三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「ひまわり」

2022年04月14日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ひまわり」を観た。
映画『ひまわり 50周年HDレストア版』公式サイト

映画『ひまわり 50周年HDレストア版』公式サイト

絶賛公開中|日本人が愛した永遠の名作が、レストアされて蘇る――1970年の初公開から50周年 日本で大ヒットした恋愛映画の金字塔。戦争で引き裂かれた男と女の悲しい愛の物...

映画『ひまわり 50周年HDレストア版』公式サイト

 謂わずとしれた名作映画だ。まず場面転換の思い切りのよさに感心する。それに過多な説明が一切ない。台詞回しは演劇的ではあるが、凝縮した台詞がリズムよく語られる。喜びと哀愁の表情も見事で、さすが歴史的な名優の共演だ。一分の隙もない。
 第二次大戦中のイタリアが舞台で、新婚のジョヴァンナとアントニオは新婚旅行先のホテルで濃密な12日間を過ごす。
 テレビもネットもない時代だ。おまけに灯火管制で窓から灯りが洩れるのも許されない。やることといったら寝ることとセックスと食べることだけだ。否が応でも互いに見つめ合うことになる。そして相手が自分の一部になるくらい、親密になる。そこにいて当然の関係だ。
 そんな関係になってしまうと、別れはことのほか辛い。ジョヴァンナとアントニオはなんとかして別れないですむ算段をするが、時代はふたりに冷たく、アントニオはロシア戦線に向かうことになる。アントニオの帰りを待ち続けたジョヴァンナの悲哀と鬱屈を演じたソフィア・ローレンが素晴らしい。その表情は女の優しさに満ちている。
 人生とはすなわち出逢いと別れである。出逢うことは別れることなのだ。出逢いの喜びが大きいほど、別れの悲しみも大きい。出逢わなければ別れの哀しみもないが、人生の喜びもない。なんともやるせない話だが、そこに人生の味わいがある。別れもまたよし、なのだ。

映画「親愛なる同志たちへ」

2022年04月14日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「親愛なる同志たちへ」を観た。
映画『親愛なる同志たちへ』公式サイト

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84歳の巨匠コンチャロフスキーが祖国ロシアへの愛と憎悪を鮮やかに描く最高傑作!4月8日(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国公開

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 共産主義の理念は、能力に応じて働き、必要に応じて消費するというものである。なんとも合理的であり、そういう社会が実現可能であれば、今流行りの持続可能開発目標に近づくだろう。しかしそれは夢物語だ。
 ドストエフスキーは社会主義について、非合理的な存在である人間を合理的なシステムに組み込めるはずがないと喝破した。そのとおりだと思う。
 労働については、皆が皆、一生懸命働くとは限らない。それに共産主義における労働というのは主に第一次産業と第二次産業だ。マルクスは金融資本主義が経済の主流になるとは考えなかっただろうし、IT技術などは想像すらできなかったに違いない。
 消費については、プライベートジェットや大型クルーザーや果ては自家用の飛行場まで必要だとする人もいれば、極端に質素な生活で十分という人もいる。人間の欲望に合理性などないのだ。
 つまるところ、国家が強権的に管理することになる。人間はまだ共産主義に移行できるほど完成されていない存在なのである。だから共産主義国は、共産主義がどれだけ平等な幸福を齎すかを宣伝しなければならない。プロパガンダだ。プロパガンダを必要とする政治は、要するに欺瞞の政治である。

 本作品はキューバ危機の頃のソビエト社会主義共和国連邦のある一都市の様子を描いているが、ソ連の縮図となっている。強権的な管理社会は、反体制的な言動に厳罰を課す一方で、プロパガンダへの協力や有用な情報提供には褒美を与える。仮面社会、密告社会だ。
 ソ連の体制側にいる主人公は、共産主義の理想を信じて疑わない人生を送ってきたが、平和なはずの町で暴動が起き、銃撃で人々が殺され、娘が行方不明になったことで、共産主義を疑いはじめる。しかしそれはこれまでの人生を疑うのと同じことだ。自分の人生が無駄だったとは思いたくない。心は千々に乱れる。
 共産主義の強権の中枢にいる人は、逆に共産主義の理想を信じていない。信じていれば人々が自発的に共同作業と共同分配を行なうはずだから、強権的な管理は必要ない。管理が必要ということは、共産主義の理想は実現されることがないということである。つまりソ連は、その出発点から決定的な矛盾を内包していたわけであり、内部崩壊は必然だった。

 共産主義に限らず、すべての強権的な政治は内部崩壊が必然である。現在は民主主義国よりも強権政治の国が多いが、過渡期であるとも考えられる。マルクスも過渡期の問題を論じている。強権政治→民主政治→共産主義ということなら、現在も過渡期ということになる。
 しかしドストエフスキーの言う通り、人間が合理的な整合性を獲得するとは思えない。人類には民主主義が精一杯なのだろう。