映画「ミゼリコルディア」を観た。
まさか聖職者の性器の状態が本作品のテーマの主眼になるとは、夢にも思わなかった。同じ場面で驚いた人はかなりいると思う。主人公のジェレミーが驚いているくらいだ。もしかしたら製作者も驚いたのかもしれない。
前半は、葬式が終わったのに、どうしてジェレミーはトゥールーズに帰らないのかと疑問に思う。故人の息子ヴァンサンからとことん嫌われているのに、まだ居続ける理由がわからない。ジェレミーはこの村が好きだから、としか言わない。
後半になってジェレミーの長逗留の理由が分かってくるのだが、一方で、逗留が長引くほど、ヴァンサンの怒りは増幅する。常識のある人間なら、とっとと村を出ていると思うのだが、ジェレミーは欲望に逆らえない。
ヘテロセクシュアルの人間には、簡単には理解できないところがあるが、そういう世界もあることを想像することはできる。自分を受け入れてくれるかどうか、相手を見極めるのが重要になってくる。日本でも、ハッテン場という場所があるらしい。そういう場所に集まることで、相手を見極める必要がなくなる。ジェレミーの村は、ハッテン場ではない。しかしジェレミーは誤解していたフシがある。この村が好きというのは、そういう意味だろう。
この先、おそらくジェレミーは神父を受け入れることになるだろう。ワルターとは上手くいかなかったが、神父が相手なら、こちらが受け入れれば即OKだ。なにせ、神父の情熱をはっきりと目撃している。
見てはいけないものを見た、そんな後ろめたさを感じさせる作品である。とてもユニークだ。