犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

日本製ゲームソフトに国際的な批判

2009-05-06 23:55:56 | 国家・政治・刑罰
パソコン上で強姦行為を疑似体験する日本製の市販ゲームソフトに、国際的な女性団体から抗議の動きが相次いでいる。このゲームは、主人公の男が電車内の痴漢行為を通報した女性への報復を企て、その女性と妹・母親を襲うという筋書きである。今年2月、英国・北アイルランドのメディアが「信じられないソフト」と指摘する記事を掲載したことを契機に、このソフトの存在が世界に広く知られ、批判が広がることとなった。国連女性開発基金も、「極めて反社会的な内容だ」としており、日本の地域委員会が近く制作会社に抗議するとのことである。ソフトの説明書には、「同じことを現実に行うと法律によって処罰されます。ゲームの内容は芝居でありフィクションですので、影響を受けたり絶対にマネをしないで下さい」と書かれているが、日本国内では、これ以外にも同種のソフトが販売されている実態があるという。

コンピュータソフトウェア倫理機構は、このようなソフトについて自主的に定めた倫理規定に照らして販売前にチェックをしているが、同機構の幹部は次のように述べている。「法規制以上に厳しい基準で審査している自負がある。ストーリーそのものについては表現の自由もあり、一概にだめとは言えない。小説やマンガ、映画の世界でも過激な内容はある」。また、表現の自由に詳しい独協大学法科大学院の右崎正博教授は、次のように述べている。「小説やマンガにも性暴力を扱った表現はあり、法的なレベルで白か黒かと言えば、黒とは言い難いだろう。しかし、倫理的なレベルで考えると、社会通念上許される範囲にあるとは言えないと思う。現状では社会的な反発を招き、安易な法規制を招きかねない。表現の自由を守るためにも、業界として改めて適切な規制を考えるべきだ」。

「男が電車内の痴漢行為を通報した女性への報復を企て、その女性と妹・母親を強姦するゲーム」という説明を聞けば、通常の神経を持つ人間であれば、男女を問わず、直感的に激しい嫌悪感を催すはずである。あまりに情けない。同じ人間として、このようなゲームを考え出す人があまりに恥ずかしい。そして、それを楽しんでいる人が悲しい。ところが、この民主主義の世の中は、話を難しくするのが大好きである。「表現の自由とか、そんな問題とは全然違うだろう」と言ったところで、まずは表現の自由から入らなければ有識者の議論の土俵には乗せてもらえない。さらには、「感情ではなく論理で考えるべきだ」「素人は憲法の人権論について正しく理解しておらず話にならない」と言われて、相手にもしてもらえない。かくして論点は、法的に黒か白か、社会通念上許されるレベルかという点に深入りする。そして最後は、「適切な方法を考えていくべきである」と締めくくられるのが常である。これで適切な方法が導かれたためしがない。お互いに「自分の主張する表現の自由こそが真の表現の自由だ」と言い合って議論する限り、答えが出るはずもないからである。

表現の自由に対する権力の介入の是非、これは単に1つのパラダイムにすぎない。何でもかんでもこの枠組みに押し込むことの当否は別にして、現にこの枠組みが使いものにならないのであれば、単にそれだけのことである。安易な法規制によって表現の自由が制約されるのを防ぐために、自主規制という方策を探ったところ、今度は萎縮効果で表現の自由が危機に瀕していると言って大騒ぎするならば、一体誰が何のために何をやっているのか良くわからない。ところが、「真の表現の自由とは何か」という命題を持ち出すや否や、この笑い話が大真面目な議論として成立してしまう。人権論のパラダイムからは、表現の自由は精神的自由権の中核であり、市民が権力への闘争によって獲得してきた人間の叡智の結晶である。そして、性表現は政治的表現よりも安易に弾圧されやすいがゆえに、様々な性表現を許容する懐の深さを持つことが、民主主義の成熟度を示すものであるとされる。これは裏を返せば、次のようなことである。「人類が長い歴史の中で多くの血を流し、無数の犠牲を払い、激しい闘争の中で獲得してきた崇高な表現の自由が行き着いた先が、『痴漢行為を通報した女性への報復のために女性と妹・母親を強姦するゲーム』であったとは、表現の自由はこの程度のバカバカしいもののために勝ち取られたのか」。