三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「吟ずる者たち」

2022年04月01日 | 映画・舞台・コンサート
映画「吟ずる者たち」を観た。
 比嘉愛未はスレンダーな長身美人で、腕も脚も長くてスタイルはとてもいい。喜怒哀楽の表情もそれなりに上手だ。しかし何故か、存在感がない。本作品の演技もとてもよかったのだが、周囲を圧倒するような存在感に欠けている。三浦仙三郎を演じた中村俊介の存在感と比べると、かなり見劣りする。それがこの美人女優の主演作品が少ない理由かもしれない。演技は既に十分上手い。しかしこじんまりと纏まりすぎている感がある。もっと振り切った演技が出来ればと思う。

 広島は不思議な土地柄だ。有名人を多く排出する一方で、河合克行、案里夫妻みたいなクズの政治家を当選させる。反核、反戦の歴史がありながら、選挙で勝つのはいつも自民党である。総理大臣の岸田文雄も広島選挙区から選出された。去年の総選挙でも広島県で当選した9人の内、6人は自民党である。残りは公明、維新、立憲がそれぞれひとりずつだ。広島県民は何考えとるん。

 本作品にはいい人しか登場しない。ほのぼのとした作品だ。日本酒造りの歴史と苦労を描くが、必ず報われる苦労である。似たようなドラマに、和久井映見が主演した「夏子の酒」がある。尾瀬あきらの漫画が原作である。幻の酒米である龍錦を使って、幻の美酒「龍錦」を造り上げる感動のドラマだった。このドラマでの共演をきっかけに和久井映見と萩原聖人が結婚したという記憶がある。ポジティブなドラマは演者も盛り上がるのかもしれない。その後離婚したけれども。

 米と水と麹と酵母、それに製造環境の無限の組み合わせから、様々な日本酒が製造される。バリエーションとしては、葡萄の品種が1000種を超えるワインには敵わないが、日本酒はその年に作られた酒がすぐに味わえる。それに当たり年というものがないから、毎年が当たり年である。酒造りは麹と酵母の働きがすべてであり、人間はお膳立てをするだけだ。どんな酒ができるかは神のみぞ知るだ。これはいまでも変わらない。酒造りの面白さであり苦労である。
 映画としては平凡だが、家族の愛に溢れたいい作品である。出来上がった追花心(おいはなこころ)が美味しいかどうかはわからないが、鑑賞後に日本酒が飲みたくなることだけは間違いない。

映画「アンビュランス」

2022年04月01日 | 映画・舞台・コンサート
映画「アンビュランス」を観た。
 文字通り、疾走感がある。退屈せずに観られた。とにかく救急車で疾走する映像を主体にしたかったのだろうが、人物の背景の説明が少なすぎて、ほとんど誰にも感情移入できない。銀行強盗の計画の説明もないから、誰がどこにいて何をしているのか、よく分からない。それにドローンカメラが鬱陶しい。地上でのドラマだ。真上からの映像など必要ない。よほどドローンカメラを自慢したかったのだろうか。
 よくわからないまま、救急車での逃走がはじまる。戦争の英雄の正義漢と兄のプラグマティズムがぶつかり合いながら、救急車はひたすら逃げ道を求めて進むが、現実なら100パーセントアウトな場面も僥倖に恵まれて切り抜ける。さすがハリウッドのB級映画だ。

 ただIT関連のハイテクを使った追跡が面白くて、プロゲーマーがビデオゲームをクリアしている映像を観ているみたいだった。多分軍事技術の応用だろう。ここまでハイテクを使うのであれば、ドローンカメラは警察が使えばよかった。観客に直接カメラの映像を見せるより、警察が追跡に使っているのを見せたほうが、ドローンカメラも生きただろう。

映画「ベルファスト」

2022年04月01日 | 映画・舞台・コンサート
映画「ベルファスト」を観た。
 愛国心は即ち誤解である。たまたまそこで生まれたに過ぎない国を「祖国」や「母国」などと呼んで、あたかも「自分の国」であるかのように誤解する。
「故郷」や「親友」の誤解と同じだ。幼い頃を過ごした場所のことを「故郷」と呼ぶ。懐かしむだけなら罪はないが、都会に出て行った人間を「故郷を捨てた」と非難するのは理不尽だ。「故郷」はその場所と本人の関係だけである。同じ場所でも、他人とその場所の関係にまで口出しする権利はない。
 親しい友だちを「親友」と呼んで友だちの中でも特別な存在とするのは構わないが、その関係性を盾に取って相手に義務を課したりするのはおかしい。「私たち、親友だよね?」と確認した上で悪事に加担させるなど言語道断だ。社会人になると、人間関係が流動的であることを認識するから「親友」などという言葉は使わなくなる。「親友」は幻想であり、関係性を誤解しているだけなのだ。
 同様に国家も幻想である。領土や領海はあるが、流動的だ。国家は領土でも領海でもない。人々の共同幻想に支えられた仕組みそのものを国家と呼ぶ。実態はなく、手続きによってかろうじて存在しているに過ぎない。

 人間は国家や故郷や親友に縛られることなく、自由な存在であるはずだが、敢えて自らを縛り、限定する。不自由な精神だ。自分を限定すると、その外にいる人間が自分のエリアに入ってくることを拒否する心理が働く。よそ者に対する敵愾心や嫌悪感であり、異邦人の排斥である。排斥する心理はやがて悪意となる。
 およそ戦争や紛争は、不自由な精神が生み出す馬鹿げた行為だ。その源は愛国心という誤解にある。「がんばれニッポン」の精神性は、そのまま戦争に直結しているのだ。
 どうして自分の国を応援することが戦争に繋がるのかという疑問は、それ自体が破綻している。「自分の国」などというものはないのである。たまたまそこで生まれてそこの言語と文化と風俗に親しんだだけだ。それを「自分の国」などと、烏滸がましいにもほどがある。

 本作品の登場人物は、不自由な精神で暴走するバカに悩まされるが、何のことはない、母親も同類である。「故郷」の幻想に縛られている。そんな幻想を捨て去ることが生き延びることだと、本作品は暗示している。宗教バカが多ければ、その土地を離れればいい。愛国心バカが多かったら、やっぱりその土地を離れればいい。
 受け入れる側が「愛国心」や「故郷」の幻想を持っていれば、難民は排斥される。しかし自分が住んでいる場所が自分のものではないことを自覚している人が多ければ、難民は受け入れられる。仮に難民がとても優れていて、自分の仕事が取って代わられるとしても、受け入れなければならないのだ。

 世界から「愛国心」や「故郷」の幻想が消滅するまで、戦争はなくならない。ベルファストの悲劇は何度も何度も繰り返される。「愛国心」は被害妄想と表裏一体なのだ。被害妄想の怒りに駆られた人間は、それが妄想であると自覚することはない。
 おじいさんとおばあさんだけは、それがわかっていたようだ。歳を取って死を意識するようになるまで、人間は「祖国」や「故郷」の幻想に縛られ続けるのかもしれない。