犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

斎藤美奈子著 『たまには、時事ネタ』より

2009-05-03 01:58:59 | 読書感想文
p.163~ 「憲法9条のもうひとつのストーリー」より

改憲論がかまびすしい。自民党は改憲に向けてやる気満々、民主党は「論憲」から「創憲」に方針をかえ(というのもよくわからないけど)、国民の過半数が改憲に賛成という世論調査の結果もある。夏の参院選で与党が勝ったら、この動きはますます加速されるかもしれない。10年前には考えられなかったような展開である。

さて、改憲論の焦点はもちろん第9条である。こんな憲法は世界中のどこにもありません。唯一の被爆国として、平和憲法の理念をいまこそ世界に広めていきましょう。いまでも護憲派の意見はこのままだろう。ところが、世界標準に照らすと、この物語自体が一種の倒錯らしいのである。アメリカ留学組の若手議員などに改憲論者が多いのも、そう考えれば得心がゆく。グローバルスタンダードにふれた彼らにしてみたら、屈辱的な念書を美しい理想と誤解している同胞はトンチンカンな田舎者に見えるだろう。

それでも憲法改正を急ぐことに私は反対だ。日本国民が美しい誤解をしてきたにしても、現実問題として、9条がストッパーの役目を果たしてきたところは大きい。ただ、憲法をめぐるストーリーは変えてもいいよ。旧来の「平和憲法ストーリー」は、護憲ナショナリズムといってもいいだろう。「世界に広めよう」の精神が、そもそも日本を暴走させた元凶であった以上、憲法を本当に大切に思うなら、「世界に広めよう」なんて大風呂敷を広げる前に、自戒の道具であることを自覚するのが先かもしれない。


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これは今から5年前、『婦人公論』2004年(平成16年)5月22号の連載記事である。5年前に書かれた「5年後の日本」、10年前に書かれた「10年後の日本」といった類を見てみると、大体が見事に外れており、その存在すら忘れ去られているのが面白い。それにもかかわらず人間は、相も変わらず「10年後の日本」や「100年後の世界」を大真面目に語ろうとする。すべては未来の人々の幸福を願う純粋な意思に基づくものであるが、現在の人々と未来の人々とでは幸福の基準が全く異なるため、このような努力はいつも無駄になる。

今から5年前、日本の政治家や世論は、確かに憲法改正論で盛り上がりを見せていた。そして、改正に反対する立場からは、「時期尚早であり今ここで急ぐ必要はない」「拙速に走らず慎重に検討すべきだ」「今後5年かけて国民的にじっくりと議論すべきだ」との声が聞かれた。それから5年経った今、年金問題や雇用不安が次々と顕在化し、目の前の問題にドタバタと追われるだけで終わった現実を振り返ってみると、このような理論の儚さがよくわかる。これは憲法改正、ましてや憲法9条改正の問題ではなく、あらゆる法制定や法改正に共通することである。それは、人はいつでも「国民的にじっくりと議論を深める」という言葉に騙されるということである。