犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

福岡市の追突事故 高裁が1審判決を破棄 その1

2009-05-15 23:53:13 | 時間・生死・人生
福岡市東区で平成18年8月、飲酒運転で自動車に追突して海に転落させ、幼児3人を死亡させた今林大被告の控訴審判決公判が15日、福岡高裁で開かれた。高裁は、業務上過失致死傷罪を適用して懲役7年6月とした1審の福岡地裁判決を破棄し、危険運転致死傷罪を適用して、懲役20年を言い渡した。父親の大上哲央さん、母親のかおりさん夫妻は、遺影を抱いて傍聴席の最前列に座った。2人は判決理由にじっと聞き入り、「被告人を懲役20年に処する」という裁判長の言葉に目を大きく見開き、うなずき合った後、一言一言かみしめるように判決理由に聞き入ったとのことである。閉廷後、記者会見した父親の哲央さんは、「事故から2年9か月、毎日毎日苦しい生活を送ってきた」と振り返り、「今まで言い続けてきたことが裁判長に伝わった」「3人も私たちと一緒に判決をしっかりと受け止めることができた」と言葉に詰まりながら話した。保釈中の今林被告が法廷に姿を現さなかったことについて、母親のかおりさんは、「遺影を毎日見ることがどんなにつらいか。今林被告にも分かってほしいと思って持ってきたのに…」と悔しがった。

この裁判における今林被告の陳述は、3人の人命を奪ったことに対する哲学的苦悩とは遠くかけ離れたものであった。弁護側の地裁の最終弁論では、「被告人は既に社会的制裁を受けており、もはや刑罰は必要ではなく、執行猶予に付すべきだ」との主張がなされた。刑事裁判のテーマは国家刑罰権の存否であり、今林被告が争っているのも刑期の長さである。なぜ今林被告は、1日でも刑期を短くしようとして必死に争ってきたのか。公訴事実(訴因)の肝心なところは否認し、情状に有利となる場面では遺族に謝罪し、すべて刑期を短くする方向での逆算に基づく戦略を立てていたのはなぜか。これもハイデガーの言葉を借りれば、時間の中に投げ込まれた現存在たる人間の存在の形式の必然であり、それに基づく人間の頽落である。ハイデガーの時間とは、刻一刻、生起と消滅を同時化する時間である。それは瞬間の生であると同時に瞬間の死である。この文脈においては、一言で「メメント・モリ」と言ってしまってもよい。

今林被告は24歳である。そして危険運転致死傷罪を適用した高裁の判決は懲役20年であったが、危険運転致死傷罪を適用しなかった地裁の判決は懲役7年6ヶ月であった。高裁の判決によれば今林被告の出所は44歳になるが、同罪が適用されなければ出所は31歳で済む(仮出獄の場合を除く)。この差を目の前にぶら下げられれば、多くの人間はどうしても必死になって争いたくなる。他人の命を奪ったことは重々承知の上、それでも出所が31歳か44歳かという人生の分岐点に立たされれば、必死になって争いたくなる。これは、自分は自分であり、他人は他人であり、自分は他人ではなく、他人は自分ではないという存在者の存在の形式に基づくものである。そして、この形式にどっぷりと浸かってしまうことが、まさにハイデガーの述べる頽落である。その意味では、他人の生命を奪った者が徹底的に自己弁護できる近代刑事法のシステムは、確信犯的な頽落の実現であると言ってもよい。

人間は生まれ落ちた限り、1秒1秒死へと近づく。生きていることは、死に近づくことの別名である。これは誰のせいでもない。人生の残り時間が1秒1秒減っていることが避けられないとなれば、懲役20年と懲役7年半の差は天国と地獄である。30代を丸々刑務所で過ごすのか否か、これは天地の差である。他人の人生を奪ってしまったこととは無関係に、自分の人生は一度しかない。刑期を1日でも短くしたい、この欲求は存在不安の効果であり、変形ニヒリズムの効果である。他人の冥福を祈ることも大切であり、遺族に謝罪を続けることも大切であることはわかっているが、それでも30代を丸々刑務所で過ごすことだけは絶対に嫌だ。人間がこのような変形ニヒリズムから逃れられないのであれば、その欲求を自らに端的に認めればよいだけの話であり、「人権」に頼る必要などない。


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この文章の2段目から4段目は、一昨年の12月21日、福岡地裁の第1審判決前の訴因変更命令のときに書いた文章を、ほぼそのまま引用したものです。
(http://blog.goo.ne.jp/higaishablog/d/20071221)
刑法学的に意義のある議論は、なぜ1審と2審で結論が分かれたのか、その原因を実証的に探ることに尽きると思われます。マスコミにおいても、裁判員制度の開始を目の前にして、まさにこの点の国民的な議論が求められているといった論調が主流です。その意味では、1審と2審で結論が分かれたにもかかわらず、全く同じことを言っている私の文章には、学問的な価値がないことは明らかだと思います。

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