世界観などによって異なる。そういうアニメの多義性が作品に奥行きを齎し、物語に深みを与える。「この世界の片隅に」のすずさんがどちらかと言えば無表情だったのに、観客が深い感銘を受けたのは、アニメの持つ多義的な表情に由来すると思う。

 しかしこの作品は残念ながら一元的で、本来は家族を取り巻く環境が家族間の関係性に影響を齎すはずだが、家族間だけの人間関係に終始してしまっている。だから表情もラインのスタンプと同じくひとつの意味しか持たない。妹が生れた小さな兄の成長物語だが、登場人物の誰にも際だった個性がない。庭に出るたびに過去や未来の家族が登場して主人公を少しずつ成長させるというアイデアだけに頼った映画で、このところのレベルの高い邦画アニメとしては駄作の部類に入ってしまった。
 映画の底流には家族第一という一元論があり、世界の問題から目を背けて先祖から未来までを家族主義で通してしまう世界観は、どこか国家主義の世界観に似ている。説教がましいし、偽善的だ。豪華な声優陣を使ってこういうアニメを作るモチベーションが、私には理解できなかった。