犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

群馬・藤岡の関越道バス事故 その1

2012-05-01 23:53:05 | 時間・生死・人生

 大事故の報道に際して語られる言葉は、論理の流れそのものが固定観念の内にあり、受け取る側もそれ以外の論理の想定が困難となるように思われます。これは、現実を前にして言葉を失うという事態とは異なり、言葉が慎重に選ばれた結果、口が噤まれている事態です。平時に根拠を伴って論証されている主張は、いかなる場面にもあてはまる普遍的な真実のような形をしています。しかしながら、極限まで問い詰められると破綻するような論理は、有事には門外漢を装わざるを得なくなるものと思います。

 大事故の検証に際しては、「安全教育」「過重勤務」「過当競争」「労務管理」といった四字熟語が多くなる一方、カタカナで表記される抽象概念は姿を消すように感じます。例えば、「コンプライアンス」です。企業の社会的責任の不履行、不祥事による信用失墜といった捉え方は、大事故で失われた人命の前には軽すぎるものと思います。「リスクマネジメント」も同様です。不測の損害を最小の費用で効果的に処理する経営管理手法は、死者に向き合う論理としての適格を有しませんので、事故の直後には語れなくなるように思います。

 「ビジネスモデル」「コストパフォーマンス」「マーケティング」といった用語も同様と思います。利益を生み出すサービスに関する事業戦略や収益構造、費用対効果といった考え方は、まさに事故を促進する要因として非難される場面であり、世論の顔色を窺いつつ後退せざるを得ないものと思います。価格破壊による過当競争が安全を犠牲にしたという分析は、もはや言い古されたことであり、人の命が失われなければ忘れられます。経済社会は、人命尊重はビジネスとして成り立たたないという認識で回っているものと思います。

 「カスタマーサービス」など、顧客の命が奪われた場面では不相応です。「コミュニケーション能力」「キャリアアップ」といった将来への投資は、人の命は次の瞬間にも保障されていないのだという現実の前には無意味です。「メンタルヘルス」など、突然肉親を喪う価値観の崩壊を想定したものではありませんし、「ビジネスマナー」は席の場所で生死が分かれた現実とは次元を異にします。「モチベーション」など、有事に際して人間の極限的な精神力が問われる場面では語りようがないと思います。

(続きます。)