犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

人はなぜ「たかが借金」で死を選ぶのか

2009-05-09 22:03:52 | 時間・生死・人生
それまで2万人台半ばで推移していた日本の自殺者数が一気に3万人を超えたのは、平成10年のことであった。この年は山一証券や北海道拓殖銀行が破綻した翌年であり、消費者金融の多重債務による自己破産者も増加の一途を辿っている時期でもあった。現在の1万円札の肖像になっている福沢諭吉は、皮肉にも「世の中に借金ぐらい怖いものはない」と述べているそうである。人の命とお金とではどちらが重いのかと問われれば、誰しも人の命が重いに決まっていると答える。ところが、現に借金に追われて首が回らなくなっている人には、この答えが説得力を持たない。「たかがお金のことで命を絶つなんて馬鹿馬鹿しい」という常識も、雪だるま式の利息に押し潰されている人には、現実問題として説得力を持たない。そして、お金のために命を絶つことの馬鹿馬鹿しさが、借金に苦しんでいる人には逆効果として作用し、ますます追い詰められることになる。これは、お金があれば何でも買えるかはともかく、お金がなければ何も買えない資本主義のシステムの必然的な構造である。

借金に追われながらの生活は、それが「たかがお金」に基づくものだけに、非常に情けない。「たかがお金」のために怒鳴られ、「たかがお金」のために脅迫される。そして、「たかがお金」のためにあちこち走り回り、「たかがお金」のために債権者にペコペコして謝罪する。何で「たかがお金」のために怒鳴られなければならないのか、土下座して詫びなければならないのかと自らに問えば、それは自分が「たかがお金」を返さないからであるという答えしか返ってこない。郵便が来てはビクビクし、携帯電話の着信履歴を見てはドキドキし、寝ても覚めても頭のどこかに返済期限や利息のことがあり、単にお金が払えないということだけのために生活のすべてが借金の返済に占領されてしまう。ここでの主要問題は、「たかがお金」ではなく、「たかがお金を返せない自分の存在」である。もはや人間らしい主体的な生活などなく、お金を返すためだけに生きている人生である。ここから抜け出すには、論理的に「たかがお金」を返すしかなく、話は最初に戻ってしまう。

債権者が債務者の勤務先や自宅まで押しかけること、あるいは勤務先や自宅の電話をひっきりなしに鳴らすこと、これらは自由意思の主体であるところの人間の尊厳を回復不能なまでに傷つけるものである。そして、以前と同じ生活を送ることを不可能にさせるものである。人の命はお金では買えず、「たかがお金」は人間の尊厳を傷つけることなどできないという紛れもない現実が、逆に人間の尊厳を破壊する。この尊厳を取り戻すためには、人間が「たかがお金」よりも上位に立たなければならない。もし、「お前は借金を踏み倒して逃げるつもりなのか」、「借りたお金を返すという社会の約束事も守れないのか」と問われれば、その上下関係において反論は許されない。お金を返さない債務者は、資本主義の道徳では悪の地位に置かれるからである。ゆえに、債務者が「たかがお金」に支配されている状況を抜け出し、人間の尊厳を保とうとすれば、他のところからお金を借りて目の前の借金を返すしかない。かくして、人はさらに多重債務の泥沼にはまり、出口がなくなる。

「たかが借金」で自らの命を絶つくらいなら、夜逃げでも何でもして生き延びればいいではないか。泥棒して捕まって刑務所に入るなり何なりしても、死ぬことを思えば何でもいいではないか。このような真っ当な問いが成立してしなくなってしまうのが、「たかが借金」の恐ろしさである。それは、耳を揃えてお金を返すというだけの馬鹿馬鹿しい目標が明らかであり、自分はかけがえのない人生の貴重な時間をその馬鹿馬鹿しい目標のために失っており、この損失は取り返しがつかないという事実が厳然と存在しているからである。そして、この「たかが借金」に振り回される人生を生きなければならないということが、人の生きる気力そのものを奪ってゆくからである。債権者は明らかに、債務者の人生よりも、「たかがお金」の価値を上に置いている。それは、債務者が死ぬことは痛くも何ともないが、お金が返ってこないことは痛いという意味において、間接的な殺意である。債務者はその殺意が解っていて、しかも逃げることができない。「たかが借金」によって死を選ぶとすれば、それは人間の醜さや卑しさ、金銭欲や権力の構造に絶望するという意味で、世を儚む(はかなむ)死である。その一方で、債権者が殺人罪(刑法199条)に問われることはなく、自殺教唆罪・幇助罪(202条)に問われることもない。