犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

びっくりして呆れてしまいました。

2009-05-21 00:22:09 | 国家・政治・刑罰
某弁護士会 「模擬裁判員裁判の感想」より

今日の中間評議では、裁判員の一部からものすごい意見が飛び出しました。その仰天発言とは、「被告人は黒とまでは言えないが、白でもない。灰色である以上、万一真犯人であるのに、我々が無罪にして逃がしてしまったら被害者遺族にも申し訳ない」という趣旨の発言でした。つまりは、「疑わしきは被告人の利益に」ではなく、「疑わしきは有罪に」という趣旨です。私はびっくりして呆れてしまいましたが、これが標準的裁判員の発想なのかなとも思い、危惧しました。こうした裁判員を相手に、裁判長がどのようにリードして評議が進行していくか、実に興味深いと思っています。がっかりしたのは2人の陪席裁判官で、素人の裁判員と全く同レベルの議論をしていました。裁判員制度における弁論をいかに行うかについて、非常に考えさせられました。


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上記の弁護士の感想においては、法律家は一般人よりも一段上に立っていることが大前提とされている。法律家は、裁判員と同じ目線に立って、裁判員制度を共に作り上げて行くわけではない。専門家は真実を知っているが、素人である一般人は真実を知らない。従って、法律家は裁判員を正しい方向に教育をしなければならない。このような裁判員の客体化が、法律家がその無知に直面してびっくりして呆れるための条件である。法律家は、「灰色の被告人を無罪にしてしまっては被害者遺族に申し訳ない」という誤った考えが起きないように、教育によって裁判員を啓蒙しなければならない。ここにおいては、いつも自分が中心におり、ずれているのは周囲である。一般的に、ズレという現象は、その定義において相互にずれていなければならない。ところが、専門家である法律家が常に中心にいる限り、ずれているのはいつも裁判員の側になる。

また、上記の弁護士の感想においては、裁判への市民参加が目的とされている裁判員制度において、市民感覚というものが事前に方向付けられている。本来、市民感覚を裁判に導入するというならば、専門家である法律家のほうが謙虚に大衆の声に耳を傾けなければならないはずである。ところが、「灰色の被告人を無罪にしてしまっては被害者遺族に申し訳ない」という感覚は、市民感覚として新制度に採り入れられることはない。近代刑法の原則を理解した者は「市民」と呼ばれ、理解していない者は「大衆」と呼ばれて区別される。どんな法律家であっても、法律を学ぶまでは一般人であったはずであるが、その時の記憶を完全に忘れ去っている。そして、法曹界の常識だけがすべてではなく、一歩外に出れば非常識であるということを忘れ、世の中がすべて特定の論理で動いていると思い込む。法律家が裁判員の無知に直面してびっくりするということは、このような専門家の視野狭窄に自覚的でないということでもある。

「灰色の被告人を無罪にしてしまっては被害者遺族に申し訳ない」という感覚が生じることは、誤判を生じる危険性の有無を論じる以前に、情のある人間にとって必然的に避けがたい心の動きである。人間が人間であるための最低条件、人間が社会生活を営むに際しての当然の常識と言ってもよい。これは、近代刑法の理屈とは関係がなく、それを理解しているか否かの次元の話でもない。「被害者遺族に申し訳ない」という感情が自然に起きるのは人間として当たり前であり、そのような心の動きが起きないような人間は、果たして人間の名に値するのか。「疑わしきは罰せず」という原則は、単に近代刑法のルールであるというだけの話であって、世の中の森羅万象がそれで説明できるわけではない。従って、灰色の被告人を無罪にしてしまえば、被害者遺族に申し訳ないことは当然のことである。この問題意識が共有できていない専門家には、びっくりして呆れることが、さらに被害者遺族の気持ちを逆撫でしているという現実の意味がわからない。

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