犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

角川歴彦編 『テロ以降を生きるための私たちのニューテキスト』

2011-09-11 00:41:25 | 読書感想文
p.8 片岡義夫「すべての人は暗雲の下に」より
 二分法のきわめつけは、テロリストたちの攻撃があった次の日、大統領が発表した声明のなかにあった言葉だ。「善と邪との途方もない戦いになるだろう」と、大統領は言った。善をつきつめていくと神につきあたる。邪ときめつけられたほうにも、つきつめるとそこには神がいる。だからいったん善と邪の戦いだと言ってしまったら、それは宗教戦争以外のなにものをも意味しない。

p.22 大塚英志「戦後民主主義のリハビリテーション」より
 ブッシュ政権が「映画のような戦争」と「現実の戦争」との間で舵取りを強いられたのに対し、この国では「ワイドショーの中の戦争論」を首相も国民も一体となって生きている。乖離と敢えて記したのはアメリカのように「仮想現実」と「現実」の間に齟齬や軋轢が生じてはおらず、前者のみがただ肥大してあり後者の水準で今回の事態を認識し、言語化するという作業が全く欠落しているのが現時点での光景だからである。

p.56 森達也「世界はもっと豊かだし人はもっと優しい」より
 9月11日の映像に関して言えば、テレビ画面は徹底して無力だった。混乱し錯綜しスタッフの怒鳴り声が聞こえ、情報を常に商品として2次3次加工するはずのテレビメディアが、痛々しいくらいの現実を為す術もなく映しだすばかりだった。昂揚も主張も諧謔も何もない。たぶん世界はあの数時間、あらゆる感情を喪失し、ただ茫然と立ち尽くしていたと思う。端的に言えば「身も蓋もない」。

p.64 養老孟司「米国文明の未来」より
 歴史とジャーナリズムは似ている。これらの分野の前提に従うと、世の中が「できごとの連続」に見えるからである。それなら「起こらなかったこと」はどうなるのか。医学では問題はもっと明瞭である。治療と予防のどちらに人気があるか。それは治療に決まっている。予防は感謝されるどころか、嫌われることも多い。そもそも「起こらなかったこと」に対して、どう感謝すればいいのか。

p.106 駒沢敏器 「9月11日 その夜、本当に目にしたもの」より
 これは自分なのだ、と繰りかえし思った。ビルに突っ込んだ民間機はそのまま自分の胸に突き刺さっており、それと同時に、ビルに突撃した者もまた、自分の分身なのだ。「突っ込んだ」とか「突っ込まれた」とか、あちらとこちらの話ではない。原因と結果ではなく、因果と応報でもない。「本当のところ、この巨大な暴力は何なのだ?」ということを自問するとき、色分けは大して役には立たない。

p.146 星野智幸「戦争を必要とする私たち」より
 要するに、戦争という巨大な文脈に、誰も彼もが乗っているだけではないか、と思う。その巨大さに寄り添うことで、自信を得るのだ。そこでは、それまで続いていて今だって確実に存在しているはずの個人の文脈、例えば私で言えば事件直前まで考え書いていた小説のリアリティが、巨大な力の奔流に飲み込まれて、見えなくなってしまう。その巨大な奔流を止めうるのは、徹底的に個人として感じ考えられた言葉のみのはずだ。

p.176 濱田順子「ローコスト、ハイリターン」より
 世界貿易センタービルが標的になったのは、明らかにこの建物が世界経済の中心であり、アメリカ資本主義の象徴だったからであった。ビルがようするにハコに過ぎず、中身こそが問題であるなら、ビル内で働く人間たちはまさに経済、資本主義そのものと言っていいだろう。ビル内の人間の死と、旅客機の乗客および消防士たちの死を区別しないで考えることは、この事件が起こされた意図に無神経になってしまうことを意味している。


***************************************************

 10年前の同時多発テロの時の衝撃を、私は鮮明に思い出すことができません。その日のニュースをYoutubeなどの映像で見てみても、あの瞬間のリアルタイムの身体的感覚が蘇ることはありません。私はあの日、世界中の人々と同じように、今後の世界がどうなってしまうのか、自分の人生はどうなってしまうのかとの不安に苛まれていたように思います。しかしながら、10年後のこの世界が、10年前に言われていたところの「今後の世界」「将来の自分」であると結論することができません。

 半年前の東日本大震災の時の衝撃と比べてみたとき、私は辛うじて10年前のあの空虚な瞬間に戻されます。片や無差別テロであり、片や自然災害であり、言葉にならない言葉が異なる部分は多くあります。他方で、言葉にならない言葉が同じである部分のほうが、掴みどころがあるような気がします。それは、いずれの時にも「自分は目の前の仕事をするしかない」という結論に至るしかなく、その虚しさが周囲の人々への軽蔑の視線に転化し、その視線が自分に跳ね返っていたという共通性によるものだと思います。

 10年前の同時多発テロの瞬間と、半年前の東日本大震災の瞬間とを一連の時間軸に置いてみれば、両者の間にあるのは9年半という幅を持った時間です。そして、私はこの間に9歳と半年分だけ年を取っています。しかしながら、私が両者に接した瞬間を比較した結果として得られた空虚性が重なる部分においては、それだけの時間が経過したという感覚が全くありません。そして、自分が9歳と半年分だけ死に近づいたという感覚もありません。