犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

群馬・藤岡の関越道バス事故 その2

2012-05-02 23:57:04 | 時間・生死・人生

 世の中の経済を回しているのは、ビジネスの第一線で活躍するビジネスリーダーと、寝食を削って働くビジネスマンです。すなわち、ビジネスモデルを構築し、市場のトレンド及び顧客のニーズを読み、コンサルティングを行い、マーケティング戦略に優れ、コストパフォーマンスに精通し、カスタマーサービスによってリピーターを獲得し、リスクマネジメントによってトラブルを予防し、コンプライアンスは適当にやり過ごし、経営資源であるヒト・モノ・カネを上手く使える者が、経済社会を担っているものと思います。ここでは、人の生死すらもビジネスチャンスの材料となり得ます。

 居眠り運転が完全に予防できないとなれば、人命が失われないバスや道路を作るべきだという議論に流れるものと思います。すなわち、バスの車体の軽量化や、防音壁とガードレールに隙間があったことの問題です。これは、単に行き場がなくなった議論が向かう必然であり、企業の体力や人件費について検討しているわけではなく、このような問題意識が長続きすることはないと思います。ビジネスの現場において最も力を持つ問題意識は、事故が経済に与える影響です。どんな大事故や大災害に接しても、反射的に株価の上下に頭が回る能力のある者が、実際に経済社会を動かしているからです。

 ツアーバスの最前線の従業員からは「いつか起きると思っていた」「明日は我が身」との声が聞かれ、法令が無視されていた常態が明らかになっています。これらの実態に非難を浴びせ、徹底的な原因究明を求めるに際して、自己欺瞞の心情が混じらないのは、世間知らずの批評家だけではないかと思います。需要と供給の力学の中で労働力を売る者の無力感や、肌で感じる上下関係や権力関係の抗い難さは、確かに不況の社会では目立ちやすいと思います。しかし、好景気であれば、やはり儲け優先となり、法令が無視される状態は変わらないはずです。

 私は1人の人間として、新聞の1面に載る大事故に接するたびに、「このような事故がなくなることを願う」無名の個人の小ささと、それに安住していることの偽善性に苛まれます。しかしながら、このような絶望の仕方こそが自惚れであり、半径数メートルの小さな世界から途中を全て飛ばして、世界に向かって独り相撲を取っているような感もあります。事故の原因を遡って考えるならば、自分が把握している世界の側を入口とせざるを得ないことは確かだと思います。「いつか起きると思っていた」にもかかわらず、これが防げなかったことの理由の認識は、この方法でなければ空論に堕するだろうと感じるからです。

(続きます。)