犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

冷泉彰彦著 『「上から目線」の時代』 その4

2012-05-14 23:41:07 | 読書感想文

p.132~ (動物愛護の問題を、国家刑罰権の発動の問題に置き換えてみます。)

 対立のポイントは「世界観」である。どうして世界観は対立になるのか、それは「世界」に例外があってはならないからであり、「世界観論争」とは相手を屈服させて服従させるかどうかの「絶対的な勝ち負けの世界」であるからだ。たとえば、「国民の人権を守るためにある近代国家が法の名において人権侵害である刑罰を発動するのは矛盾だ」という世界観の立場からは、理由はどうあれ、厳罰を正当化するような意見は絶対に許せない。厳罰を口にする人間の存在自体が悪なので、全面的に相手を屈服させなければ我慢がならない。

 「世界観」というときの「世界」には、論争の相手も含まれるので、自分の世界観が正当だと信じれば信じるほど、相手を自分の世界観に服従させなければならないという暴力的といってよいような信念を抱いてしまうのである。そこで、論争は「勝ち負け」の世界になり、そのプロセスにおいては「正しい自分」が「誤った相手」を常に見下すというコミュニケーションスタイルになってしまう。つまり、世界観を争っている限りにおいて、お互いに「上から目線」になるのは一種の必然なのである。


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 刑罰に関する法改正が問題となる場面では、それぞれの立場からの賛否両論が起こるのが通常のことと思います。厳罰反対派に対しては「被害者のことを理解していない」との批判が向けられますが、厳罰賛成派に対しても、「被害者本人でない者が被害者を代弁するのは僭越だ」との批判が向けられるのを目にします。そして、肝心の被害者本人は、この「世界観論争」に参加することは難しいと思います。

 これも私の狭い経験からの感想であり、今のところ犯罪被害者でない私がこれを語るのはまさに僭越なのですか、犯罪被害というのは、この「世界」を崩され、「世界観」が持てなくなることを指すのだと思います。すなわち、現実の人生と抽象的な思考が一致し過ぎてしまって、自主的に世界を把握して世界観を持つという思考の形式が不能になるということです。その意味では、厳罰を求める被害者を厳罰派に分類することは乱暴ですし、厳罰を求めない被害者の存在を政治的主張の根拠に用いることは軽率だと思います。

 厳罰反対派にとって、最大の壁は厳罰を求めている被害者本人です。しかしながら、被害者に対して「上から目線」により屈服を求めるのは逆効果であり、ここでは「下から目線」による懐柔策が採られるのが通常と思います。これは独特の反転の形式であり、殺し文句のフレーズが多数保有されています。例えば、「厳罰よりも心のケアこそが大切なのだ」「報復は何も解決しない」「恨みや憎しみの連鎖からは何も生まれない」「復讐心は被害者自身を不幸にする」といった言葉です。

 これらの言葉を投げつけられることは、被害者本人にとっては身を切られるほど残酷な事態であり、心の底から腑に落ちることは殆どないだろうと思います。(あくまでも私の狭い経験からの勝手な想像です。)そして、世界を破壊されて世界観を持たない被害者は、この「世界観論争」の問いに正面から向かうことができず、聞き役を務めるしかないと思います。もし、ここで相手を自分の世界に服従させようと思えば、相手が同じような犯罪被害を受けた者でない限り、自己嫌悪に追い詰められるしかないのだと思います。