犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

サイバンインコ

2009-05-20 23:36:09 | 時間・生死・人生
ハイデガーは、神とは存在の擬人化であると述べた。人間の思考は、新たな何物かを空想する場合であっても、経験によって得たものや現実の事物と完全に切り離された別物を考えることができない。従って、この世のすべてのキャラクターは、すでに存在する事物の一般形をデフォルメしている。ミッキーマウスはねずみであり、スヌーピーは犬であり、サイバンインコはインコである。さらに、このデフォルメは多くの場合には擬人化を伴っており、本来は動物には存在し得ない表情がキャラクターに存在意義を与えている。この擬人化は、森羅万象全ての物に魂が宿っているという多神教の考えとも親和性がある。

サイバンインコは、裁判員制度の導入に伴って誕生した。このようなキャラクターは、制度のイメージアップのために用いられている。それでは、なぜ人間にイメージを生じさせることが必要となるのか。それは、新たな制度というものは、本来この世に存在しないものだからである。人間の作る制度というものは、作られる前には影も形もない。「ない」という状態は、それに気付くための手続きを介在させる必要があり、それは「ある」との比較によって初めてもたらされるため、現在形ではなく過去形において初めて登場する。従って、裁判員制度を定着させるためには、一目でそれとわかるキャラクターが必要である。しかも、「ひこにゃん」のように人気がなければならない。

人間の認識が直接性の制限の下で普遍性の領域を拡大させるのであれば、人間がキャラクターの絵や着ぐるみを見たときには、その個別性の向こうに普遍的なキャラクターを見ていなければならない。そして、見る者がそれを特定の名称で呼ぶことにより、他者との区別が可能となるならば、その絵や着ぐるみは個別の事物の系列の一端を超えて、普遍性を媒介する機能を担うことになる。かくして、人気のあるキャラクターが付された商品は売れ行きが良くなり、著作権をめぐって争いが起きることが多い。これは、商品の内容にかかわらずキャラクターのほうに釣られて買うという消費行動である。同じように、サイバンインコによって裁判員制度に関心を持った国民は、いきなり裁判員として死刑か無罪かを決めることになる。

動物のキャラクターは、人間が考え出したものである以上、本来すべては人間の中にある。サイバンインコの存在は、実際のインコにとってはどうでもいいことであり、迷惑な話である。何かにつけて「ゆるキャラ」ブームの現在だが、サイバンインコが「ひこにゃん」並みの人気を得ることはなかった。当たり前である。そして、裁判員制度に参加したいという国民の比率も最後まで上がることはなかった。当たり前である。かくなる上は、裁判員が全員サイバンインコの着ぐるみを着て法廷に座るくらいしか、このインコの出番はない。裁判員制度に「ゆるキャラ」を求めることは、それほどバカバカしいことである。