犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

冷泉彰彦著 『「上から目線」の時代』 その2

2012-05-10 23:03:39 | 読書感想文

p.113~ (動物愛護の問題を、死刑の問題に置き換えてみます。)

 国家として死刑を存置するか廃止するかという問題は、個々の犯罪被害と刑罰の問題とは構造が異なる。それは、理念的な対立が広く社会に起きているということだ。死刑賛成派と反対派は、実際に殺人事件を体験した当事者を越えて、幅広い議論、幅広い対立を作ってしまうのだ。これは、世論の注目を集める判決や、裁判員制度の導入にも関連して、スケールの大きな論争になっている。

 それは、「加害者の論理」と「被害者の論理」が対立しているという構図だ。無知と貧困ゆえに犯罪者に堕ちた者にしても、恵まれない家庭に育ったために悪の環境から抜け出せなかった者にしても、「更生への手助け」「何度でもやり直せる社会」と言っている人たちにあるのは、周囲の人間は「加害者の立場」なのだから、加害行為を反省することが大事だという姿勢である。一方で、「死刑やむなし」という意見の背後にあるのは、凶悪犯罪者に危険性と不当性を感じている者であり、つまり「被害者」の立場だということになる。

 問題は、こうした「加害者の論理」と「被害者の論理」が衝突しがちだということだ。衝突のパターンは決まっている。「加害者の論理」から自省が大切だと思っている人からは、死刑に賛成する人は不道徳に見える。たまたま恵まれた家庭に育って犯罪とは無縁に生きている人々が、残虐な刑罰である死刑によって、やむを得ず犯罪に追い込まれた人間の生命を奪うことに賛成している、これは許せないというわけである。その結果、死刑廃止論者は、死刑賛成派や犯罪被害者遺族に対して、ある種の侮蔑の意識を持って対することになってしまうのだ。

 この無自覚な侮蔑意識は、「被害者の論理」の側には困惑を生じるだけだ。「犯した罪に対してはそれ相応の償いをしなければならない」「生命を奪った者が償いをなし得るとすればそれは生命をもってするしかない」という当たり前のことを言っただけで、どうしてそこまで批判されなくてはならないのか? という困惑は、次の瞬間には怒りに転じるのだ。殺人者のことは無条件に擁護しつつ、「死刑という殺人」を肯定する者に関しては不当なまでの侮蔑を持って攻撃してくるあの人たちは、到底理解できない。そんな怒りである。この対立構図は、いったんお互いを罵倒し始めると暴走する傾向がある。

(続きます。)