犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

永井均著 『子どものための哲学対話』

2009-05-13 21:26:40 | 読書感想文
p.30~

こまっている人や苦しんでいる人を、やたらに助けちゃいけないよ。そのときかぎりの単純なこまりかたの場合ならいいよ。たとえばけがをしたとか、さいふを落としたとかね。でも、もっと深くて重い苦しみを味わっている人を助けるには、きみ自身がその人の苦しみとおなじだけ深く重くならなくちゃならないんだ。そんなことは、めったやたらにできることじゃないし、できたとしたら、きみの精神に破壊的な影響を与えることになるんだ。もし、きみ自身が深くて重い苦しみを味わったことがあるなら、それとおなじ種類の苦しみを味わっている人だけ、きみは救うことができる可能性がある。そういう場合だけ、相手が助けてもらったことに気がつかないような助けかたができるからね。


p.62~

いまの人間たちは、なにかまちがったことを、みんなで信じこみあっているような気がするよ。それが、いまの世の中を成り立たせるために必要な、公式の答えなんだろうけどね。でも、その公式の答えは受け入れないこともできるものだってことを、わすれちゃいけないよ。ひとから理解されたり、認められたり、必要とされたりすることが、いちばんたいせつなことだっていうのは、いまの人間たちが共通に信じこまされている、まちがった信仰なんだ。友情って、本来、友だちなんかいなくても生きていける人たちのあいだにしか、成り立たないものなんじゃないかな?


p.108~

数億個の精子をならべたとき、3億9157万8426個めの精子が卵子と結合したとするよ。そのことによって、どういう性質を持った人間が生まれてくるかは決まった。でも、そういう性質を持ったまさにその人間が、きみでなければならなかった理由は、なにもないだろ? その人間が他人であったってよかったはずじゃないか? 逆に、2億5874万9631個めの精子が卵子と結合していて、いまのきみとまったくちがうやつが生まれていたとしても、そいつがきみであったってよかったんじゃないかな? いや、数億個のうちのどれも、きみを生み出さない可能性だって、考えられるよ。


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『子どものための哲学対話』は大好きな本で、定期的に何回でも読み返したくなる本です。そして、そのたびに新たな発見があったり、全く違う感じ方をしていることに気がつきます。過去に読んでいる時の自分と、その数年後に読み返した時の自分とは、端的に全くの別人であるということなのでしょうか。人は誰しも、自分以外の他人の心の中には入ることができないため、ある本に書かれていることも、それを読む人の数だけ存在していることになります。従って、同じ本に書かれていることも、それを受け取る側の人生によって、浅くもなれば深くもなるのでしょう。このことは、過去の自分と現在の自分を比べてみたときに、より明らかになるように思われます。

黒田泰著 『行政書士のためのマーケティングマニュアル』

2009-05-12 22:04:24 | 読書感想文
「相続マーケットの攻略方法」より

時流のテーマで業績アップを実現したい方、地域一番を実現したい方、年商5000万円突破!を実現したい方、年商1億円突破!を実現したい方。さぁ、ついに時流のテーマが行政書士業界にも登場しました。時流適応が、業績を圧倒的に伸ばす最大のコツです。相続マーケットは、今が参入のタイミングです! これからの1~2年で、行政書士の民事法務マーケットは、飛躍的に伸びます。つまり! 今まさに戦略的な経営判断が求められているのです。急激に業績アップを実現した事務所の所長の多くは、経営者発想があり、民事法務で潤沢になったキャッシュをもとに、人材採用、地域一番の好立地への事務所移転、地域でのブランディング等、上手に地域一番化に向けた取り組みを実施しているのです。

商圏人口30万人以上であれば、月商200万円は新規に作れます! 伸びる行政書士事務所は、相続マーケットを取り込んで150~200%以上のスピードで成長していきます。それほど、相続マーケットは知らなかったでは済まされないほどのビッグマーケットなのです。実際に、私のお手伝い先では、3ヶ月目で相続業務のみで350万を突破しているのです。1件の遺言業務で100万を越える売上を獲得するアプローチ方法! 現在、相続マーケットにアプローチしているご支援先では、驚くことにすべての事務所で業績アップを実現しています。ここから2つの事が言えると思います。ひとつは、相続手続マーケットが非常に有望であることと、ふたつ目にはノウハウを持って相続に取り組めば、誰でも業績アップを実現できるということです。


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相続とは、言うまでもなく、人の死によって始まるものである。人の死を医学的・法律的・哲学的に分類するのは、単に生きている側の都合であって、1つの死をそのように分割できるわけではない。高齢化社会を迎えた現在、相続や遺言・遺産分割の業務は、信託銀行と行政書士の激しい参入が続いている。今や、「相続コーディネーター」という肩書きも一般的になりつつある。高齢化社会においては、介護ビジネスの次は相続ビジネスが成長すること、従ってそのチャンスを狙って参入する者の間ではパイの食い合いが起きること、これも端的な事実である。行政書士の黒田氏は、この相続マーケットで大成功を収め、今や株式会社を立ち上げ、経営コンサルタントとしても活躍している。この著書も、アマゾンの「司法・裁判カテゴリー」で1位を獲得したそうである。私個人としては、このような勝ち組のビジネスモデルを見せつけられても、特に羨むことも妬むこともできず、賞賛することも批判することもできない。

ただ、どうしても、つい願ってしまうことがある。200%の成長を実現し、年商1億円突破するためには、それだけ人の死が必要になるという事実を忘れて欲しくないということである。もちろん、後期高齢者の方々に寄り添って、遺言を書くアドバイスをすることが、その人の死を待ち望んでいることになるわけではない。死にそうな人の所に飛んでいって遺言を書かせ、死んだ人のところで遺産争いが起きるのを今か今かと待つ、ここまで露骨に金儲けに走る人は少ないはずである。しかしながら、人が死ねばそれが仕事になること、ゆえに自らが死なないで生活していくためには人の死を待ち望まざるを得ないこと、この点についての一抹の後ろめたさを失ってしまえば、「相続コーディネーター」は死を食いものにする蛆虫になってしまう。もちろん人間は、この厳しい経済社会において、綺麗事だけでは食べて行けない。しかしながら、頭には相続マーケットの攻略による業績アップしかないにもかかわらず、口先では死者の死を悼み、「遺言書は愛する人へのラブレターです」といったキャッチフレーズを流布するならば、これ以上の綺麗事があるだろうか。

井藤公量著 『P&C方式「速攻」司法試験突破術』

2009-05-10 21:24:21 | 読書感想文
p.134

法律的思考は、創造的思考などと違う。なにか新しいものを産み出したり、変わったところへ行き着いたりするものではない。決まり切ったルールのもとで、決まり切った結論を求めようとする一種のゲームのようなものにすぎない。それが証拠に、裁判制度は、どの裁判所へでもどの裁判官でも、同じ事実関係なら同じ判断が下されることを前提として構築されている。当事者はもちろん裁判官を選べない。

法律は単なる手段に過ぎない。共同社会を秩序づけて行く道具だ。哲学的真理などとは無関係の技術だ。簡単にいうとゲームのルールなのだ。法律は所詮その程度のもので、難しく考えないことだ。これが私の法律へのスタンスだ。特に、「司法試験のための法律」の勉強は真理を追究する学問でもなければ、まったく新しいものを発見する研究でもなんでもない。法律の勉強は、はまれば確かに面白い。知らないうちに趣味の領域に達する。しかし、一所懸命考えて間違っていたらなんにもならないのが試験なのだ。


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今日(5月の第2日曜日・母の日)は例によって、旧司法試験の択一式試験の日であった。旧司法試験は平成23年で終了することが決定しているため、受験生の多くは法科大学院を経た新司法試験に移行している。そもそも新司法試験への制度改革が叫ばれた背景には、司法試験予備校による技術論ばかりが発達し、本来の法律学とは遠くかけ離れてしまったという現実があった。上記の井藤弁護士(予備校講師)の文章などは、司法試験管理委員会の学者を激怒させる典型である。かくして、法科大学院・新司法試験制度は、裁判員制度につながる司法制度改革の一環として、5年前に鳴り物入りでスタートした。

あれから5年が経ち、昨今の法曹界から聞こえてくるのは、法曹増員による「質の低下への危惧」ばかりである。暗記や要領で決まるのではなく、真に考える力(リーガルマインド)を養成するはずの法科大学院の評判は全く上がらない。結局のところ、試験は合否の勝負であり、裁判も白黒の勝負である限り、最終的な磁場はその方向に収斂せざるを得なかった。法律の勉強にはまり、知らないうちに趣味の領域に達し、試験に落ち続けて膨大な時間とお金と労力を無駄にしても、誰も助けてくれる人はいないからである。「法律は単なる手段に過ぎない。共同社会を秩序づけて行く道具だ。哲学的真理などとは無関係の技術だ」。井藤弁護士によるこの一歩引いた視線は、やはり否定できないように思われる。

人はなぜ「たかが借金」で死を選ぶのか

2009-05-09 22:03:52 | 時間・生死・人生
それまで2万人台半ばで推移していた日本の自殺者数が一気に3万人を超えたのは、平成10年のことであった。この年は山一証券や北海道拓殖銀行が破綻した翌年であり、消費者金融の多重債務による自己破産者も増加の一途を辿っている時期でもあった。現在の1万円札の肖像になっている福沢諭吉は、皮肉にも「世の中に借金ぐらい怖いものはない」と述べているそうである。人の命とお金とではどちらが重いのかと問われれば、誰しも人の命が重いに決まっていると答える。ところが、現に借金に追われて首が回らなくなっている人には、この答えが説得力を持たない。「たかがお金のことで命を絶つなんて馬鹿馬鹿しい」という常識も、雪だるま式の利息に押し潰されている人には、現実問題として説得力を持たない。そして、お金のために命を絶つことの馬鹿馬鹿しさが、借金に苦しんでいる人には逆効果として作用し、ますます追い詰められることになる。これは、お金があれば何でも買えるかはともかく、お金がなければ何も買えない資本主義のシステムの必然的な構造である。

借金に追われながらの生活は、それが「たかがお金」に基づくものだけに、非常に情けない。「たかがお金」のために怒鳴られ、「たかがお金」のために脅迫される。そして、「たかがお金」のためにあちこち走り回り、「たかがお金」のために債権者にペコペコして謝罪する。何で「たかがお金」のために怒鳴られなければならないのか、土下座して詫びなければならないのかと自らに問えば、それは自分が「たかがお金」を返さないからであるという答えしか返ってこない。郵便が来てはビクビクし、携帯電話の着信履歴を見てはドキドキし、寝ても覚めても頭のどこかに返済期限や利息のことがあり、単にお金が払えないということだけのために生活のすべてが借金の返済に占領されてしまう。ここでの主要問題は、「たかがお金」ではなく、「たかがお金を返せない自分の存在」である。もはや人間らしい主体的な生活などなく、お金を返すためだけに生きている人生である。ここから抜け出すには、論理的に「たかがお金」を返すしかなく、話は最初に戻ってしまう。

債権者が債務者の勤務先や自宅まで押しかけること、あるいは勤務先や自宅の電話をひっきりなしに鳴らすこと、これらは自由意思の主体であるところの人間の尊厳を回復不能なまでに傷つけるものである。そして、以前と同じ生活を送ることを不可能にさせるものである。人の命はお金では買えず、「たかがお金」は人間の尊厳を傷つけることなどできないという紛れもない現実が、逆に人間の尊厳を破壊する。この尊厳を取り戻すためには、人間が「たかがお金」よりも上位に立たなければならない。もし、「お前は借金を踏み倒して逃げるつもりなのか」、「借りたお金を返すという社会の約束事も守れないのか」と問われれば、その上下関係において反論は許されない。お金を返さない債務者は、資本主義の道徳では悪の地位に置かれるからである。ゆえに、債務者が「たかがお金」に支配されている状況を抜け出し、人間の尊厳を保とうとすれば、他のところからお金を借りて目の前の借金を返すしかない。かくして、人はさらに多重債務の泥沼にはまり、出口がなくなる。

「たかが借金」で自らの命を絶つくらいなら、夜逃げでも何でもして生き延びればいいではないか。泥棒して捕まって刑務所に入るなり何なりしても、死ぬことを思えば何でもいいではないか。このような真っ当な問いが成立してしなくなってしまうのが、「たかが借金」の恐ろしさである。それは、耳を揃えてお金を返すというだけの馬鹿馬鹿しい目標が明らかであり、自分はかけがえのない人生の貴重な時間をその馬鹿馬鹿しい目標のために失っており、この損失は取り返しがつかないという事実が厳然と存在しているからである。そして、この「たかが借金」に振り回される人生を生きなければならないということが、人の生きる気力そのものを奪ってゆくからである。債権者は明らかに、債務者の人生よりも、「たかがお金」の価値を上に置いている。それは、債務者が死ぬことは痛くも何ともないが、お金が返ってこないことは痛いという意味において、間接的な殺意である。債務者はその殺意が解っていて、しかも逃げることができない。「たかが借金」によって死を選ぶとすれば、それは人間の醜さや卑しさ、金銭欲や権力の構造に絶望するという意味で、世を儚む(はかなむ)死である。その一方で、債権者が殺人罪(刑法199条)に問われることはなく、自殺教唆罪・幇助罪(202条)に問われることもない。

小林美佳著 『性犯罪被害にあうということ』 その2

2009-05-08 00:37:12 | 読書感想文
人間の尊厳は、人間性が否定されたときに逆説的に浮かび上がるものである。被害者の人生のそのレイプの瞬間は、獣の欲望だけのために存在していた。もしも人間が生きるということが、どの瞬間にも存在意義があるというのであれば、その時には犯人の欲望の処理だけのためだけに人生の意味が存在していたことになる。このような状況は、人間の倫理において不正義である。ゆえに、その場所から逃げ出すことが、論理としては絶対的に正しい。しかしながら、その論理はこの場面では役に立たない。この論理を貫徹しようとすれば、生命すら危うくなる。肉体を持ってこの世に存在する人間が、全身をもって主張する論理が全身によって拒まれること、言語を使えない動物の論理に全身で負けること、ゆえに人間でなければ「人生」が否定されること、これが性犯罪と他の犯罪との差異である。もっとも、脳が詳細な構造を作り、抽象的世界が肥大化してしまった現代社会においては、この性的暴行の意味も捉えられにくい。ゆえに、男性ばかりか女性においても、被害者の落ち度を探る安易な方向に流れてしまう。

言葉を使う人間は衣服を着るが、言葉を使わない動物は衣服を着ない。これは、言葉によって恥の概念を持つか否かという人間と動物の差である。この現実から演繹的に考える限り、言語的である人間はそれによって倫理的であり羞恥心を持つのであるから、レイプをされた人間の側ではなく、レイプをした側の人間が恥ずかしいことは明らかである。レイプされたほうが恥ずかしいという結論は、恥の概念に基づいて衣服を着ている人間の論理ではない。しかし、人間の言語だけを借りた動物的な本能は、この倫理を破壊しようとする。そこでは、先に「恥ずかしい」と思ったほうが恥ずかしいことになってしまうという、「恥」の概念の支配が行われている。かくして、被害者が世俗的な恥から逃れられずに生活に支障を生じているのに対し、加害者のほうは倫理的な恥など感じずに堂々と生活しているという矛盾が生じることになる。これは、動物の中で言語を有するのが人間のみであり、しかも動物であるがゆえの生殖行為も行うという人間において特有の事態である。ゆえに、その理不尽さは言葉を超えて、頭だけでなく全身を覆い尽くす。

他人の肉体を自分の肉体の手段として利用することは、他人から時間を略奪していくことである。そして、すべての現在は過去を含んでいるのであるから、その犯行の瞬間の事実は、変えようのない歴史的事実として残る。人間が身体を持って生きている限り、被害者の人生は現にそのような瞬間を含んでおり、身体の記憶として過去の事実を抱えていなければならないことになる。ここでは、被害者の表面的な立ち直りや、忘れ去ることの奨励ではなく、もっと倫理的な根本問題を解決しておかなければならない。重大なセカンドレイプが起きるか否かも、その後の加害者の態度や、周囲の人間の誤解によって大きく変わってくる。人間としての高度に倫理的な恥を自らに対して感じなければならないのは加害者であること、そして被害者に対して動物であるがゆえの人間な恥を生じさせていることがその恥の内容であること、動物であるところの人間にとって、これらの論理は動かない。すなわち、恥じるべきであるのに恥じていないことが恥であり、恥じるべきでないのに恥じさせていることが恥である。

(続く)

日本製ゲームソフトに国際的な批判

2009-05-06 23:55:56 | 国家・政治・刑罰
パソコン上で強姦行為を疑似体験する日本製の市販ゲームソフトに、国際的な女性団体から抗議の動きが相次いでいる。このゲームは、主人公の男が電車内の痴漢行為を通報した女性への報復を企て、その女性と妹・母親を襲うという筋書きである。今年2月、英国・北アイルランドのメディアが「信じられないソフト」と指摘する記事を掲載したことを契機に、このソフトの存在が世界に広く知られ、批判が広がることとなった。国連女性開発基金も、「極めて反社会的な内容だ」としており、日本の地域委員会が近く制作会社に抗議するとのことである。ソフトの説明書には、「同じことを現実に行うと法律によって処罰されます。ゲームの内容は芝居でありフィクションですので、影響を受けたり絶対にマネをしないで下さい」と書かれているが、日本国内では、これ以外にも同種のソフトが販売されている実態があるという。

コンピュータソフトウェア倫理機構は、このようなソフトについて自主的に定めた倫理規定に照らして販売前にチェックをしているが、同機構の幹部は次のように述べている。「法規制以上に厳しい基準で審査している自負がある。ストーリーそのものについては表現の自由もあり、一概にだめとは言えない。小説やマンガ、映画の世界でも過激な内容はある」。また、表現の自由に詳しい独協大学法科大学院の右崎正博教授は、次のように述べている。「小説やマンガにも性暴力を扱った表現はあり、法的なレベルで白か黒かと言えば、黒とは言い難いだろう。しかし、倫理的なレベルで考えると、社会通念上許される範囲にあるとは言えないと思う。現状では社会的な反発を招き、安易な法規制を招きかねない。表現の自由を守るためにも、業界として改めて適切な規制を考えるべきだ」。

「男が電車内の痴漢行為を通報した女性への報復を企て、その女性と妹・母親を強姦するゲーム」という説明を聞けば、通常の神経を持つ人間であれば、男女を問わず、直感的に激しい嫌悪感を催すはずである。あまりに情けない。同じ人間として、このようなゲームを考え出す人があまりに恥ずかしい。そして、それを楽しんでいる人が悲しい。ところが、この民主主義の世の中は、話を難しくするのが大好きである。「表現の自由とか、そんな問題とは全然違うだろう」と言ったところで、まずは表現の自由から入らなければ有識者の議論の土俵には乗せてもらえない。さらには、「感情ではなく論理で考えるべきだ」「素人は憲法の人権論について正しく理解しておらず話にならない」と言われて、相手にもしてもらえない。かくして論点は、法的に黒か白か、社会通念上許されるレベルかという点に深入りする。そして最後は、「適切な方法を考えていくべきである」と締めくくられるのが常である。これで適切な方法が導かれたためしがない。お互いに「自分の主張する表現の自由こそが真の表現の自由だ」と言い合って議論する限り、答えが出るはずもないからである。

表現の自由に対する権力の介入の是非、これは単に1つのパラダイムにすぎない。何でもかんでもこの枠組みに押し込むことの当否は別にして、現にこの枠組みが使いものにならないのであれば、単にそれだけのことである。安易な法規制によって表現の自由が制約されるのを防ぐために、自主規制という方策を探ったところ、今度は萎縮効果で表現の自由が危機に瀕していると言って大騒ぎするならば、一体誰が何のために何をやっているのか良くわからない。ところが、「真の表現の自由とは何か」という命題を持ち出すや否や、この笑い話が大真面目な議論として成立してしまう。人権論のパラダイムからは、表現の自由は精神的自由権の中核であり、市民が権力への闘争によって獲得してきた人間の叡智の結晶である。そして、性表現は政治的表現よりも安易に弾圧されやすいがゆえに、様々な性表現を許容する懐の深さを持つことが、民主主義の成熟度を示すものであるとされる。これは裏を返せば、次のようなことである。「人類が長い歴史の中で多くの血を流し、無数の犠牲を払い、激しい闘争の中で獲得してきた崇高な表現の自由が行き着いた先が、『痴漢行為を通報した女性への報復のために女性と妹・母親を強姦するゲーム』であったとは、表現の自由はこの程度のバカバカしいもののために勝ち取られたのか」。

斎藤美奈子著 『たまには、時事ネタ』より

2009-05-03 01:58:59 | 読書感想文
p.163~ 「憲法9条のもうひとつのストーリー」より

改憲論がかまびすしい。自民党は改憲に向けてやる気満々、民主党は「論憲」から「創憲」に方針をかえ(というのもよくわからないけど)、国民の過半数が改憲に賛成という世論調査の結果もある。夏の参院選で与党が勝ったら、この動きはますます加速されるかもしれない。10年前には考えられなかったような展開である。

さて、改憲論の焦点はもちろん第9条である。こんな憲法は世界中のどこにもありません。唯一の被爆国として、平和憲法の理念をいまこそ世界に広めていきましょう。いまでも護憲派の意見はこのままだろう。ところが、世界標準に照らすと、この物語自体が一種の倒錯らしいのである。アメリカ留学組の若手議員などに改憲論者が多いのも、そう考えれば得心がゆく。グローバルスタンダードにふれた彼らにしてみたら、屈辱的な念書を美しい理想と誤解している同胞はトンチンカンな田舎者に見えるだろう。

それでも憲法改正を急ぐことに私は反対だ。日本国民が美しい誤解をしてきたにしても、現実問題として、9条がストッパーの役目を果たしてきたところは大きい。ただ、憲法をめぐるストーリーは変えてもいいよ。旧来の「平和憲法ストーリー」は、護憲ナショナリズムといってもいいだろう。「世界に広めよう」の精神が、そもそも日本を暴走させた元凶であった以上、憲法を本当に大切に思うなら、「世界に広めよう」なんて大風呂敷を広げる前に、自戒の道具であることを自覚するのが先かもしれない。


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これは今から5年前、『婦人公論』2004年(平成16年)5月22号の連載記事である。5年前に書かれた「5年後の日本」、10年前に書かれた「10年後の日本」といった類を見てみると、大体が見事に外れており、その存在すら忘れ去られているのが面白い。それにもかかわらず人間は、相も変わらず「10年後の日本」や「100年後の世界」を大真面目に語ろうとする。すべては未来の人々の幸福を願う純粋な意思に基づくものであるが、現在の人々と未来の人々とでは幸福の基準が全く異なるため、このような努力はいつも無駄になる。

今から5年前、日本の政治家や世論は、確かに憲法改正論で盛り上がりを見せていた。そして、改正に反対する立場からは、「時期尚早であり今ここで急ぐ必要はない」「拙速に走らず慎重に検討すべきだ」「今後5年かけて国民的にじっくりと議論すべきだ」との声が聞かれた。それから5年経った今、年金問題や雇用不安が次々と顕在化し、目の前の問題にドタバタと追われるだけで終わった現実を振り返ってみると、このような理論の儚さがよくわかる。これは憲法改正、ましてや憲法9条改正の問題ではなく、あらゆる法制定や法改正に共通することである。それは、人はいつでも「国民的にじっくりと議論を深める」という言葉に騙されるということである。

宮台真司著 『日本の難点』

2009-05-02 19:51:15 | 読書感想文
p.34~

ちょうど20年前、日米構造協議時代の米国は、製造業からの離脱を図る時期でした。そうした米国からの要求に応じるがままにすれば、日本の<生活世界>の、相互扶助で調達されていた便益が、流通業という<システム>にすっかり置き換えられてしまうことも、予想できたことでした。<システム>の全域化によって<生活世界>が空洞化すれば、個人は全くの剥き出しで<システム>に晒されるようになります。「善意&自発性」優位のコミュニケーション領域から「役割&マニュアル」優位のコミュニケーション領域へと、すっかり押し出されてしまうことになります。

物理的に拘束された人間関係は意味をなくし、多様に開かれた情報空間を代わりに頼りにするようになります。それまでの家族や地域や職場の関係から何かを調達するよりも、インターネットと宅配サービスで何もかも調達するようになります。その結果、何が起こるのでしょうか。答えは簡単。社会が包摂性を失うのです。経済が回るときは社会も回るように見えますが、経済が回らなくなると個人が直撃されるようになります。なぜなら、経済的につまずいても家族や地域の自立的な(=行政を頼らない)相互扶助が個人を支援してくれる社会が、薄っぺらくなるからです。


p.224~

1970年前後から司法への民主的参加は各国の流れです。なぜでしょうか。結論は、ポストモダン化がポピュリズムを不可避的にもたらすからです。では、ポストモダンとは何か? まず、「役割&マニュアル(計算可能性をもたらす手続)」が支配する<システム>と、「善意&自発性(アドホックな文脈)」が支配する<生活世界>との、伝統的区別から始めましょう。<生活世界>を生きる「我々」が便利だと思うから<システム>を利用するのだ、と素朴に信じられるのがモダン(近代過渡期)です。<システム>が全域化した結果、<生活世界>も「我々」も、所詮は<システム>の生成物に過ぎないという疑惑が拡がるのがポストモダン(近代成熟期)です。

ポストモダンでは、第1に、社会の「底が抜けた」感覚(再帰性の主観的側面)のせいで不安が覆い、第2に、誰が主体でどこに権威の源泉があるのか分からなくなって正統性の危機が生じます。不安も正統性の危機も、「俺たちに決めさせろ」という市民参加や民主主義への過剰要求を生みます。不安や正当性危機を民主主義で埋め合わせるのは、体制側にも反体制側にも好都合です。体制側は危機に陥った正当性を補完でき(ると信じ)、反体制側は市民参加で権力を牽制でき(ると信じ)るからです。ところが人文知の知見では、ポストモダン化が市民の無垢(イノセンス)を信頼できなくさせてしまいます。そのことは裁判員制度への疑念の噴出それ自体に見出せます。


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宮台真司氏の思想は難しくて、私の頭ではとても付いて行けないのですが、この本は易しく書かれており、大体は理解できたような感じです。それでも、宮台氏独特のキーワードが大前提として随所に散りばめられているため、宮台思想の体系が理解できていなければ、やはりスラスラとは読めません。そして、この本がスラスラと読めるということは、とりもなおさず知的エリートであるということですから、一般社会からは見向きもされなくなり、社会に影響力を与えることはできなくなるようです。宮台氏はこの上なく正確に裁判員制度の問題点を指摘していますが、裁判員制度が5月21日に始まることに対しては、何の影響を及ぼすこともできていないようです。上戸彩さんのポスターの勝ちです。