犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

藤堂志津子著 『愛犬リッキーと親バカな飼主の物語』

2011-09-09 23:28:14 | 読書感想文
p.18~
 血統書つきの犬や猫をせっせと繁殖させ、ひたすら金儲けの手段とする。やがて交配にだけ役立たせた老犬を、うんと若い年齢にいつわって、新聞の「ゆずりますペット・コーナー」に載せて、ていよくお払い箱にする……。
 こういう話を聞くと、私はムカムカする。こと人間に対しては薄情どころか非情なるろくでなし、という非難をまわりから甘んじて受けている私ではあるけれど、猫や犬、もしくは、まだ言葉もろくにしゃべれない子供たちへの非道な扱いには、おなかの底から怒りがこみあげてくるのだ。その怒りを、では、どう具体化しているのかというと、まったくなんにもしていないし、しようともしない、ろくでもない私がいるのだけれど。ただ何かの本で読んだことがある。「ブリーダーは金儲けだけの気持からはできないし、また、やったにしても長つづきはしない。犬や猫への愛情がその基本である」。
 この本を、私はあの30代後半とおぼしき夫婦者とペット店の女主人につきつけてやりたかった。しかし、やはり小心に、細心に、小市民的につつがなく暮らしていたい私は、それをしない。不快な現場から、こそこそ逃げ去るだけだ。

p.98~
 その夜、私はリッキーを胸に抱き、くり返し謝った。謝っても、謝っても、自分が許せなかった。しかし、こちらの気持だけは伝わるのか、リッキーは、まるで「いいよ、気にしないで」の返事のように、私の顔を熱心になめつづけた。リッキーが許してくれても、やはり私は自分が許せない。
 死んだバッキー、その前に飼っていた雑種犬のクロスケ、さらにそれ以前にいたダックスフントのボビー、小学生の私がはじめて親に泣いて頼んで飼った雑種犬のリュウといった、亡くなった4匹の犬たちのことが交互によみがえってもきた。4匹ともみな病気で死なせてしまったのだ。そして4匹に対する罪悪感を、私はいまだにひきずっていた。仕方のないこと、とまわりは言う。けれど私の心からは、あのときこうしていれば、こうやっておけば、という悔いが消えたことがなかった。
 多分、と思った。多分、私はこうやって後悔をかみしめつつも、悟るということはけっしてなく、おろおろ、じたばたしながら、一生、犬や猫にかまけつづけるのだろう。リッキーを、いつかあの世に見送ったときも、きっと私は二度と犬は飼わないとは言わないだろう。ふたたび飼うかもしれない自分が、すでに見えているから。


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 この本のカバーには、「無上の愛が読む者の胸を熱くする汗と涙の愛犬エッセイ」との紹介文があります。私は、自分がこのような能書きにより「読む者」の中に入れられることに対し、いつも何とも言えない違和感に苛まれます。エッセイの読み方には正しいも間違っているもなく、私の違和感はもとより孤独なものだと思います。

 私は読書感想文と評して本の一部を恣意的に引用するとき、本の全体のテーマとは全く関係なく、一般的な書評と自分の違和感との懸隔を示す部分に引かれているように思います。上の引用部分も、特に印象に残ったとか、感銘を受けたという部分ではありません。エッセイから何らかの教訓を得ることは、突き詰めれば独善に至るものと思います。