犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

浅田次郎著 『僕は人生についてこんなふうに考えている』より

2011-09-06 23:48:26 | 読書感想文
p.201~

 かねてより、小説家は聖職であると考えている。小説の始源は聖書であり仏典であり、数々の神話であり、読み書きを知らぬ多くの人々に人間として生きる道や秩序や道徳を、たとえ話の形で教示しようとしたものであると、私は信じている。むろん、その使命は今日も喪われてはいないと思う。だから今日も、良い小説は読者に思惟をもたらし、勇気や希望を与え、生きる糧となる。神はそのために、物語という嘘をつく特権を、小説家にのみ与えたのではあるまいか。

 人間は万物の霊長などではなく、実は鳥獣草木とわずかな一歩を隔てた、愚かな人間獣に過ぎない。そしてその「一歩」をかろうじて保障するものは、進化の過程でたまさか手に入れた「火」と「言葉」であろう。「火」は物質的文明として進歩し、一方の「言葉」はそれを担保する人間社会と個々の精神とを支え続けてきた。この両輪のバランスを喪えば、人類はたちどころに一歩を後退し、いつか破滅する。

 めざましい回転を続ける物質的文明の動輪を制御する力は、「言葉」でしかありえない。そしてその「言葉」の聖火は、遥かな昔から小説家という聖職者の手によって享けつがれてきたのだと私は思っている。詭弁かもしれない。だが少なくとも、このくらいの理想を掲げていなければ、登場人物の生殺与奪をほしいままにする小説家の仕事は、ただの一篇も成り立たない。あるいは小説家の人生そのものが自ら作り出した物語の世界に引きずりこまれて、正体を喪う。


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 法律事務所に初めて法律相談に来る人の多くは、口から言葉がほとばしり、その中にはその人の人生が凝縮されています。相談者は私に対し、私小説を代筆してもらうことを望み、私はその求めに応じて相談者を主人公とする小説を書くことを望んでいます。しかしながら、事件を受任して最後に出来上がった陳述書や準備書面は、生きた人間の言葉とはほど遠く、裁判に勝つためのぎこちない単語の羅列になっているのが通常です。

 勝ち負けを争う裁判においては、原告と被告の言い分が食い違うということは、(1)一方が嘘をついているか、(2)双方が嘘をついているかのいずれかの可能性しかありません。そして、真実か嘘かの判定は、証拠との突き合わせによってなされます。そこでの人間の言葉は、秘密裏に録音されたテープや、権利義務を認める念書に形を変えます。但し、偽造の主張や筆跡鑑定など、争いは細分化します。

 小説家と同じく言葉を扱う法律家が聖職たりうるためには、裁判のルールにはそぐわない事態、すなわち(3)当事者の双方とも本当のことを言っているという状況が可能でなければならないと思います。原告と被告双方の人生が凝縮された言葉の矛盾において、初めて「物語という嘘」が可能となるからです。そして、この意味において、裁判のルールに従う法律家が、小説家と同じ意味での聖職者たることは不可能と思います。

宮部みゆき著 『堪忍箱』より

2011-09-04 00:04:20 | 読書感想文
p.239~ 金子成人氏の解説

 江戸の市井の人々の日常の暮らしの中の、ささやかな夢や希望、せつせつたる思いや呟きや吐息が作者の手にかかると珠玉の輝きを放つ。でもそれはドンとふんぞり返ってもいないし、これ見よがしでもない。描かれる人物たちの思いがまるで織物のように縦横に編み込まれている、そのほんの少しの編み目の隙間からその珠玉は顔を覗かせているのだ。

 僕は偉人伝とか歴史上有名な人物たちとかは余り書きたいと思わない。立派な人よりもどこか変な奴、正しい人よりも姑息な奴、純粋な人よりもどこか世俗にまみれている奴を書きたい僕としては『堪忍箱』を表題とするこの短編集も期待を裏切られなかった。平凡な日常のなかで生きる名のない人達の一瞬の心の闇、輝き、悲しみ、やるせなさ、いじらしさが活写されている。


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 この地球に全く同じ日に生まれた人であっても、ある者は歴史に名が残り、ある者は全く歴史に名が残りません。人類の営みとはこの繰り返しであり、これが人類の歴史と呼ばれるものだと思います。「歴史に名が残った」という言い方も本来は転倒しており、名が残っているその者の意志の別名が歴史の実体なのでしょうし、「偉人が歴史を動かした」のではなく、動いたその結果として偉人が誕生した過程が歴史の実体なのだと思います。その意味では、「教科書に出てこない市井の人々の生活にこそ本当の歴史がある」とは、単純には思いません。

 しかし私は、歴史上有名な人物の話よりも、平凡な日常の中で生きた名のない人達の話の中に、過去の事実の正確な復元を感じるものです。これはまさに名もないという点において、人間はどの時代の誰でもあり得るのであり、人物のほうが匿名である限り、事実のほうは嘘であると断定できないことによります。他方で、歴史上の有名人として実名が挙げられてしまえば、あとは後世の脚色によって嘘ばかりが語られることになります。少なくとも、教科書のに出てこない市井の人々の歴史においては、歴史認識を巡る争いは起こり得ず、歴史の本来的意味の保持が可能だと思います。

群ようこ著 『おんなのるつぼ』より

2011-09-03 23:26:39 | 読書感想文
p.61~

 他人の発言をのっけから全否定する人間に対して、積極的に友だちになろうという人はいないだろう。異性はともかく明らかに同性の友人はいないと思われた。少しでも彼女と同じ土俵に立った人は、迫力のある、「それは違う」の全否定攻撃に遭い、びっくり仰天して腰が引けてしまうだろう。
 人はみな同じ意見ではないから、見解の相違がある。それを話し合っていくのが大人だが、彼女たちにはそれはない。心の底から自信を持っているわけではないのだ。相手の話を聞く余裕もなく、のっけから爆弾を落として相手をびびらせる。自分と同じ意見が出たとしても、自分だけが正論をいったという方向に持っていきたがる。

 きちんと自分に大人としての自信が持てる人は、相手の話も聞き、意見の相違があっても、静かに話ができる。とにかく何であっても、相手のいうことをのっけから否定するということは、それによって自分を相手よりも上の立場に押し上げ、優越感に浸れる。そのようにして相手と関わろうとする人間は、どんな立場の人であろうと、心が貧しくて哀しすぎる。
 攻撃は最大の防御なりを地でいくのは、自分が弱いということを公にしているのと同じだ。本当に強いのは他人に譲ったり、引くことを知る、精神的に余裕のある人間だと思う。少しでも先に行きそうな人がいると足を引っ張る。ああ、もうなんて大変な人生なんだろうか。


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 「他人の発言をのっけから全否定する人間に対してどう対処すればよいのか」という問題に対し、ビジネス本・ハウツー本・自己啓発本の切り口から解答を求める場合と、エッセイの中からいつの間にか解答らしきものを得てしまう場合とでは、いくつかの根本的な違いが生じるように思います。
 
 解答らしきものは解答でなくても構わず、その人のエッセイである以上他人に当てはまらなくても当然であり、しかも論証による説得の要請から解放されており、読み手の側に裁量が委ねられる点において、エッセイから無意識に得られた解答は深く心に残るものと思います。