犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

宮部みゆき著 『堪忍箱』より

2011-09-04 00:04:20 | 読書感想文
p.239~ 金子成人氏の解説

 江戸の市井の人々の日常の暮らしの中の、ささやかな夢や希望、せつせつたる思いや呟きや吐息が作者の手にかかると珠玉の輝きを放つ。でもそれはドンとふんぞり返ってもいないし、これ見よがしでもない。描かれる人物たちの思いがまるで織物のように縦横に編み込まれている、そのほんの少しの編み目の隙間からその珠玉は顔を覗かせているのだ。

 僕は偉人伝とか歴史上有名な人物たちとかは余り書きたいと思わない。立派な人よりもどこか変な奴、正しい人よりも姑息な奴、純粋な人よりもどこか世俗にまみれている奴を書きたい僕としては『堪忍箱』を表題とするこの短編集も期待を裏切られなかった。平凡な日常のなかで生きる名のない人達の一瞬の心の闇、輝き、悲しみ、やるせなさ、いじらしさが活写されている。


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 この地球に全く同じ日に生まれた人であっても、ある者は歴史に名が残り、ある者は全く歴史に名が残りません。人類の営みとはこの繰り返しであり、これが人類の歴史と呼ばれるものだと思います。「歴史に名が残った」という言い方も本来は転倒しており、名が残っているその者の意志の別名が歴史の実体なのでしょうし、「偉人が歴史を動かした」のではなく、動いたその結果として偉人が誕生した過程が歴史の実体なのだと思います。その意味では、「教科書に出てこない市井の人々の生活にこそ本当の歴史がある」とは、単純には思いません。

 しかし私は、歴史上有名な人物の話よりも、平凡な日常の中で生きた名のない人達の話の中に、過去の事実の正確な復元を感じるものです。これはまさに名もないという点において、人間はどの時代の誰でもあり得るのであり、人物のほうが匿名である限り、事実のほうは嘘であると断定できないことによります。他方で、歴史上の有名人として実名が挙げられてしまえば、あとは後世の脚色によって嘘ばかりが語られることになります。少なくとも、教科書のに出てこない市井の人々の歴史においては、歴史認識を巡る争いは起こり得ず、歴史の本来的意味の保持が可能だと思います。