犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

鈴木謙介著 『カーニヴァル化する社会』

2012-05-30 00:04:58 | 読書感想文

p.172~

 文科系の学問で論文を書くときには、いつも最初に「問題点の所在」から書き始めなさい、という指導をされるわけだが、私自身「社会問題など存在するのだろうか」と、ずっと戸惑っていた。少なくとも実感のレベルで、身を切られるほどの痛みが、社会へと接続される、したがって社会的に解決されるべき問題として認知されたことは、私自身にはほとんどなかった。

 あるいは周囲の人間が、本当はまったく「社会問題」の所在を信じていないにもかかわらず、卒論や修論を書かなければ、という具体的な理由から、どうにかして「社会問題」をひねり出してくるのに苦労するのを見るにつけ、そもそも「社会問題の存在」そのものが、そして社会問題へと向けられる学者の側の動機こそが、問題にされなければならないのではないかと思っていた。


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 年間3万人以上が自殺に追い込まれている現代の日本社会において、「社会問題」を正当に語り得る者は、自殺直前の者をおいて他にないと感じます。貧困、失業、パワハラ、いじめなど、社会の病理を他人事としてではなく、自己の心の奥底から湧き上がってくる感情と論理で捉え、その破壊的衝動が極点に達する人間の行動様式の前には、どんな高名な学者の肩書きも霞まざるを得ないと思います。

 社会は人間の集まりの別名である以上、社会問題とは人間の問題であるしかないと思います。そして、「この社会の他人は問題ではない」「この自分の人生の問題だ」という内向的な力が強いほど、その力は普遍に反転するものと思います。ところが、自ら命を絶った者のその直前の瞬間は言語化できず、この種の文字を残せる者はこの世に存在しません。「社会問題の存在」から始まる論文に迫真性を欠けることの裏返しだと思います。

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