犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

毎日新聞社編 『写真記録・東日本大震災』

2011-09-12 23:45:58 | 読書感想文
p.158~ 毎日新聞論説委員・青野由利『地球の時間 人間の記憶』より

 ここで改めて感じたのは、地震を起こす「地球の時間」と、そこで生活する「人間の時間」のギャップだ。
なんでこんな低地に住んでいたのかと思って目を転じると、道路わきには何事もなかったかのように家々が立ち並ぶ。ある高度を境に被害がくっきり分かれる。こうした落差の大きさは、いたるところで目にしたものだ。

 調べてみると、ここは明治三陸津波でも300戸がほぼ全滅した集落だった。村の古老が山腹への移転を提案したが、従った人は少なく、やがて元の場所に戻ってしまった。
 その37年後、再び昭和三陸津波が襲う。谷奥の1戸を残して101戸が流出倒壊、住民の半数にあたる326人が犠牲になったという。この時ばかりは住民も高台移転以外にないと考えたのだろう。国も県も後押しし、南側の山腹に宅地を造成した。移転対象は全集落。元の低地は居住が許されない地区となったはずだった。
 しかし、78年後に目にした光景は、再び人々が低地に住み始めたことを物語る。

 津波は必ず再びくる。しかし、その時期はわからない。その時間を越え、人間の記憶を保ち続けることは何とむずかしいのか。
 地震学の誤った思い込みと、高所移転の難しさ。一見無関係のようだが、どちらにも「地球の時間」と「人間の時間」の間に横たわるギャップの大きさを感じる。地震学でいえば、そもそも、将来の地震を「想定できる」と考えること自体が、地球の時間に対する甘さのように思える。


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 100年、あるいは1000年という時間軸を提示されて、なお「1日も早い復興」との価値に絶対的な価値を置く思考方法は、「復興」の概念が抱える内部の矛盾に自覚的でないのだと思います。今回の経験を教訓とした中長期的・計画的な町づくりは、明日の生活もままならない現実の人間の行動を阻害し、復興の妨げとなっているように思います。他方で、今回の経験からの教訓に無関心な復興は、再度の壊滅を前提としたものであり、復興の価値が人の生命や死を離れて自己目的化しているようです。どちらに転んでも、「1日も早い復興」の概念は矛盾を含むものだと感じます。

 私を含め、この世間の中で社会生活を送っている人々は、ある程度の年齢まで生きることを大前提に、その漠然とした老後の地点から逆算して、人生の時間を把握しているのが通常のことと思います。ある地点での重要な行動の選択においては、段階的な人生のステップの中での位置づけが図られています。そして、一度しかない人生の生き様がこのようである限り、人間の一生の時間を超えて人間がその記憶を保つことは、まず不可能なことだと感じます。人は遠い未来を理想的に語ることにより、未来とは日々の明日が集積した結果であることを忘れ、しかもどの明日にも死が迫っている事実から逃げることが可能となります。