うべプラネタリアン

プラネタリウム解説の活動を通じ、いろいろ感じたことをさまざまに語りたく....

ガリレオ・ガリレイ 1 ...(8204)

2008年11月08日 16時56分42秒 | うべプラネタリアン
来年(2009)は世界天文年と位置づけられ、世界各地で天文学イベントが行われる。
来年を世界天文年としたのは、近代天文学の父とされているガリレオ・ガリレイが
手製の望遠鏡を初めて夜空に向けて、望遠鏡による天体観測をしたのが1609年だったことから、
ちょうど400年目に当たるからである。
ガリレオが地動説を唱え、それがために宗教裁判にかけられたことは有名な話だが、
地動説そのものは、ガリレオの活躍するずっと以前1543年に、ポーランドの天文学者コペルニクスが
「天球の回転について」という本でとなえている。
しかし、コペルニクスは理論だけで、それを立証するすべを何も持たなかった。
そのため、わずかな先進的な哲学者や天文学者が、それが正しいらしいとは考えていたが、
人々はほとんどその理論を支持しなかった。常識的な理論ではなかったからである。
その数少ない熱心な支持者の一人がガリレオだった。ガリレオは実験科学者だったから、
それを実証する方法を常々考えていた。
1600年頃ひとつのおもちゃが発明された。
凸レンズと凹レンズを組み合わせると遠くのものが近くに見えるという玩具だった。
眼鏡師がたわむれに作った望遠鏡は、ガラスレンズが粗悪で濁っていたから、
像はうっすらとしていて、ゆがんでいた。とても実用になるものとは考えられなかったが、
ガリレオはこれにひどく興味を示した。
折しも透明で質のいいガラスがベネチアで作られるようになり、ガリレオは、早速小さなガラスを
手に入れて、自分でレンズに磨き込んだのである。
実は、彼は当時金に困っていたので、質のいい光学器械を作れば、それでひともうけできると考えたのであった。
ガリレオの作った望遠鏡の第一号機は倍率6倍だったが、像ははっきりしていて
まずまず満足のいくものだった。
気をよくした彼は、すぐさま、倍率9倍の格段に優れた第二号機を作り、ベネチアに売り込んだのである。
これが高額で売れたので、さらに性能のいい三号機を作り上げ、それを待ちに待って、空に向けたのであった。

というわけで、われら星虫たるもの、ガリレオのことは少しは人より詳しく知っておかねばなるまい。
今後折に触れ紹介しよう。画像はガリレオの生地ピサ。