三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

舞台「もはやしずか」

2022年04月03日 | 映画・舞台・コンサート
 三軒茶屋のシアタートラムで舞台「もはやしずか」を観劇。
 主人公の康二(橋本淳)は幼い頃に、障害のある弟を自分の不注意で死なせてしまったトラウマがある。結婚してしばらく子供ができなかったが、ある日妻(黒木華)が精子提供を受けているのを知る。その後妻が妊娠するが、医者からは障害を持って生まれる可能性が5割あると言われ、妻に堕胎をすすめる。しかし妻は生むと決めて、もう3人では暮らせないと宣言する。
 離婚して1年後、妻と両親が訪ねてきて、生まれた子供に障害がなかったと復縁を迫られるが、康二は自分の子かどうかわからないし、障害がなかったから復縁してほしいというのは少し違うのではないかと反論する。
 そしてほぼ5秒程度の驚愕のラストシーンがあって、唐突に芝居は終わる。このラストシーンには本当に驚いた。

 2時間休憩なしだが、中だるみなど一切なく、すべてのシーンに緊迫感がある。黒木華は強気で嫌な感じの妻を存分に演じていた。意外によかったのが安達祐実。もともと芝居は上手かったが、エキセントリックな役が多くて、上手さを感じなかったが、本舞台で普通の女性の役を演じたのを観て、演技に感心した。

 大江健三郎の「個人的な体験」によく似ている。長男の光(ひかり)が障害を持って生まれた経験を書いているのだが、その葛藤は本舞台の康二に通じるものがある。本舞台を観るのは「個人的な体験」を読むのと同じくらい苦しかった。

映画「マイライフ、ママライフ」

2022年04月03日 | 映画・舞台・コンサート
映画「マイライフ、ママライフ」を観た。
 主役は2児の母のサオリである。子供を作るかどうか悩んでいるアヤがトリックスターの役割を果たすのだが、アヤのキャラクターが不安定な上に、演じた尾花貴絵の演技がいまひとつだったので、作品としての完成度が低くなってしまった。
 アヤの上司は、結婚したら子供を作らなければならないかのようなセクハラ発言を連発するのに、全く問題にされなかったのも不自然だ。アヤが前半で子供はいらないと言っていたのは哲学ではなく、不運な体験からだというのはご都合主義である。どうしても子供を産むことが善であるという一方的な考え方でまとめたかったようだ。

 日本の少子化は、政治が駄目という理由も確かにあるが、それだけではない。先進国全体の問題である。育児ケアがほぼゼロに等しいアフリカでは人口爆発が起きている。日本でも戦後の焼け跡でベビーブームが起きた。子供を作るくらいしか望みがないから人口爆発が起きる。
 つまり先進国では、子供に人生の潤いを得ようとする人と、子供以外で人生の充実を図ろうとする人と、その両方の人と、どちらでもない人というふうに、人生観が分かれている訳だ。それぞれの人生観は精神的な自由として尊重されなければならない。
 ところが本作品は、子供を産んで子供中心の生活が正しい人生であるかのような人生観に固執して、セクハラもパワハラも見逃してしまう。女性の幸せを子育てに固定してしまうから、広く共感を得るのは難しいだろう。カルト教団の映画みたいだった。

映画「英雄の証明」

2022年04月03日 | 映画・舞台・コンサート
映画「英雄の証明」を観た。
 主人公は浅墓で優柔不断で弱気な割に、妙なところで依怙地になったりする。そのくせ人並みに欲望はある。要するにラヒムはつまらない男なのである。しかも頭もよくない。このあたりがなんともリアルだ。身につまされる。

 起きてしまったこと、やってしまったことは仕方がない。開き直っていればいい。世の中の悪人は皆そうしている。
 しかしラヒムは生来の浅はかさと気の弱さが祟って、うまく立ち回れない。やがて小さな嘘をつく。そして嘘を糊塗するために新たな嘘をつく。嘘が雪だるま式に膨らんで、取り返しがつかなくなってから、驚いたことに名誉を取り戻したいという。
 日本なら、こんなことになったら名誉も何もないだろうと誰もが思う場面だ。しかしイランではそうではないらしい。名誉という言葉の重みが日本とは異なるのだろう。そもそも日本では名誉という言葉を使う機会がほとんどない。イスラム教は詳しくないが、少なくとも、利益のためには人格も尊厳もかなぐり捨てて誰にでもへーコラする日本とは、精神性の面でかなり違うと思う。どちらがいいという訳ではない。

 日本との違いで言えば、遺失物法がある日本では、私有地で拾った物はその場所の所有者に、公有地では警察に届ける。警察官が横領することは滅多になく、貴重品が落し主に戻る確率は高い。中国人にその話をしたら、中国では拾った人が貰うか、警官が貰うかのどちらかで、落し主に戻ることは絶対にないと言っていた。
 本作品でも最初はどうして警察に届けないのだろうと訝ったが、イランでは遺失物法などが整備されておらず、警察に届けると中国と同じことになるのかもしれない。

 ストーリーは、弱気になったり強気になったりするラヒムのせいで、やたらと右往左往する。面白くないことはないが、ラヒムに振り回されている感じで、あまり愉快ではない。終盤では、死刑囚の夫を助けたい女性と、お人好しで間抜けなラヒムとの対比が際立つ。ラヒムよりよほどうまく立ち回り、ラヒムの金貨をだまし取り、ラヒムがもらった寄付金までもらい受けたのだ。

 イランはイスラム教の国だが、タリバンみたいに原理主義で女性を抑圧するシーンはほとんどない。ネット環境も発達していて、SNSも絡んで、日本と同じようにネットの問題があることもわかる。宗教とは無関係に、個人同士の丁々発止のやり取りが延々と続く。宗教では個人間の紛争は解決されないのだ。同監督の「セールスマン」と同様に、人間はかくも愚かで滑稽な存在だということを描いているのだが、主人公ラヒムは絶望することなく笑顔を浮かべる。そこに救いがある気がした。