犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

群馬・藤岡の関越道バス事故 その3

2012-05-04 00:04:27 | 時間・生死・人生

 「命を返してほしい」という言葉は、これを聞く者の構えによって、最も重い言葉にもなれば、最も軽い言葉にもなるように思います。「何をやっても死者は帰らない」という現実を前提として、事故はいつでもどこでも起き得るものであり、かつ現にあのような形で事故は起きており、他方で事故はそれ以外の形では起きておらず、生きている者は自分が努力したから生きているのではなく、死者は自分が努力しなかったから命を失ったのでもないと見抜いたとき、「命を返してほしい」という言葉は、最も重い言葉になります。これは、死者自身が肉親や知人の口を借りて話さなければならない論理です。

 現在の日本社会で、「命を返してほしい」という言葉を最も重い意味で聞くことは、なかなか困難なことだと思います。人間の心の中は画像には絶対に映らず、その語った言葉も内心そのものではありませんが、取材と報道のカメラは人間の顔を映し、かつ語られた言葉を字幕で流します。そして、この映像は、画像に映らない人間の内心の把握を妨げます。このような中で視聴者に伝えられた「命を返してほしい」という言葉は、必然的にお涙頂戴の白々しい台詞になるものと思います。これは、報道の自由やプライバシーの権利の問題意識とは異次元のものです。平時の報道の質が軽ければ、視聴者もこれに影響されます。

 失われた命を戻すという不可能があえて要求されるとき、「それなら一体どうすればいいのか」という問いが生じます。そして、この要求が自己目的であることが判明したとき、これは最も軽い言葉として受け止められることになります。現代の情報化社会では、被害者特権を利用して同情を得ることへの感度が敏感であり、これに対する批判も辛辣だと思います。実際のところは、命が返って来ないのであれば、原因究明も再発防止も意味がなく、世の中の全員が不幸になればよく、地球が滅亡すればよいことが言外に示されており、批判されるべき内容は桁外れに巨大だろうと思います。

 「命を返してほしい」という論理は死者自身が語り得るものですが、「死を無駄にしない」という論理は遺された者の解釈であり、死にたくなかった死者はこれを語らないだろうと思います。生きている者が言葉にならない言葉を絞り出すならば、死を無駄にしないことだけがせめてもの意義だと言うしかないですが、そこで言われていることは、本当は意義など存在しないということだと思います。死を無駄にしなかったのであれば、死に意味があったということになりますが、死はあくまで無意味でなければならず、意味付けが拒まれるべきものです。死を無駄にしようがしまいが死者は戻らず、「命を返してほしい」という言葉が残らなければならないのだと思います。