犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

冷泉彰彦著 『「上から目線」の時代』 その3

2012-05-12 23:34:03 | 読書感想文

p.115~ (動物愛護の問題を、国家刑罰権の発動の問題に置き換えてみます。)

 ここで、「厳罰を求める犯罪被害者」と「厳罰を科せられる加害者」の力関係をどう捉えるかという視点から考えてみると、どうだろうか?

 まず、「刑罰は国家による人権制約の最たるものである」と考えている人は、「国家に刑罰権を委ねた国民>生命・身体の自由を侵害される受刑者」という力関係を前提にしている。一方で、「人は自ら犯した罪に対して相応の償いをしなければならない」という人は、「自己の意志で他人の人生を奪った加害者>理不尽に人生を奪われた被害者」と考えているわけだ。そこで、この2つの不等式を結びつけると、「国家刑罰権の危険性を認識している人権派>犯罪者>厳罰を求める被害者」ということになるだろう。

 重要なのは、この「人権派>犯罪者>被害者」という力関係の不等式を理解しているのは、犯罪被害者のほうだということだ。「何の罪もない被害者は理不尽に人生を奪われたのに、罪を犯した側と支援者は罪よりも罰を問題とし、犯罪被害を受ける苦しみには関心がなく、身柄拘束や取り調べの苦しみばかりを主張する」ということである。これに対して、人権派の感覚では、「人権侵害である刑罰の積極的な発動を叫ぶ被害者>加害者=刑事弁護人及び支援者」という理解であり、犯罪被害者が目の前の絶望的な事態から「加害者>被害者」という感覚を持っていることには気づかない。

 この点に関して言えば、まずは人権派の側が被害者側の論理を理解することができれば、少し問題解決への手掛かりができるのではないだろうか? その第一歩は、人権派側の意識改革だと思われる。

(続きます。)