犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

群ようこ著 『おんなのるつぼ』より

2011-09-03 23:26:39 | 読書感想文
p.61~

 他人の発言をのっけから全否定する人間に対して、積極的に友だちになろうという人はいないだろう。異性はともかく明らかに同性の友人はいないと思われた。少しでも彼女と同じ土俵に立った人は、迫力のある、「それは違う」の全否定攻撃に遭い、びっくり仰天して腰が引けてしまうだろう。
 人はみな同じ意見ではないから、見解の相違がある。それを話し合っていくのが大人だが、彼女たちにはそれはない。心の底から自信を持っているわけではないのだ。相手の話を聞く余裕もなく、のっけから爆弾を落として相手をびびらせる。自分と同じ意見が出たとしても、自分だけが正論をいったという方向に持っていきたがる。

 きちんと自分に大人としての自信が持てる人は、相手の話も聞き、意見の相違があっても、静かに話ができる。とにかく何であっても、相手のいうことをのっけから否定するということは、それによって自分を相手よりも上の立場に押し上げ、優越感に浸れる。そのようにして相手と関わろうとする人間は、どんな立場の人であろうと、心が貧しくて哀しすぎる。
 攻撃は最大の防御なりを地でいくのは、自分が弱いということを公にしているのと同じだ。本当に強いのは他人に譲ったり、引くことを知る、精神的に余裕のある人間だと思う。少しでも先に行きそうな人がいると足を引っ張る。ああ、もうなんて大変な人生なんだろうか。


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 「他人の発言をのっけから全否定する人間に対してどう対処すればよいのか」という問題に対し、ビジネス本・ハウツー本・自己啓発本の切り口から解答を求める場合と、エッセイの中からいつの間にか解答らしきものを得てしまう場合とでは、いくつかの根本的な違いが生じるように思います。
 
 解答らしきものは解答でなくても構わず、その人のエッセイである以上他人に当てはまらなくても当然であり、しかも論証による説得の要請から解放されており、読み手の側に裁量が委ねられる点において、エッセイから無意識に得られた解答は深く心に残るものと思います。