幻の詩集 『あまたのおろち』 by 紫源二

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誰かがジュリアという名前の女性と恋に落ちた。2020.8.26

2020-08-28 01:43:00 | Weblog

誰かがジュリアという名前の女性と恋に落ちた。
ジュリアという名前は、私がかつてインドで出会った女性と同じ名前で、そのことについてFacebookにも書いたことがあるが、誰も読んではいないだろう。
ユーリア・ホフマンスタール。
ホフマンスタールはドイツの詩人の名である。
ロマンチックな詩を書いて一世を風靡したが、第二次大戦後はすっかり時代遅れになってしまったようである。何故なら、「アウシュビッツ以降、詩を書くことは野蛮である」とアドルノが言った、そのアウシュビッツ以前の文明的で上品な詩の筆頭だと思われたからかもしれない。
でも私がたとえばもしジュリアを想う彼を代弁して詩を書くとするなら、もしかしたらホフマンスタールのような詩が一番ぴったりとするのではないかとも思う。
ホフマンスタールもアドルノもユダヤ人だが、アウシュビッツ以降、民族の浄化をしっかりと見つめたまま、たじろぐことなく美を謳った詩人、パウル・ツェランもユダヤ人だ。
私は世界の片田舎の日本に暮らす凡夫だから、別段、世界史に残るような詩を書こうと企てているわけではない。ただ、ジュリアに対して彼が寄せる想いを私が共感して詩を書くとしたらどのような詩がいいのだろうか? と考えてみると、まず思い浮かぶのがホフマンスタールだった。そして、アドルノのあの名言が脳裏に浮かび、そして、私の中では“アウシュビッツ以降”の最高の詩人としてパウル・ツェランが思い浮かんだ。
パウル・ツェランの詩の中には政治があるように思う。
詩は政治を超越している。でも詩人は政治に翻弄される世界にも生きている。たとえ世俗を捨てて宗教的生活に身を捧げたとしても、政治的世界から全く切り離されることはできない。
ただの恋の歌をロマンチックに謳うことは、現在の世界情勢の中では“野蛮”なことなのかもしれない。
“野蛮”という言葉には原始的であると同時に、残酷というニュアンスが私には感じられる。
無実の罪で死んで行った戦争の犠牲者達は、ロマン派の謳うロマンチックな理想の世界に生きることはできなかった。
何故か?
政治に翻弄されてしまったからだ。
政治によって我々は理想的な社会を実現するのだ!と言っている政治家たち。たとえばヒットラー。彼はその理想とは真逆の結果を招いた。
たとえば“恋”ということを考えた場合でも、政治とは無関係ではあり得ない。それがもし国際的なものだとしたら、なおさら政治が大いに関わってくる。
西洋と東洋は出会った。戦争で戦い、文化的に交流し、経済は国境を越えた。そして宗教も、たとえばアメリカのカウンターカルチャーの中で出会った。
日本人の私も、いろいろな国の人と出会った。
そして今ではインターネットを通じて、国境を越えていろいろな国の人とお友達に簡単になれる。
これからは、日本語という決して国際化されない言語を通して、どのように私的な詩情を他言語の人に伝えられるのかを、私は少しは考えてみる必要がありそうだと感じる今日この頃なのであった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


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