a journal of sociology

社会理論・現代思想を主に研究する今野晃のblog。業績については、右下にあるカテゴリーの「論文・業績」から

言語をめぐるエトセトラ。

2007年10月11日 | 研究生活
 これは、かなり前の出来事を交えての話なのだが……。

 かつて非常に親しかった私の友人で仏語を母語とするベルギー人の友人がいた。この彼女、日本語を勉強していて日本にも留学していたのだが、ベルギー国籍と仏国籍の二重国籍取得者であった(母親が仏人だったので)。で、この彼女にあるとき話をしたのだが、「日本語と仏語は世界の中で最も難しい言語ではないか」ということ。ただしそれは、「文法が難しい」とか「独特の言語」とか、「美しい言語」などという理由では全くなく、「これだけの人口規模で、これだけ均質な言語が話されているのは他に例がないから」というきわめて社会的な状況に理由があるのだが(あくまで私の私的意見)。

 こんなことを話すのは、今日、講義でアンダーソンの話をしたからかもしれないが。いずれにしても、彼女も私の意見に同意していた(彼女はアンダーソンの存在など知らない学生だった)。
 英語の場合、母語としてではなく使用している人の方が多いし(そもそも英語と米語でも正当性が曖昧だし)、スペイン語も南米圏を考えれば同じ事が言えると思うし、スペイン国内でさえカタローニャの存在もある―おそらく中国語のマンダリンなども同様ではないだろうか。ドイツ語の場合、国内でも様々な差異があるという。

 ということで、話者に対して「母語としてのレベル」が要求される希有な言語と、日本語と仏語は言えるかもしれない。

 なぜこんな事を言うのかというと……(これからは伏せ字の話になってしまうが)

 日本でも指折りの仏語の使い手として名高いある先生の仏語(その方にとって、仏語は母語の一つ:つまりフランス育ちらしい)について、今では有名なNさんと昔は無しをしたことがあった。で、下世話な比較話なのだが、セイン・カミュの日本語のレベルと、その○○先生の仏語のレベルでは、どちらが上か? という質問を、そのNさんにしたのだった。そのNさんは、もとより駒場出身で、その先生の仏語を平静から知っていたと思う。で、彼の答えは、「それはセイン・カミュの方が上でしょう」ということだった。まあ、セイン・カミュにとって日本語は母語だし、一時大学で米に渡ったらしいが、その後日本に戻っているので、それは当然かもしれないが。

 と言うより、そうした彼を「外タレ」と認識している方がおかしいというもの。

 さて、それからもう一人、パリの大学で日本学科で教鞭を執っているY先生という方がいる(仏の日本研究に精通している方や、パリに滞在された方だったらすぐにわかると思われるが)。ただ、彼のいる大学は近々(すでに?)パリから引っ越すらしいが。この方、村上春樹論などを書いており、私も来年のある講義で使おうと考えている(「外から見た日本」と言う視点で、日本社会論を展開するつもりなので)。

 私の共同研究者は、彼の講義を取ったことがあるのだが、あ、あと私の留学した街の親友もその先生の講義を取ったことがあると言っていたが、ともに「あの人の仏語はスーパーグッドsuper bien」と言っていた。まあ、その方は話によると、仏生まれで仏育ちなので、当然と言えば当然だが。
 私はあるとき、日仏学院の企画で、ある著名な哲学者がインターネットを使った講演を行ったとき、あちら側の通訳としてその方が通訳をしているのを聞いたことがあるのだが、確かにすばらしい仏語なのだが、私にとっては「仏人の仏語」以外の何ものでもなかった(留学時、私の周囲には日本人の知り合いがいなかったため、仏語を話す人はほとんど仏人という環境にあったためだが)。

 それだけできて、「普通の仏人のフランス語」のレベルと考えると、本当に「母語としての言語は難しい」。

 なんか、話のオチになっていないのだが、この辺で(本当の「オチ」は次回にでも)


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