犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

永井均著 『子どものための哲学対話』

2009-05-13 21:26:40 | 読書感想文
p.30~

こまっている人や苦しんでいる人を、やたらに助けちゃいけないよ。そのときかぎりの単純なこまりかたの場合ならいいよ。たとえばけがをしたとか、さいふを落としたとかね。でも、もっと深くて重い苦しみを味わっている人を助けるには、きみ自身がその人の苦しみとおなじだけ深く重くならなくちゃならないんだ。そんなことは、めったやたらにできることじゃないし、できたとしたら、きみの精神に破壊的な影響を与えることになるんだ。もし、きみ自身が深くて重い苦しみを味わったことがあるなら、それとおなじ種類の苦しみを味わっている人だけ、きみは救うことができる可能性がある。そういう場合だけ、相手が助けてもらったことに気がつかないような助けかたができるからね。


p.62~

いまの人間たちは、なにかまちがったことを、みんなで信じこみあっているような気がするよ。それが、いまの世の中を成り立たせるために必要な、公式の答えなんだろうけどね。でも、その公式の答えは受け入れないこともできるものだってことを、わすれちゃいけないよ。ひとから理解されたり、認められたり、必要とされたりすることが、いちばんたいせつなことだっていうのは、いまの人間たちが共通に信じこまされている、まちがった信仰なんだ。友情って、本来、友だちなんかいなくても生きていける人たちのあいだにしか、成り立たないものなんじゃないかな?


p.108~

数億個の精子をならべたとき、3億9157万8426個めの精子が卵子と結合したとするよ。そのことによって、どういう性質を持った人間が生まれてくるかは決まった。でも、そういう性質を持ったまさにその人間が、きみでなければならなかった理由は、なにもないだろ? その人間が他人であったってよかったはずじゃないか? 逆に、2億5874万9631個めの精子が卵子と結合していて、いまのきみとまったくちがうやつが生まれていたとしても、そいつがきみであったってよかったんじゃないかな? いや、数億個のうちのどれも、きみを生み出さない可能性だって、考えられるよ。


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『子どものための哲学対話』は大好きな本で、定期的に何回でも読み返したくなる本です。そして、そのたびに新たな発見があったり、全く違う感じ方をしていることに気がつきます。過去に読んでいる時の自分と、その数年後に読み返した時の自分とは、端的に全くの別人であるということなのでしょうか。人は誰しも、自分以外の他人の心の中には入ることができないため、ある本に書かれていることも、それを読む人の数だけ存在していることになります。従って、同じ本に書かれていることも、それを受け取る側の人生によって、浅くもなれば深くもなるのでしょう。このことは、過去の自分と現在の自分を比べてみたときに、より明らかになるように思われます。