犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

天童荒太著 『悼む人』

2009-05-17 00:04:56 | 読書感想文
p.49~

蒔野のなかに、この男は実は悪意に満ちた人間ではないのか、という疑いが湧いた。外見は清廉な印象で、他人の死を悼む姿勢は偽善だとしても、心根は善良なのだろうと考えそうになる。だが本当にそうか。人が生きてゆくために仕方なく忘れたり、眠らせておいたりするものを、奴は掘り返し、人々の安逸な暮らしを乱しはしないか……。蒔野の仕事は、死者を訪ねる行為が似ていても、基本的に人々の怒りや悲しみを代弁することが目的だった。だがこの男は、赤ん坊の死もチンピラの死も、事故死も自殺も殺人の被害者も、たぶん蒔野の母の死も、同等に扱う。この世界では、人の死に多少なりと軽重の差をつけることは暗黙の了解だろう。英雄や聖人の死が、悪党の死と同列では許されない。奴の行為は、きっと人々を戸惑わせ、苛立たせる。


p.257~

あの日の夕方、急の雨で、妻は傘を持ってわたしを駅に迎えにいくとメールをくれ、歩道を歩いていました。そこへ過積載のトラックがスピードを落とさずに曲がってきて、荷台の鉄骨が彼女の上に崩れ落ちたのです。2年前でした。いまも怒りと悲しみと、迎えにこなくてもいいと彼女にメールを打たなかったことの後悔に、身を裂かれる思いです。時間が癒してくれるというのは大嘘です。怒りも後悔も時間とともにつのります。ときおり人から明るくなってきたなどと言われます。そんなときは、明るく見えたという自分の顔を刃物で切り裂きたくなります。知ってほしいのです、本当に素晴らしい女性がこの世界に存在していたということを。できるだけ多くの人に覚えていてもらいたいのです。なのに、みんな自分のことで忙しく、妻が次第に忘れられていくのを、ただ無念に思ってきました。だから、もし本当にいるのなら、わたしは<悼む人>と話したい。他人だからこそ、もし覚えていてもらえるなら、そのぶん彼女の存在が、永遠性を帯びる気がするのです。


p.376~

病院で亡くなる子どもに対し、ぼくは何もできません。死を教訓に、次の子の治療に努力する場所にもいないのです。無力なまま、親しくなった子の死を見送り、悲しむ間もなく、また仲良くなった子を見送ることがつづきました。入院先の医師は、気にし過ぎだと言いました。誰もが人の死を経験するが、心の隅にしまったり、そのうち忘れたりして生きていくのだと。そんなことはわかっていました。ただ理屈で理解できても、感情の底では納得できていなかった。退院して家へ帰る途中、道端に花が供えられているのを見つけました。聞くと、その場所で交通事故があり、若い女性が亡くなっていました。家族に愛され、友だちに大事にされていた人が、身近なところで亡くなっていた……。なのにぼくはそれを知りもしなかった。いいのか、それでいいのかと、突き上げるような痛みを胸に感じました。いても立ってもいられなくなったのです。


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直木賞を受賞した『悼む人』がベストセラーになったこの国で、まるで別の国の出来事のように、裁判員制度が目前に迫ってきた。裁判における死との向き合い方については、一方では「裁判員が死者に感情移入して厳罰化が進むのではないか」というレベルの低い議論がなされ、他方では「裁判員は殺人者を裁くことの重みに耐えられるのか」というレベルの高い議論がなされている。これらに対して、この小説のテーマであるところの「悼む」という行動形式は、レベルの次元を異にしている。見ず知らずの他者の死を「悼む」という行為は、社会常識からすれば解釈不能である。そして、何かの宗教の儀式ではないか、単なる自己満足ではないかとの解釈を呼び起こし、それを見る者を困惑させる。

愛する人を理不尽に奪われた遺族が犯人の厳罰を求めているのに対して、「刑罰の謙抑性は近代刑法の大原則である」との回答をぶつけられれば、全く答えになっていないとの印象を受ける。この違和感は、イデオロギー的な右と左の対立ではなく、個とシステムとの対立である。過去の判例の積み重ねによる量刑相場の中には、匿名化されたデータはあっても、個々の人生はない。同じように、全体的なシステムのメカニズムはあっても、他の誰でもない「その人」が生きてきた歴史はない。生ける者が死者を「悼む」という行為形式は、この繊細なところを正確に突いている。凶悪犯罪には厳罰が妥当であるという一瞬の価値判断は、何もポピュリズムによる感情論だけではなく、あるべき法を標榜する堅苦しい正義論だけでもなく、人の死を「悼みたくなる」心によっても導かれる。裁判員が、生前には全く面識のない他者であるところの被害者の死を悼めるのであれば、それは判決文の言語では直木賞は取れないということである。