犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

裁判員制度と行政訴訟

2009-05-31 21:28:12 | 国家・政治・刑罰
朝日新聞 5/28朝刊 読者投書欄
68歳 無職男性 「行政訴訟にこそ市民感覚必要」より

国民の司法参加は、人権侵害や公害、法令や行政行為へのチェックを担う民事・行政訴訟でこそ発揮されるべきだ。国民が市井の常識と感覚をもって参加するのであれば、刑事事件の量刑判断より行政訴訟の当否の判断の方が、はるかに容易で確かなものが期待できる。私は今、ある住民訴訟に関与しているが、行政の感覚は唖然とするほど市民感覚とズレている。せっかくの裁判員制度なら、司法も行政も立法もチェックできる行政訴訟にこそ参加させるべきだと思う。


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裁判員制度の開始と前後して様々な意見が飛び交うようになったが、「裁判員制度が必要なのは刑事訴訟ではなく行政訴訟である」との意見も耳にするようになった。刑事訴訟と行政訴訟の違いは、裁かれるのが個人か、国・地方公共団体かという違いである。裁判所も国の機関である以上、国が国を裁くということになるが、正確には司法権が行政権を裁くということである。実際の訴状には、被告の欄に「国」「○○県」と書かれ、その下に大臣や知事の名が書かれており、行政権であるところの「国」が原告の国民から訴えられることになる。もしも裁判員制度が行政訴訟において実現されていたならば、「人を裁くことの重みに耐えられない」という問題は生じない。裁かれるのは国であって、人ではないからである。もっとも、「国」とは実体のない抽象名詞である以上、国を裁くことの影響は末端の公務員にまで及び、仕事が増えて精神を病んだり、残業が増えて家庭が崩壊したりして、いつの間にか刑事裁判よりも多くの人を裁いていることもある。

行政訴訟において「人を裁くことのプレッシャー」が存在しないのは、善悪の関係がはっきりしているからである。裁判所の玄関から走り出て掲げられる垂れ幕には、「勝訴」と「不当判決」の2種類しかない。勝訴判決は誰の目から見ても正当であり、「日本の司法は生きていた」と言われる。敗訴判決は誰の目から見ても不当であり、「日本の司法は死んだ」と言われる。これに対して刑事訴訟においては、被告人と支援者の側には「無罪」と「不当判決」の垂れ幕があるが、被害者と遺族の側に「死刑」の垂れ幕はない。同じように、被告人と支援者の側は満場の拍手や怒りのシュプレヒコールを行うが、被害者と遺族の側はそのような行動ができない。静かに涙をこらえても涙が流れ、あるいは怒りを押し殺しても怒りが湧き起こり、そのような中で言葉にならない心情を述べるのみである。これは、被害者や遺族が刑事裁判の当事者ではないという理由によるものではなく、「死刑」の垂れ幕を持って走り出た人に喝采を浴びせる行為には違和感を生じるという倫理的な理由によるものである。「人を裁くことの重さ」とは、この単純な善悪二元論で捉えられない倫理を指しているものに他ならない。

国民は人を裁くことの重さに耐えられるのか、死刑を言い渡すことの重さに耐えられるのかという問いに対しては、それぞれの立場からの多数の解答があり、「司法参加」「市民感覚」というキーワードの奪い合いになっている。そして、まずは軽微な刑事事件や行政訴訟で練習してから凶悪事件に向き合うようにすべきではないかとの意見も聞かれるが、これは上記の問いの所在からすれば、いかも平板である。「人を裁くことの重さ」の前に悩むこととは、実存的な罪と罰の問題に悩むことであって、行政訴訟で練習したところでそもそもの問題のレベルが異なるからである。人が人を裁くということは、裁判官も検察官も同様であり、何も裁判員に限ったことではない。従って、それは市井の常識と感覚を持ち込むというようなスローガンではなく、「市民」という肩書きではない一人の人間が他の人間の罪を裁くという、深い実存的な問題の入口に立つことになる。「勝訴」と「不当判決」の2種類の垂れ幕を持って喜んだり怒ったりするのではなく、「死刑」の垂れ幕を持って走り出せない倫理の渦中で苦しむとき、その「市民感覚」は特定のイデオロギーから自由になる。