犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中島義道著 『観念的生活』

2009-05-23 21:57:47 | 読書感想文
第9章「原因としての意志」より  p.137~

テレビでは、相も変わらず犯罪心理学者だとか精神医学者だとかが勝手なことをほざいている。こんな時、大幅に限られた視点で何を語ろうと、「真相はわからないのだ!」とカツを入れたくなる。意志と行為の間には、次の微妙な関係がある。一方で、まず「Xを殺す」という意志が行為から独立に原因として確認され、次に「Xを殺す」という行為が結果として確認されるわけではない。「Xを殺そう」という意志が「Xを殺す」という行為の原因である限り、この行為を実現できないいかなる心の状態も意志ではないのである。だが他方で、意志と行為はライプニッツの「不可識別者同一の原理」という意味で同一ではない。それは単に同一なものの2つの表現ではなく、意志が行為を引き起こすのであって、その逆ではない。この文法を維持する限り、行為を引き起こす以前の意志は無意味ではない。

なるほど、意志は行為を実現することをもって、初めて単なる願望ではない意志として判定される。だが、意志とはまだ行為を引き起こしてはいないが、行為(力)を引き起こす「力」ではなかったのか。とすると、なるほど行為を実現することをもって正式に意志であると判定されるのだが、判定以前の単に行為を引き起こす力を持つ段階をも意志として認めざるをえない。力学の場合は、玉突きの玉Aの運動量は玉Bに衝突する前に計測可能である。だが、意志の場合は行為から独立にその力を計測できない。それにもかかわらず、行為を引き起こす独特の力として「ある」のだ。ここには ―アンスコムが示したように― 意志は記述に依存することが絡んでいる。

ヒュームが「近接」を因果関係の要件としたように、意志を因果的に解釈する者は(デイヴィドソンがその典型であるように)、原因を自然主義的に解した上で、意志とは心の状態であり、その状態を何らかの物質的なものが支えている、と考えがちである。だが、原因としての意志を認める場合でも、その原因概念を動力因や質料因に限定する必要はないのだ。意志は、形相因や目的因とも深く関わっている。形相因としての意志は、現在の意志行為を説明する際に役立つ。例えば、私はいまずっと座っているが、夢遊病でない限り、「座ろう」という意志を持っていなければならない。歩いている限り「歩こう」という意志を、食べている限り「食べよう」という意志を持っていなければならない。とはいえ、私は刻々とそれを実現しようと励んでいるわけではない。

多様な状態が意志として適格であるためには、公共的承認が必要であることがわかる。われわれは他人の意志を(当人の心理状態を含めて)決定する権利を持っているのだ。意志は多くの場合秘匿的なものではない。上司をビルの上から突き落とした男は、「突き落とす」意志と並んで「殺す」意志もあったとみなされてしまうのである。これに関係して、次のような微妙な例が問題になる。揉み合っている時、彼には彼女を殺す意志はなかった。だが、その直前まで明確な殺意があった。この場合、彼は彼女を「殺した」のか、そうではないのか。難問に見えるが、意志は行為者の心理状態だけで決まるものではなく、(それをも加味して)公共的に決まることを想い起こせば、無理やり一つの正解に達する必要もない。


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中島氏が裁判員に選ばれて、裁判官や他の裁判員と噛み合わない論争を繰り広げるところが見てみたいです。恐らく、裁判長と中島氏が顔を真っ赤にして一歩も引かず、被告人はその存在を忘れられて放置されるのでしょう。

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