犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「交通事故遺族の会休止後も活動続ける 福岡の夫妻」 その2

2012-05-19 23:26:49 | 時間・生死・人生

 国家権力による復讐代行か、あるいは社会全体の修復か、国民1人1人が刑罰のあり方に対して責任を負うといった議論を主眼とする刑事政策論は、各種の「遺族の会」に対しても二元的な評価を行いがちだと感じます。すなわち、厳罰感情を維持・増幅する団体には消極的な評価が、厳罰感情を抑制・緩和する団体には積極的な評価が向けられるということです。しかし、これも私が見聞きした範囲での結論ですが、それぞれに不幸である家庭が集まった各種の「遺族の会」は、法律家が机上で考えた図式には収まりようがないと思います。

 取り替えが効かない人生において突き詰められた死生観は、客観的評価を拒みます。全ての色が失われた世界において、富や名誉が無価値となったとき、人が頼れるものは言葉のみです。それだけに、絶望の状態を支え得る言葉、あるいは心が弱っている時に耳が傾けられる言葉は、他人にも適用が可能な原理主義的なものにならざるを得ないと思います。すなわち、ある世界を強烈に信じることを前提とした現状の正当化であり、価値相対主義の入る余地がなく、他者への強制が必然となる種類の思想です。

 ここでの柱は、「いつまでも悲しんでいては死者が喜ばない」、「人は死別の悲しみを乗り越えることによって成長する」といった言葉に集約されるものと思います。これが人生の意味にまで拡大されれば、「人は誰もが試練を乗り越えるために生まれてきたのだ(神は乗り越えられない試練は与えない)」、「この交通事故にも何かの意味がある(起きていることはすべて正しい)」といった論理に至ります。そして、それぞれに不幸な家族を一瞬にして幸福に転化させようとする力は、一瞬にして「遺族の会」に不協和音を生み出すように感じます。

 刑事政策論は、心のケアによる厳罰感情の緩和の必要性を簡単に述べ、各種の「遺族の会」に対しては被害感情を抑制する限りで積極的な評価を与えがちだと思います。しかし、現実はそう単純ではないと感じます。私が見聞きした範囲での結論ですが、「遺族の会」の内部での食い違いは、政治的な内ゲバの形式ではなく、至って内向的であり、狂気を含んでおり、それぞれが自問自答しており、利権が生じることもなく、外部からは想像もつかない論点が生じ、それぞれの不幸は一点にまとまりようがなく、既成概念に頼れない種類のものと思います。

 デモ行進などによる政治的発言力の拡大が世の中を変える言動力だと信じられている社会において、活動の休止後も「同じような目に遭った人をこれからも支えたい」として地道に相談や提言を続ける原田さんご夫妻に対して私が感じるのは、純粋な敬意と畏怖のみです。そして、この敬意と畏怖は、このような相談の成果に便乗して「被害者遺族も厳罰を求めていない」と主張し、難なく寛大な刑を得ている実務家への軽蔑の念の裏返しです。また、社会に対して自分の発言を売り込むことしか考えていない学者への軽蔑の念の裏返しでもあります。