犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

宮台真司著 『日本の難点』

2009-05-02 19:51:15 | 読書感想文
p.34~

ちょうど20年前、日米構造協議時代の米国は、製造業からの離脱を図る時期でした。そうした米国からの要求に応じるがままにすれば、日本の<生活世界>の、相互扶助で調達されていた便益が、流通業という<システム>にすっかり置き換えられてしまうことも、予想できたことでした。<システム>の全域化によって<生活世界>が空洞化すれば、個人は全くの剥き出しで<システム>に晒されるようになります。「善意&自発性」優位のコミュニケーション領域から「役割&マニュアル」優位のコミュニケーション領域へと、すっかり押し出されてしまうことになります。

物理的に拘束された人間関係は意味をなくし、多様に開かれた情報空間を代わりに頼りにするようになります。それまでの家族や地域や職場の関係から何かを調達するよりも、インターネットと宅配サービスで何もかも調達するようになります。その結果、何が起こるのでしょうか。答えは簡単。社会が包摂性を失うのです。経済が回るときは社会も回るように見えますが、経済が回らなくなると個人が直撃されるようになります。なぜなら、経済的につまずいても家族や地域の自立的な(=行政を頼らない)相互扶助が個人を支援してくれる社会が、薄っぺらくなるからです。


p.224~

1970年前後から司法への民主的参加は各国の流れです。なぜでしょうか。結論は、ポストモダン化がポピュリズムを不可避的にもたらすからです。では、ポストモダンとは何か? まず、「役割&マニュアル(計算可能性をもたらす手続)」が支配する<システム>と、「善意&自発性(アドホックな文脈)」が支配する<生活世界>との、伝統的区別から始めましょう。<生活世界>を生きる「我々」が便利だと思うから<システム>を利用するのだ、と素朴に信じられるのがモダン(近代過渡期)です。<システム>が全域化した結果、<生活世界>も「我々」も、所詮は<システム>の生成物に過ぎないという疑惑が拡がるのがポストモダン(近代成熟期)です。

ポストモダンでは、第1に、社会の「底が抜けた」感覚(再帰性の主観的側面)のせいで不安が覆い、第2に、誰が主体でどこに権威の源泉があるのか分からなくなって正統性の危機が生じます。不安も正統性の危機も、「俺たちに決めさせろ」という市民参加や民主主義への過剰要求を生みます。不安や正当性危機を民主主義で埋め合わせるのは、体制側にも反体制側にも好都合です。体制側は危機に陥った正当性を補完でき(ると信じ)、反体制側は市民参加で権力を牽制でき(ると信じ)るからです。ところが人文知の知見では、ポストモダン化が市民の無垢(イノセンス)を信頼できなくさせてしまいます。そのことは裁判員制度への疑念の噴出それ自体に見出せます。


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宮台真司氏の思想は難しくて、私の頭ではとても付いて行けないのですが、この本は易しく書かれており、大体は理解できたような感じです。それでも、宮台氏独特のキーワードが大前提として随所に散りばめられているため、宮台思想の体系が理解できていなければ、やはりスラスラとは読めません。そして、この本がスラスラと読めるということは、とりもなおさず知的エリートであるということですから、一般社会からは見向きもされなくなり、社会に影響力を与えることはできなくなるようです。宮台氏はこの上なく正確に裁判員制度の問題点を指摘していますが、裁判員制度が5月21日に始まることに対しては、何の影響を及ぼすこともできていないようです。上戸彩さんのポスターの勝ちです。