犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中央大学理工学部教授 殺害事件

2009-05-29 00:12:48 | 実存・心理・宗教
山本竜太容疑者(28)による犯行動機の供述

私は毎日毎日、警察官や検察官から、高窪教授を殺害した件について聞かれまくっています。事件当日のどうでもいい一挙手一投足にとどまらず、生まれてから大学入学、在学中、卒業後の転職に至るまで、本当に細かく聞かれて困っています。これは、取り調べが厳しいとか、拷問で自白を迫られるとか、そんな単純なことではありません。私は人生を賭けてこの殺人を実行した以上、話したいことは山ほどあります。それに、私の話を何でも聞いてくれて文字にしてくれる人も沢山いて、皮肉なことですが、とても恵まれた環境にいると思います。それなのに私は、なぜか語るに語れないのです。話したいのに上手く言葉にできない、そのイライラばかりが募ります。確かに、捜査官の聞き方は悪いですし、供述調書を作るための質問は下手だと思います。それにしても、毎日取り調べを受ければ受けるほど、私がそれを語るための言葉は遠ざかって行くように感じられて仕方がありません。大新聞までが大騒ぎして、私の犯行動機を明らかにしようと躍起になっていますが、私は台風の目の真ん中で白けています。

私は卒業後、5つの会社を転々としており、事件当時は給料の低いアルバイト店員でした。一度も私と話したこともない評論家の方々が、私はコミュニケーション能力がないとか、孤立して屈折した感情を抱いていたとか、好き勝手なことを言っているようですが、私の心など誰もわからないでしょう。仕事を辞めるというのは、別に飽きっぽいわけでも、堪え性がないわけでも、融通が利かないわけでもありません。私はいつも、その会社のために、そして同僚のために、居てはならない自分のほうで身を引いていました。誰しも、そこでずっと勤めようとの固い決意で入った仕事を、好きで辞めるわけではないでしょう。組織に馴染めずに逃げた者は、どのような理由があれ、敗残者です。私はどこでも真面目に一生懸命仕事に取り組みましたが、物覚えや要領が悪くて、足を引っ張ってばかりいました。理系で観念の世界を肥大させた者は、現実の職場では使い物にならないのです。そうは言っても、自分で自分の不甲斐なさを責めて落ち込んでいるときに、他人から厳しく叱責されることは、一気に破壊的衝動に向かいかねない複雑な感情を溜め込むものです。いずれにしても、私のような退職者は社会的不適応者とのレッテルを貼られ、陰で笑い者にされていても耐えるしか方法がありません。

なぜ大学を卒業して数年も経ってから教授を殺しに行ったのか、世の中の人は口を揃えて「動機がわからない」と言っています。当たり前でしょう。わかっているのは私だけです。その私ですら、最近は自分の動機が段々とわからなくなって来たので、これはもう誰にもわからないで終わるかも知れません。とにかく、周囲が「動機がわからない」と言って困っている光景には、渦中にいる張本人は笑うしかありません。現に私は高窪教授を殺したのですから、私には教授を殺す動機がありました。高窪教授は誰からも好かれる人柄で、殺されるような人ではなかったとの報道が多いですが、それはその通りでしょう。あくまでも私にとって、他の誰でもなく、その特定の人を殺さなければならなかったというのが、私の動機です。「高窪教授を絶対に殺されなければならない」とまで思い詰めた今の私を作りあげるのに決定的な影響を与えた人物は、他でもない高窪教授その人です。これが私の動機です。これでは理由になっていないと言われても、私にとっては、これ以上正確な動機を語ることはできません。従って私は、「労働条件への不満が教授への不満と結び付いて一方的に恨みを募らせた」とか、「自分の失敗を他人のせいにして逆恨みした」とか、ありきたりのことを適当に書かれてしまうしかないようです。

捜査官や精神科医からは、殺害の瞬間の心理状態も詳しく聞かれています。しかし残念なことに、私はその時は頭が真っ白で、振り返って言葉にできるようなことは何も記憶にありません。殺人という行為は、誰にとっても人生を賭けた大勝負で、その瞬間は無我夢中で理屈など存在しないのでしょう。今でこそ殺人はただの犯罪ですが、大河ドラマを見れば一目瞭然であるとおり、日本史に出てくる歴史上の人物は、そのほとんどが人を殺しています。教科書のどのページを見ても、○○の変、○○の乱、○○の戦いばかりです。古今東西の歴史では、殺人に肯定的な意味が付与されている時期のほうに圧倒的な長さがあります。「敵は本能寺にあり」と言えば時代の大転換をもたらした歴史上の人物となり、「敵は中央大学にあり」と言えば単なる刑事被告人ですが、人間の瞬間的な心理としては、両者の区別などできないでしょう。私にとっては、殺人を犯した後のことは眼中にありませんでした。発覚して逮捕されてしまったからには、粛々と今の時代のルールに則って、刑事訴訟法で裁かれるのみです。「誰にも自分を裁くことなどできない」と強がる必要もありません。それにしても、私がポロッと「卒業前の忘年会で先生から疎外されていると感じた」と述べた言葉を捉えて、「動機がわかった」と騒ぐのは勘弁してほしいです。


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単なる想像です。